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2016年08月09日

第318回 夜逃げ







文●ツルシカズヒコ




 葉山に住んでいたコズロフが、鎌倉の大杉宅にふとやって来たのは、十月初旬のころだった。

 コズロフはしきりに何かを大杉に訴えていたが要領を得ず、大杉は何を言っているのかわからないまま、大杉がよくやる手でウンウンと頷いてわかったような顔をしていた。

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『分りましたか?』

 云ふだけの事を云つて了つたあとで、コズロフは日本語で云つた。

 僕は顔をあげて彼れの顔を見た。

 すると、不思議な事には、一と言も分らなかつた彼れの話しの意味が、ふいと僕の頭にはいつて来た。

 僕は、コズロフには『分りました』と笑つて答へて置いて、別の部屋にゐた村木を呼んだ。

『先生夜逃げをしたいと云ふらしいんだがね。君一つ、よく話を聞いて、手伝つてやつてくれ給へ。』

 僕は村木にさう頼んで置いて別の部屋へ引き下つた。


(「コズロフを送る」/『東京毎日新聞』1922年7月29日から13回連載/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』/日本図書センター『大杉栄全集 第14巻』)





 英語での会話ができない村木と、ほんの片言の日本語しかしゃべれないコズロフが、しきりに手真似足真似で何かを話していた。

 村木が厄介そうな顔をして大杉の部屋に入って来て言った。

「やっぱり夜逃げなんです。女房と子供はひと足先にもう横浜にやってあるが、今晩そっと荷物を持って逃げたいと言うんで、今からすぐ来てくれって言うんです」

「しょうのない奴だな。しかし、まあ仕方がない。行ってやってくれ」

 大杉もはなはだ厄介だと思ったが、肺を患って大杉の家にゴロゴロしていた村木に、改めて厄介ごとの助っ人を頼んだ。

 大杉がコズロフのいる部屋に行くと、さっきまでの彼の沈んだ顔はどこかへ行き、ふざけすぎるほどの快活さで、

「オスキさん、ヨニゲです、私今晩ヨニゲです」

 などと、村木から教わったばかりの夜逃げという言葉を面白そうに繰り返していた。

 コズロフは前年十月から横浜・山下町の商社にタイピストとして勤務していたが、失業したらしかった(大杉豊『日録・大杉栄伝』)。





 暗くなつたら直ぐに出かけると云つてゐたから、どんなに遅くなつても、十二時前には着くだらうと思つてゐたが、一時になつても二時になつても来なかつた。

 僕等夫婦は村木が途中でへたばつたのぢやないかと心配してゐた。

 そしてとうたう、夜明け頃になつて二人が一台の大きな車を引いて、へと/\になつてやつて来た。

『実際、トンネルのところで一たんはへたばつたのですがね。コズロフが薬をやると云ふから飲んでみたら、ひどい奴で、アルコオルを飲ませやがるんです。それでも薬はたしかに薬で、それで又元気が出ましたよ。』

 と村木は青い顔をして汗をふいてゐた。


(「コズロフを送る」/『東京毎日新聞』1922年7月29日から13回連載/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』/日本図書センター『大杉栄全集 第14巻』)





 コズロフは二週間ばかり大杉の家に潜伏し、ある夜、秘かに大杉の家のまわりの厳重な警戒を突破して、脱出に成功した。

 コズロフが脱出した後、大杉は三日ばかりときどきひとりで大声で英語を話し、コズロフがまだ大杉の家にいるかのようにカモフラージュした(「日本脱出記」)。

 コズロフ一家は神戸に滞在することになったが、この夜逃げのおかげで大杉家はコズロフの債権者に攻められ、彼が残していった家賃の一部を払わされた。

 コズロフをお得意にしていた鎌倉の「亀谷」という西洋食品店は、大杉家もよく利用していたが、それ以来、御用を聞きに来なくなった。

 コズロフと親交のある大杉家も危ないと思ったからである。

 その後、大杉と村木はコズロフの話が出るたびに、この夜逃げのことを思い出し、笑って話すのだった。

「……毛唐の夜逃げというのは初めて見たな」



★『大杉栄全集 第四巻』(大杉栄全集刊行会・1926年9月8日)

★『大杉栄全集 第14巻』(日本図書センター・1995年1月25日)

★大杉豊『日録・大杉栄伝』(社会評論社・2009年9月16日)



●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 13:44| 本文

2016年08月08日

第317回 有名意識






文●ツルシカズヒコ



 野枝は『改造』九月号(第二巻第九号)に「引越し騒ぎ」(『定本 伊藤野枝全集 第三巻』)、『婦人世界』九月号(第十五巻第九号)に「婦人の不平は意志の欠乏から」(『定本 伊藤野枝全集 第三巻』)を寄稿した。

『定本 伊藤野枝全集 第三巻』解題によれば、「引越し騒ぎ」の目次には「(社会主義者奇譚)引越さはぎ」というコピーがついている。

「婦人の不平は意志の欠乏から」は「現代婦人の不平」特集欄の一文で、他に山田わか、西川文子、厨川蝶子、平塚明子、帆足みゆき林歌子、神近市子など十七名が執筆している。

 以下、抜粋要約。

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 ●不平と愚痴は一切言わないことにしたいと私は思っている。

 ●愚痴や不平ほど見苦しいものはありません。

 ●諦められることは綺麗さっぱりと諦めればいいし、それができないなら不平や愚痴をならべるより、自分の気がすむまでその事実にぶつかっていくことです。

 ●誰でも不平や不満はありますが、それに積極的にぶつかっていく意志のある人は少ないようです。

 ●日本の女たちにもっと強情に、我がままになってほしいと思います。

 ●本当に生きがいのある生活を享受するには、どこまでも積極的な生活をしなければなりません。

 ●強い意志の生活をしなければ、とうてい強い生活をすることはできません。

 ●日本人の生活は非常に消極的であるが、女はより消極的に教育されてきた。

 ●自分ひとりの生活を自分でつくり出すことが、不道徳とされてきた。与えられた生活に満足しないと、不道徳の者と扱われます。

 ●自由に観て考えることを、学校教育は非常にいやがります。

 ●正しい真理探究の知識欲の芽は、現代の学校教育ではできるだけ刈り取られるのが普通です。

 ●婦人の場合は、妻として母としての準備にのみ没頭させて、他人の保護の下に生きることを最大の要件として教育します。

 ●教育者は人生に対する根本的な知識を授けることができません。だから生徒は不屈の意志を養うことができません。

 ●教育者は消極的な生活のみを讃美します。

 ●私は思います。これからの若い娘さんたちが、強い意志を持った人になってくれるといいと。
 
 ●教えこまれることを鵜呑みにせず、自分で判断するだけの知識を持つこと、不必要な教育を拒絶して自分に必要な自己教育をするだけの意志をぜひ持ってほしいものです。

 ●女学校を卒業すると、娘たちの両親は娘の結婚のことばかり気にしています。

 ●しかし、ようやく社会のことがわかり始めのは二十歳をすぎたくらいです。それから四、五年しっかり知識 を身につけてから結婚を考えるのがベストではないかと、私は思います。

 ●現在の婦人たちに一番欠けているのは強い意志です。それは自力で獲得するしかありません。

 ●一身上のことは一切、他人に頼らず、他人から干渉されずに、解決するという覚悟が不可欠です。





 九月八日、大杉は横浜・吉田亭で開かれた社会問題研究会で演説、解散命令により屋外で演説し同志たちと革命歌を歌うなどしたため、大杉ら七名が伊勢佐木署に検束され、大杉は公務執行妨害で送検された(大杉豊『日録・大杉栄伝』)。

 九月のある日、比叡山から下山した宮嶋資夫が帰京途中に鎌倉の大杉宅を訪れた。

 宮嶋資夫「遍歴」によれば、そのとき宮嶋は桧の笠をかぶり太いステッキを持っていたが、それは山の上の生活で自然に身についたものだった。

 それを見た大杉がこう言ったという。

「その格好で東京を歩き廻ったら、じき有名になるよ」

 宮嶋は変なことを言うなと思ったが、そのときはあまり気にかからず、「東京に帰ったら、すぐ帽子くらいは買うよ」と答えた。

 後にいろいろなことを考え合わせてみた宮嶋は、大杉が持っているあるものの見方、考え方にハタと気づいたと書いている。





 つまり葉山で野枝を擲つたのも、比叡山で暮したのも、桧の笠もステッキも、みんな私が有名になるために意識的にやつた事と彼は解釈してゐるようであつた。

 私は呆れてしまった。

 そういう風に彼の眼に映つた私には何かがつがつした所があつたかも知れない。

 が、私は自分の売名のために行動した事は曽てない。

 自体私共のように都会で生れ育つた人間には、有名意識といふものは余りないのである。

 地方の人は風を望んで都会に上り、錦を着て故郷に帰ることを思ふが、都会人には上るべき都もなければ、帰るべき故郷もなく、そして身辺には有名人がうようよゐる。

 閣下も侯爵も同じ電車に乗つてゐるし、一世に名高い芸能人も街頭を歩いてゐる。

そしてそれ等の人に会つて話をして見れば、何も変つたとこのないただの人間である。
 
 従つて、有名になるといふことをそれほど有難い事とも思はないし、お酌が役者の素顔を見たがるように、有名人を見たいとは思はないのである。


(「遍歴」/『宮嶋資夫著作集 第七巻』)



★『定本 伊藤野枝全集 第三巻』(學藝書林・2000年9月30日)

★大杉豊『日録・大杉栄伝』(社会評論社・2009年9月16日)

★『宮嶋資夫著作集 第七巻』(慶友社・1983年11月20日)



●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 17:11| 本文

2016年08月07日

第316回 コミンテルン(一)






文●ツルシカズヒコ




 一九二〇年八月十七日、「社会改造運動の闘将養成」を目的にした、山崎今朝弥主催の平民大学夏期講習会が大杉宅で開催され、受講生二十人ばかりがやって来た(大杉豊『日録・大杉栄伝』)。

 開始してすぐに解散を命じられたので、鎌倉署の署長に向かって大杉が馬鹿だの野郎だのと抗議、鎌倉中の評判になり、家主からの立ち退き話にまでなった(「鎌倉の若衆」/『労働運動』一九二一年二月一日・二次二号/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』/日本図書センター『大杉栄全集 第14巻』)。

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 このころ大杉は「新獄中記」を執筆していたが、その原稿に三月に出獄して以来、運動不足で太ってきたと書いている。


 出た当座の十四半のカラが今では十五半になり、九文七分の足袋が十文になり、六寸五分の着物が七寸三分になつた。

 目方も三貫近く増えて、十六になん/\としてゐる。


(「新獄中記」/『漫文漫画』・1922年11月・アルス/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』/日本図書センター『大杉栄全集 第14巻』)


 カラ(首回り)はオックスフォードシャツサイズのインチであろうから、十五半は三十九センチ、十文の足袋は二十四センチ、体重十六貫は六十キロである。





 この八月ごろ、大杉と和田久太郎と近藤憲二が大森の山川均宅を訪れた。

 菊栄は病気のために転地していて、均はひとりで自炊生活をしていたので、大杉たちが焼豚を手みやげに訪れたのである。

 三歳になった振作もいた。

 四人の話はいつのまにかロシア革命の批評になっていた。

 焼豚がつきたころ、大杉が思い出したようにこう言った。
 

『一たい、クロポトキンがパンの略取の中に描いたやうなあんな理想的の社会が、革命後にすぐに実現するものだらうか? 君はどう思ふ? すると思はれるかい。』

『無論、しないに極まつてゐるよ。』

『ウン、僕にもそんな気がするんだ。然し……。』


(山川均「大杉君と最後に会ふた時」/『改造』1923年11月号)


 大杉のこの「然し」をきっかけに、もう一度話に花が咲いた。





 生産者のデイクテートル・シツプという思想は、早くからアナキストのうちにも唱へた者がある。

 地方々々に於けるソヴイエトの執政はよい。

 然し地方のソヴイエトの権力を集中して、中央政府を造つたのが悪るい。

 ボリセヰキは秩序の恢復を急いだために、もつと進展する筈の革命を縊びり殺したのだ。

 外国の武力干渉に対抗するためには、バルチザンで沢山だ。

 赤軍の必要はない。

 要するにロシアを革命状態のうちにおいたまゝ、もつと撹きまぜてをれば、クロポトキンの理想通りの社会が実現せぬまでも、もつと善い社会が其中から生まれてゐたに相違ない。

 これが大杉君の結論であった。

 四人は暫く黙つてゐた。


(山川均「大杉君と最後に会ふた時」/『改造』1923年11月号)





「日本脱出記」と大杉豊『日録・大杉栄伝』によれば、二十三歳の朝鮮人の青年が鎌倉の大杉宅をふいに訪ねて来たのは、一九二〇(大正九)年八月の末ごろだった。

 青年は上海の朝鮮仮政府の主要な地位にいる同志の使者として来た李増林だった。

 近く上海で開かれるコミンテルン極東社会主義者会議に、日本の代表者として大杉に出席してくれないかという要請だった。

 李は大杉に会う前に堺と山川に要請したが、断られたという。

 李をどこまで信用していいのか皆目わからないし、極秘性の高い案件なので社会主義同盟の同志に謀るわけにもいかず、堺と山川が断ったのも無理はなかった。

 しかし、大杉は快諾した。





 ……一二時間と話ししてゐるうちに、M(※李)が本物かどうか位の事は分る。

 そして本物とさへ分れば、其の持つて来た話しに、多少は乗つてもいい訳だ。

 しかも堺や山川は、当時既に、殆んど、或は全くと云つてもよかつたかも知れない、共産主義に傾いてゐたのだ。

 が、堺や山川の腹の中には、それよりももつと大きな、或物ものがあつたのだ。

 それは危険の感じだ。

 ……まかり間違ふと内乱罪にひつかけられる恐れがある。

 これは其の当時僕等が皆んな持つてゐた恐怖だ。

 そして此の恐怖が、堺や山川をして、上海の同志の提案にまるで乗らせなかつた、一番の原因なのだ。

 Mは其の事は十分に知つてゐたやうだつた。

 そして僕が……『よし行かう』と一言云つた時には、彼れは寧ろ自分の耳を疑つてゐるかのやうにすら見えた。


(「日本脱出記」/『改造』1923年7月号/『日本脱出記』・アルス・1923年10月/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第三巻』/日本図書センター『大杉栄全集 第13巻』)


★大杉豊『日録・大杉栄伝』(社会評論社・2009年9月16日)

★『大杉栄全集 第四巻』(大杉栄全集刊行会・1926年9月8日)

★『大杉栄全集 第14巻』(日本図書センター・1995年1月25日)

★『大杉栄全集 第三巻』(大杉栄全集刊行会・1925年7月15日)

★『大杉栄全集 第13巻』(日本図書センター・1995年1月25日)




●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



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2016年08月05日

第315回 幸子






文●ツルシカズヒコ



 さて、大杉は九人兄弟(姉妹)の長男であり、五人の妹と三人の弟がいたが、ここで整理してみたい。

 長男・栄(一八八五年生・一九二三年没)

 長妹・春(一八八七年生・一九七一年没)/中国・北京在住。三菱商事北京支店長・秋山いく禧・いくぎと結婚。※『定本 伊藤野枝全集 第三巻』解題(書簡・柴田菊宛て・一九二二年十一月二日)

 次妹・菊(一八八八年生・一九八一年没)/アメリカ在住。柴田勝造と結婚。

 長弟・伸/のぶる(一八九〇年生・一九二二年没)/中国・漢口在住。三菱商事漢口支店勤務。

 三妹・松枝(一八九三年生・一九五八年没)/中国・天津在住。軍の通訳書記官・牧野田彦松と結婚。

 次弟・勇(一八九四年生・一九四六年没)/横浜在住、電気会社の技術者。

 三弟・進(一八九七年生・一九八〇年没)/神戸在住、電気会社の技術者。

 四妹・秋(一八九八年生・一九一六年没)

 五妹・あやめ(一九〇〇年生・一九二九年没)/アメリカ・ポートランド在住。レストラン料理人・橘惣三郎と結婚。

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 四妹・秋は日蔭茶屋事件で縁談が破談になり自殺したので、この時点で大杉には四人の妹と三人の弟がいた。

 七人の弟、妹のうち五人がアメリカと中国に住んだのは、官憲の監視を避けたからだという(大杉豊「大杉栄を受けとめた弟妹と娘たち」/『新日本文学』二〇〇三年九月・十月号)。

 ちなみに『日録・大杉栄伝』の著者、大杉豊は大杉勇の子息である。

 一九二〇(大正九)年の七月下旬、大杉の長弟・伸と、三妹・牧野田松枝が鎌倉の大杉宅を訪れた(『日録・大杉栄伝』)。

 大杉の長妹・春の夫は三菱北京支店長をしていたが、伸はその伝手で三菱漢口支店に就職していた(「大杉栄を受けとめた弟妹と娘たち」※以下、特に資料を提示していない伸と松枝に関する記述は『日録・大杉栄伝』と「大杉栄を受けとめた弟妹と娘たち」を参照)。

 天津在住の松枝は、天津で軍の通訳書記官をしていた牧野田彦松と結婚していた。

 伸は社用で帰国すると大杉の家によく来ていたので、このときは伸と松枝が一緒に帰国し、大杉の家を訪れたようだ。

 大杉は安谷に伸をこう紹介した。


『僕のとこの変り種で、こいつ一寸違ってるんだ、何だか薬や歯磨きなどを仕入れてシナからモウコの奥に行くんだって、歯磨きや仁丹で大概の病気が治るので、珍しい石とか毛皮など貰って来ると云ふんだ、何だか面白いじゃないか!』

(安谷寛一「晩年の大杉栄」/『展望』1965年9月・10月号)





 伸と松枝は大杉宅に二、三日滞在し中国に戻った。

 そして大杉家から生後七ヶ月の次女・エマの姿も消えた。

 松枝の来訪はエマを養女に貰いたいという懇望のためだった。

 大杉と野枝は、結婚後九年、子供がいない松枝に同情してしぶしぶ承諾した。

 松枝は喜び、大杉と野枝の気持ちが変わらないうちに、エマを連れてすぐに中国に帰ったのだった。

 安谷は野枝と次女・エマの別れについて、こう書いている。


『エマ、もう今日あたり連絡船に乗るわネ』

 野枝さんが思い出してポツンとそんなこと云った。

 このママ平気かなと思っていたが、やっぱり気になっていたらしい。


(安谷寛一「晩年の大杉栄」/『展望』1965年9月・10月号)





 エマは八月、「幸子」と改名され牧野田夫妻の養女として入籍された。

 大杉はエマの改名についてこう書いている。


 ……第二の女の子は、其の母親によつて、エマと呼ばれた。

 が、此の子は、生れると直ぐに、僕の妹の一人に殆んど搔つさらはれて行つて、さち子と云ふ飛んでもない名に変へられて了つた。


『二人の革命家』序・アルス・1922年7月/『労働運動』3次6号・1922年8月に一部省略して掲載/日本図書センター『大杉栄全集 第7巻』)





 牧野田幸子(結婚後、菅沼幸子)は天津の小学校卒業後、静岡英和女学校に入学。

 幸子の寄宿先は、アメリカから帰国して静岡市に在住していた叔母・柴田菊(大杉の次妹)の家だった。

 幸子が生みの親のことを知ったのは、静岡英和女学校の学生時代だったという。


 私が両親のことを知ったのは、十五歳の時だった。

 その家の洋間の本棚には、『大杉栄全集』『伊藤野枝全集』などが並んでいた。

 ある日、従妹と、その洋間でおしゃべりをしていた。

「話に聞いていた物書きの叔父さんて、この人なのね。何が書いてあるのかねェ」と言いながら、パラパラ頁をめくると、家族の写真の斜め上に、丸く囲まれて、なんと私の写真がある。

 おかしい、なんの間違いかと、次の頁を繰ると、系図が出ていた。

 その中に、長女魔子、次女幸子とあった。

 もう疑いようのない事実に、一瞬は胸を衝かれたが、父も母も、すでに亡き人達のことでもあり、「それはそれで」と心の中に呟いて、そうだったかと納得のようなかたちで、隅っこに押しやった。

 それより何より、従姉と信じていたマコが、姉だったことの喜び、妹が二人もいる。

 今宿には祖父母もいた。

 そして兄たち二人も現われて、嬉しさの方が大きかった。


(菅沼幸子「伊藤野枝 はるかなる存在のひと」/『いしゅたる』十号・1989年2月/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』「月報1」・2000年3月)





 幸子が手にしたのは『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』(大杉栄全集刊行会・一九二五年十二月)である。

 幸子は実母についてこう記している。


「あんたのママはお産しても、翌日から腹這いになって原稿用紙に向い、赤ん坊が泣こうが、おむつが濡れようが、夢中になって何か書いていた人だった。いよいよ、あんたを連れて出発する日、東海道の国府津まで送ってきて、そこで下車し、汽車がゴトンと動いたとたん、あんたのママは、大声をあげて泣き出した」、と養母は話していた。

 生後一年目の写真を養母が送ると、あの忙しい母から、白羽二重の生地に鶴と松の模様の日本刺繍を、自分で刺した写真立てが送られてきた。

 それが長い間、箪笥の上に飾られていたのを覚えている。

 その後、えんじ色の絹にこまかい梅の花模様の、綿入れの被布と長着が、やはり自分で手縫いして送られてきた。

 日本のおいもを「幸ちやん」に食べさせてやって、という手紙と一緒に、さつま芋がたくさん届き、その手紙も後に見せてもらった。

 そんな風で、泣きわめく赤ん坊にもかまわず、原稿用紙に向っていた母親も、遠くへ手離した親心というのは、はるばるとこうしたかたちに、”母の想い”を託していた様子である。


(菅沼幸子「伊藤野枝 はるかなる存在のひと」/『いしゅたる』十号・1989年2月/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』「月報1」・2000年3月)


★『定本 伊藤野枝全集 第三巻』(學藝書林・2000年9月30日)

★大杉豊『日録・大杉栄伝』(社会評論社・2009年9月16日)

★『大杉栄全集 第7巻』(日本図書センター・1995年1月25日)

★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)

★『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』(大杉栄全集刊行会・1925年12月8日)



●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



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2016年08月04日

第314回 航海記






文●ツルシカズヒコ


 一九二〇(大正九)年六月十五日に開かれた労働運動同盟会の例会で、岩佐作太郎尼港事件パルチザンを話題にした。

 大杉はパルチザンについてこう書いている。

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 パルチザンの首領が何んとか云ふ無清酒主義者で、其の秘書官がやはり何んとか云ふヒステリイ性の食人鬼、女無政府主義者だ、と事ふ(ママ/※「云ふ」であろう)やうな事も、誰も問題にはしなかつた。

 厄介な手に負へない奴は、何処ででも皆な無政府主義者にして了ふのだ。

 ただ、皆んなの注意をひいたのは、パルチザンと云ふ戦術の一形式だ。

 パルチザンは正規軍ではない。

 即ち、ちやんとした組織のある、旗鼓堂々の、立派な軍隊ではない。

 二人でも三人でも、或は五人でも十人でも、一種の自由軍を形づくつて、敵のすきを窺つては不意打ちをし、それが済めば又知らん顔をして、家に帰つて働いてゐる、と云ふ、実際厄介な、ちよつと手に負へない奴等だ。

 嘗つてナポレオンがロシアに侵入したとき、モスコオで大火に会つて……遂に退却を余儀なくされた際……此の自由軍の不意打ちに会つて、散々悩まされた。

 其の事はトルストイ『戦争と平和』なぞにも詳しく書いてある。

 ロシアのボルシェヰ゛キは、赤衛軍と云ふ正規軍を造つて、外国軍や反革命軍に対抗してゐる。

 しかし、若し此のパルチザンが十分に発達すれば、革命にはそんな常備軍の必要ななくなるだらう。

 又、革命政府などと云ふものの必要もなくなるだらう。

 尤も、其のパルチザンで、こんどのやうな虐殺ばかりやるようでは、甚だ困りものだが。


(「パルチザンの話」/北風子の筆名で『社会主義』一九二〇年九月号に掲載/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』)


 また大杉豊『日録・大杉栄伝』によれば、橋浦時雄が「大杉君は日頃無政府主義ではなく大杉主義だ、と言つているとのことだが説明してほしい」と質問すると、大杉は「僕は無政府主義だ。ただ外国の主義そのままではないということだ。多少はクロポトキンの思想を基にしているが」と答えた。





 この年の六月から七月にかけて、安谷寛一が大杉宅に寄寓していた。

 大杉豊『日録・大杉栄伝』によれば、大杉が安谷を呼び寄せたのは、安谷の勉強も兼ねて『昆虫記』の翻訳の手伝いをさせるためだった。

 大杉はこまめに辞書を引く主義だった。

 大杉が鎌倉に引っ越したのは贅沢をするためではなく、債稿(原稿料を前借りしてまだ仕上げていない原稿)を片づけるためだった。

 同志の出入りが多い本郷区駒込曙町の労働運動社では、集中して仕事ができないからだ。





 村木は、毎日お勤めのように出かけては夕方になると、私にとビールを一本持って帰って来た。

 材木座の氷屋とかに手伝いに行くのだと云っていた。

 私は辞書ひき、そして野枝さんの話し相手、つまり私達に仕事を持たせて話しかけさせない手段だった。

 それに野枝さんもダアウィンの『航海記』をひねりまわしていた。


(安谷寛一「晩年の大杉栄」/『展望』1965年9月・10月号)





 大杉の訳稿「蟷螂の話」は『新小説』七〜八月号に掲載され、「行列虫の話」は『改造』九月号に掲載された。

 ダーウィン の『航海記』を翻訳中の野枝について、安谷はこう記している。


 丁度その頃、野枝さんはダァヰンの航海日記の翻訳をしてゐたが、その傍で寝はらばつて雑誌を読んだり午睡したりしてゐる私に、その難解なヶ所をよく尋ねた。

 それが余り熱心なので、つひ引き入れられて、ほかの字引をひいて見たりもしたが、なんでもそれは船や航海上の専問(ママ)語のやうなものなので、たいてい好い訳語は見つからなかつた。


(安谷寛一「野枝さんを憶ふ」/『自由と祖国』一九二五年九月号)





 七月二日、野枝と大杉は新橋駅の楼上にある東洋軒で開かれた、山川均・菊栄夫妻の帰京歓迎会に出席した。

 山川夫妻は均の老母が重体のため、前年十二月に一家で倉敷の均の実家に帰省、四月に老母の死を看取り、半年振りに帰京したのである(山川菊栄『おんな二代の記』)。

 七月五日『読売新聞』(朝刊)に与謝野晶子、堺真柄、山川菊栄、望月百合子、伊藤野枝、岡本かの子、堺為子の集合写真が掲載されている。



『ビーグル号航海記』


★『大杉栄全集 第四巻』(大杉栄全集刊行会・1926年9月8日)

★大杉豊『日録・大杉栄伝』(社会評論社・2009年9月16日)

★山川菊栄『おんな二代の記』(岩波文庫・2014年7月16日)



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2016年08月02日

第313回 クロポトキンの経済学






文●ツルシカズヒコ




 一九二〇(大正9)年六月一日、『労働運動』第一次第六号が発刊された。

 大杉は「社会的理想論」「新秩序の創造」「組合運動と革命運動」(いずれも大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第二巻』/日本図書センター『大杉栄全集 第6巻』)などの論文を書いている。


 ……人生とは何んぞやと云ふ事は、嘗つて哲学史上の主題であつた。

 しかし、人生は決して、予め定められた、即ちちやんと出来あがつた一冊の本ではない。

 各人が其処へ一字々々書いて行く白紙の本だ。

 生きて行く其の事が即ち人生なのだ。

 労働運動とは何んぞや、と云ふ問題にしても、やはり同じことだ。

 労働問題は労働者にとつての人生問題だ。

 労働者は、労働問題と云ふ此の白紙の大きな本の中に、其の運動によつて、一字一字、一行々々、一枚々々づつ書き入れて行くのだ。


(「社会的理想論」/『労働運動』1920年6月1日・第1次第6号/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第二巻』/日本図書センター『大杉栄全集 第6巻』)


 意気軒昂だが、第一次『労働運動』はこの号で終刊になった。

 大杉が書いた「編集の後で」(大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』/日本図書センター『大杉栄全集 第14巻』)によれば、「経営困難」が主な理由である。

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 野枝は『改造』六月号(第二巻六号)に「『田園、製造所、工場』−−クロポトキンの経済学」(大杉栄著『クロポトキン研究』に初収録/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第二巻』/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』)を書いた。

 以下、その要約。

〈一〉

 ●クロポトキンの『パンの略取』は、無政府共産主義の建設的側面、とくに経済的側面について書いた名著で、これを書くことによって文明諸国の経済的生活に研究を進め、その結果として出版したのが『Fields、Factories and Workshops』である。

 ●経済学の使命は、人類の欲求を最少限度の精力の消耗で満たすための手段方法の研究でなくてはならない。

 ●従来の経済学者は人間の欲求を満足させる手段を考える際に、まず「生産」を論じた。「消費」という重要な点を軽んじていた。富の分配の与ることができない大多数の者については振り向いても見ない。

 ●まずそれを必要とする欲求が起こって、それで物は造り出されるのではないか?

 ●人が狩猟をし、耕作をし、道具を作り、機械を発明するようになったのも必要から生じたものではないか?

 ●すなわち、人間の欲求が生産を支配するのであり、人間の欲求に添わない生産が人間の生活を支配してはならない。

 ●経済学者は「生産は万人の欲求を充分満たし得ている」というが、今日、世界中のどこの国でも、食べるためという極めて切実な欲求を満たされずにいる人間の方が多い。

 ●生産組織に誤りがあるのなら、その改造を研究することが、今日の経済学者のさし迫った重大な任務なのである。

 ●もしそうした視点から研究されたら、従来の経済学は根底から覆されてしまうかもしれない。

 ●人間の精力の恐るべき浪費を明白に証拠立て、現存の制度があるかぎり、人間の欲求は決して充たされないことを認めることになるからだ。

 ●従来の経済学者は、生産過剰が恐慌を引き起こす唯一の原因だと躍起になって主張しているが、はたしてそうであろうか?

 ●ロシアの農民がヨーロッパに輸出する小麦は、余剰の小麦ではない。ヨーロッパロシアの豊穣な小麦の収穫でも、やっと人民に足りるだけのものなのである。

 ●英国が世界に輸出する石炭も、余剰の石炭ではない。幾百万の英国人は冬になっても火に暖まることができずに、少々の野菜を煮るくらいがやっとである。

 ●それをどうして輸出してしまうのかというと、たとえば平民階級の安い賃金では自分で生産したものでも買うことができないからだ。

 ●生産過剰という言葉は、経済学者の恥知らずな妄言である。過剰と見られている莫大な輸出品は、みんな各国の貧乏な階級から剥ぎとった掠奪品である。

 ●生産過剰など、ありえないのである。

 ●クロポトキンは近代工業への依存を糺し、近代農業への可能性を見出した。両者の結合が文明社会に必ず利益ある効果をもたらすと考えた。

 ●彼は頭脳労働と手芸とを同時に行なわせるような教育の可能性も考えた。





〈二〉

 ●現在の生産組織を誤った方向に導いた第一のものは、アダム・スミスによって提唱された分業説である。

 ●分業によっては確かに生産を増やしたが、それは国民全体を富ますものではなく、富を擁している者だけをいっそう富ましただけである。

 ●さらに分業は人間にほんの一小部分の仕事しかできないことを強いる、例えばピンの頭だけを一生作らなければならぬ運命を背負わせ、そうした人間が馬鹿になり貧乏になるのは当然である。

 ●しかし、従来の経済学者はそれについては何も言わなかった。

 ●分業は人間の仕事に対する愛や、才能や、発明の精神を奪い、無知無能無気力の魯鈍(ろどん)な人間ばかりを作り上げる。

 ●社会主義者ですら分業説を是認する。改革中の労働組織も分業を維持しなけらばならないと言う。針磨きは生涯針を磨かねばならないと言う。

 ●分業は個人の一生だけにかかわる問題ではない。各国の産業の専門化を推し進める。

 ●ロシアやハンガリーは農業国としての運命を持たされ、ベルギーは毛織物の供給国の運命を担わされる。

 ●生産力を増すのに、仕事を専門化することはよい方法ではあるが、人間の性質をまったく無視した方法である。

 ●それよりは、各個人の趣味に応じ知力に応じて自由に能力を発揮させる工夫を凝らす方が、より自然で最善であると、クロポトキンは主張する。

 ●しかし、今や英国が世界の一大工業国で海外貿易の覇者だった時代ではない。

 ●フランスもドイツも産業の発展が目覚ましい。アメリカ合衆国の産業は全欧州を相手にするほどの大規模な発達をとげた。

 ●はるかに劣ったように見える亜細亜にさえ、日本、印度などの新工業国が起こるに至っている。

 ●阿弗利加や濠洲などが種々の需要品を自ら製造し得るのも遠い将来のことではないであろう。

 ●工業の分散は老舗の工業国の貿易を悲境に導く。すなわち、国外の旧い得意先を失くすのである。そこで恐慌が来る。恐慌は一八七〇年代から始まった。

 ●そこで恐慌を防ぐはけ口を植民地に求める。最近の植民地争奪は、このよう経済的事情が第一の原因なのである。

 ●しかし、植民地は無限にはない。
 
 ●その植民地も英国と印度、加奈陀、濠洲のように、母国の生産品を仰ぐどころか、世界の市場に競争しようという勢いである。

 ●こうなるとすべての生産品は自国の供給に充てるよりほかはない。

 ●恐慌が来ると「生産過剰、生産過剰」と言うが、生産過剰は事実存在しない。

 ●莫大な貨物を輸出する国内に、それらの貨物の必要を感じながら買えない多数の人間がいる。

 ●クロポトキンは謂う。

 ●「なぜリオンの織工たちが自分のために絹を織れないばかりでなく、茅屋(ぼうおく)で食べる物もない生活をしなければならないのか」

 ●「なぜロシアの百姓は自分が育てた穀物を売って、パンを焼くのにひと握りの粉の中に草の根や木の皮を混ぜなければならないのか」

 ●「なぜたくさんの小麦や米を産出する印度にはしばしば飢餓あるのか」

 ●資本家対労働者問題は世界の大問題になっている。

 ●これは非常に容易な問題だとクロポトキンは言う。

 ●「工業上の生産物や農業上の生産物は、その生産者の消費のためだけに生産されるようになればいいだけだ。そして、今、正しくその方向に向かって進みつつある」





〈三〉

 ●マルサスの人口論は、土地には限りがあるから、三十年ごとに二倍になる人口に充分な生活必需品を供給することはできないという。

 ●しかし、工業の驚くべ進歩による生産品の増加はマルサスの説を動揺させ、土地には制限があるというマルサス説の牙城も、最近の農業の非常な発展によって崩壊に向かっている。

 ●土地の良し悪し、気候、緯度に制限されない「農業の可能性」をクロポトキンは説明している。

 ●パリの市場園芸、果樹や蔬菜の高等栽培、農作物と加熱装置、アメリカの集約的農法、温室栽培……。

 ●最近の進歩した農業は、一定面積の収穫高を異常に高め、土壌を改良し、気候に左右されず、人力と機械と科学の可能性をつくして生産率を高めている。

 ●農業に費やす労力も今日のような奴隷のような労働の必要はない。植物のために必要な最小限の労働を楽しみながらやればよい。

 ●その他の時間に人は製造業に従事することもあろうし、芸術的な仕事、科学の研究、その他いろいろな仕事に従事することが可能になるだろう。





〈四〉

 ●農業と工業はさほど遠くない過去に、結合し提携していた時代があった。

 ●当時の村落は種々の工業を持ち、技術家も農業を親しみ、都市はひとつの工業的村落であった。

 ●中世都市の美術工業は富裕階級の要求を充たすものであったが、農村の製品は数百万の民衆の需要に応じたものだった。

 ●しかし現在では簇出した大工場によって、農業と小工業は絶縁されてしまった。

 ●数百万の労働者は土地を棄てて大工場に入り、農業が衰退した。

 ●しかし、大工場に吸収され都市に集中した労働者の悲惨な事情を知れば、資本と労働の現在の関係を改良せねばならないのは自明である。

 ●クロポトキンは第一に、工業国に農業を復活させること、その方法を発見することが急務と説いている。

 ●クロポトキンはこの答えを探すために、経済学者らには蔑視され見過ごされている農村工業、家内工業、職人的工業と呼ばれる小工業の研究をした。

 ●村落における工業は大工場の形式によらず、専門的知識と機械の助けを借りて農業に結びつけ、労働者は自分でいくらかの土地を持ってその土地を耕す、そうすれば人々は幸福な生活をすることができるという。

 ●工業と農業を提携させるために、手工時代に後戻りしろというのではない。機械に任せることができるものは、機械を利用すればよい。

 ●たとえば同じ機械を数百台も揃えた大きな紡績工場などは、製造の段階によって、あるいは製品の種類によって、国内の各地方に分散することが可能である。





〈五〉

 ●古くは、人々には手の労働を蔑視するような習慣はなかった。著名な科学者のその抽象的な研究が、手の労働を蔑視するようなことは皆無だった。

 ●今、我々は頭脳労働と手工労働とをハッキリ区別している。

 ●労働者は教育も受けず、その仕事に必要な知識すら与えられず、幼いころから働かされている。

 ●学者は研究にばかり没頭し、労働を軽蔑し、もしくは無視している。

 ●労働者はまったく無知な自働機械になり、学者は抽象論だけを得意気にしている。

 ●クロポトキンは頭脳労働と手工労働を結びつけるために、教育組織の改革を提示している。それは手を働かせ、脳髄を活動させ、人間の多方面の能力を引き出し、それらの能力を有効に利用して成り立つ社会が将来生まれることを暗示している。

 ●クロポトキンはモスコオの工芸学校の教育を賞賛している。

 ●二十歳くらいまでに、労働者と科学を応用して働けるだけの知識を習得させ、同時に工業的修練に基礎とするべき一般の知識を与えるような学校教育である。

 ●人間は数千年の間、食物を生産することを重荷にしてきたが、今日ではその必要はない。

 ●鉄工業のようなものは例外だが、工場はすべて農業と共存できるところに置かれるべきだ。

 ●人間が富を得るために、他人の口から奪う必要はないのだ。

 ●自己の能力の充分な活用、変化のある活動と生活、過労の必要のない仕事が、他人を苦しめて自分の幸福を図る必要のない社会を創り、人類を幸福に導く。

 野枝がミシンを購入して洋服作りを始めたのは、クロポトキンの頭脳労働と手仕事の両立という考えに刺激されたからではないだろうか。



★『大杉栄全集 第二巻』(大杉栄全集刊行会・1926年5月18日)

★『大杉栄全集 第6巻』(日本図書センター・1995年1月25日)

★『大杉栄全集 第四巻』(大杉栄全集刊行会・1926年9月8日)

★『大杉栄全集 第14巻』(日本図書センター・1995年1月25日)

★『定本 伊藤野枝全集 第三巻』(學藝書林・2000年9月30日)




●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



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第312回 ローザ・ルクセンブルク






文●ツルシカズヒコ




 野枝は『労働運動』第一次第五号に「堺利彦論(五〜九)」の他に、「外国時事」欄に「独逸労働者の奮闘」と「米国鉄道罷業」、および「ざつろく」(いずれも『定本 伊藤野枝全集 第三巻』)を書いた。

 一九二〇(大正九)年三月十三日、ヴァイマル共和政下のドイツにおいて、右派ヴォルフガング・カップによるクーデターが起きた(カップ一揆)。

 ベルリンを脱出した大統領フリードリヒ・エーベルトは、労働組合のゼネストによって右派に対抗したため、右派のクーデターは三月二十日に失敗に終わった。

 カップのクーデターに対して行われたゼネストは、ルール蜂起と呼ばれる大規模な左派の反乱の発端となる。

 この一連のドイツの政情をコンパクトにまとめたのが「独逸労働者の奮闘」である。

 ゼネストをリードした勢力のひとつがドイツ共産党・スパルタクス団だったが、スパルタクス団結成の首領だったローザ・ルクセンブルクは、前年の一月に反革命義勇軍によって殺害されていた。

 大杉がローザ・ルクセンブルクの写真入りの絵葉書を野枝に送り、野枝がそのお礼の手紙を大杉に書いたのは、五年前の一月だった。

 この年の四月にシカゴで鉄道労働者のストライキが起こり全米に拡大したが、「米国鉄道罷業」はその報告である。

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「ざつろく」は新婦人協会に言及している。

 三月二十八日、上野精養軒の大広間で新婦人協会の発会式が開催され、平塚らいてう、市川房枝、奥むめお三理事を中心に協会が運営されることになった。

 野枝は新婦人協会を手厳しく批判している。


 最近有名な知識階級の婦人達の手で生まれた『新婦人協会』は、其の社会的事業として、婦人労働者救済と云ふ方向にまで手をのばされるのださうです。

 しかし、此の、中流階級若しくは知識階級の人々の、婦人労働者救済と云ふ事は、労働者階級の婦人達に本当に徹底的な幸福を齎(もた)らすことは恐らくないでありませう。

 私は、『新婦人協会』そのものゝ為めにも、又婦人労働者の為めにも、『新婦人協会』が、余計な『お慈悲』を労働者階級の上に見せられぬ方が得策だと忠告申上げておきたい。


(「ざつろく」/『労働運動』1920年4月30日・第1次第5号/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』_p185~186)





 第一回メーデーが上野公園の両大師前広場で開催されたのは五月二日だった。

「鎌倉から」(『労働運動』一次六号/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』/日本図書センター『大杉栄全集 第14巻』)によれば、大杉は第一回メーデーの前日の昼にいつものトルコ帽と洋服で家を出て、その日は日比谷の服部浜次の家に泊まった。

 翌日、大杉と服部が上野に向かおうとすると、日比谷署の視察に「ちょっと署まで」と言われ、ふたりはメーデーの集会が終わるまで日比谷署に検束されてしまった。

 メーデーの当日は、葉山から聖上御還幸もあり、御召し列車は大杉宅の畑越しに一町ほどのところを通過することになっていた。

 前日、大杉の上京を見逃すというミスを犯した鎌倉署の監視が厳重になり、大杉宅の門の両側、庭に沿った垣根のそばに椅子腰掛けを持ち出した尾行がへばりついた。

 あまりの執拗さに腹を立てた野枝が、尾行を怒鳴りつけようやく少し遠くに追いやったが、その騒ぎは翌日の新聞に載った。

 大杉豊『日録・大杉栄伝』によれば、大杉の同志たちも労働運動社の黒地に赤いLMの旗を掲げてメーデーに参加、『労働運動』の号外を配布するなどしたという。





 五月十六日、大杉は福富菁児に「先月末、鎌倉へ引っ越した。停車場前で郵便物はつく。停車場を出て直ぐ左に曲がり、二丁程行った右側の新しい家」という文面の書簡を送った(『日録・大杉栄伝』)。

 五月二十八日、大杉と野枝の共著『乞食の名誉』(聚英閣)が出版された。

 野枝の「転機」「惑い」「乞食の名誉」と大杉の「死灰の中から」が収録されている。

『日録・大杉栄伝』によれば、五月のある日、近藤茂雄が大杉宅に来訪した。

 近藤が生前語った話によれば、散歩に出た大杉が江川ウレオという若者を連れて帰って雑談し、翌日、江川は友人の高橋英一を連れて来訪したという。

 ふたりはトルストイの『アンナ・カレーニナ』や『復活』について大杉に質問し、語った。

 このとき、江川は十八歳、高橋は十七歳だった。

 江川は翌年に映画初出演する江川宇礼雄であり、高橋はこの年に谷崎潤一郎・脚本の映画『アマチュア倶楽部』で俳優としてデビューする岡田時彦(芸名の名付け親は谷崎潤一郎)である。

 近藤は安谷寛一の同志であり、彼も後に神戸光の芸名で俳優になった。

 一九七〇(昭和四十五)年に公開された吉田喜重監督『エロス+虐殺』で、伊藤野枝を演じたのは岡田茉莉子だが、岡田時彦は岡田茉莉子の父である。

『エロス+虐殺』の公開は、岡田時彦が大杉に面会してからちょうど五十年後だった。

 岡田時彦は茉莉子が一歳のときに結核で死去、三十歳の早世だった。

『女優 岡田茉莉子』によれば、時彦は生前、茉莉子の母に「若いころ、大杉栄の家を訪ね、書生にしてほしいと言った」という。





 その父、岡田時彦は、私が生まれると、魔子と名付けようとした。

 それは大杉と野枝とのあにだに生まれた長女に、大杉が魔子と名付けていたからだという。

 そうした大杉と野枝を描く映画に私が出演していることを新聞で知って、母はなにか運命のようなものを感じて、私に話してくれたのだろう。

 もっとも母は、生まれたばかりの私が魔子と命名されては、将来お嫁に行くときの障害になると思い、「魔」と「子」のあいだに、母自身の名、利子の「リ」を加えて、「マリコ」としてほしいと父に懇願し、ようやく父は私の名を、鞠子としたのだという。


(岡田茉莉子『女優 岡田茉莉子』_p349)


 ちなみに谷崎潤一郎は岡田茉莉子という芸名の名付け親でもあり、谷崎は岡田時彦、茉莉子、親子二代の名優の名付け親になった。



★『定本 伊藤野枝全集 第三巻』(學藝書林・2000年9月30日)

★『大杉栄全集 第四巻』(大杉栄全集刊行会・1926年9月8日)

★『大杉栄全集 第14巻』(日本図書センター・1995年1月25日)

★大杉豊『日録・大杉栄伝』(社会評論社・2009年9月16日)

★岡田茉莉子『女優 岡田茉莉子』(文藝春秋・2009年10月30日)



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2016年07月31日

第311回 堺利彦論





文●ツルシカズヒコ




 野枝は『労働運動』第一次第五号に「堺利彦論(五〜九)」を書いている。

『労働運動』第一次第四号に掲載した「堺利彦論(一〜四)」(「堺利彦論」/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』)の続編である。

 「労働運動理論家」という人物評論欄に掲載されたものだが、大杉の「加賀豊彦論」(第一次第一号)、「鈴木文治論」(第一次第二号)、「加賀豊彦論(続)」(第一次第三号)に続く人物評論である。

「堺利彦論(一〜四)」の前書きによれば、この「堺利彦論」は山川均が執筆することになっていたが、山川が風邪を引き、急きょ、野枝が書くことになった。

 準備をする時間がなかったので、堺の近々の著書の中で読んだのは『労働運動の天下』だけだった。

 労働者向けに平易な文章で書かれた『労働運動の天下』は、新社会社から前年の十月に発行されたパンフレット第一冊、二十八頁、定価十銭。

 以下、抜粋要約。





〈一〉

 ●堺利彦氏は大らかな感情で目下の者を包んでしまうような物わかりのいい小父さん、些事にこだわらない太っ腹の親分、若者を引きつける中年の人の魅力を持っていると思う。

 ●『労働運動の天下』も、そういう魅力を持っている。

 ●実に見事な平明な文章には、他の人には真似できない親しみ深さがある。

 ●多くの労働者の信頼を得ることは間違いない。労働者の自覚を呼び覚ます上において、不可欠な人物である。

〈二〉

 ●氏は多くの人が知っているように、普通選挙運動をしている。

 ●氏は現在の資本制度がことごとく労働者の福利を蹂躙しつつある事実を挙げ、この事実に眼を開けと教える。

 ●そして氏は労働者の団結を説き、その団結力を利用せよと教える。

 ●一方、氏は資本の力を濫用しつつある政治を別な努力で改善しようとしている。

 ●労働者は団結の力で何をすべきか? 労働者団結の最後の目的は何か? 横暴な資本家といかに戦うべきか? 

 ●私はこれについて大胆に書く自由は持たないが、組合の威力と労働党の力、どちらが信頼できるかという質問をすることはできる。

〈三〉

 ●氏は政治的方向と経済的方向のふたつの方向を労働者に示した。

 ●しかし、労組者が具体的にどのように進めばいいのか、その道がいかなる道なのかという説明がない。

 ●氏はこう書いている。

「丈夫な組合ができれば、労働者の力は非常な強さになる。丈夫な組合を作って根強い動きをしていれば、労働者が威張れる時節が来る。私は諸君の働きに望みを託して、その時節が来るのを待っている。どうか諸君、自重自愛して大いにやってくれ」

 ●まるで組合がひとりでにできるようだ、ひとりでに大きくなるようだ、資本家がその敵対行動を黙って見逃してくれでもするかのようだ。





〈四〉

 ●ようするにこの不親切は、氏が理論家だからである。

 ●理論家は批評することは上手だ。将来の推定もする。断案も下す。しかし、実際問題の道行きには忠実な同行者ではない。

 ●彼らは理想を描いて見せるが、歩くときには一歩遅れる。将来を予言するから先導者と見なされる、自分もそう信じる。それが理論家の傲慢さだ。

 ●理論家たる氏に、実際問題に対する親切さを求めることが誤りなのかもしれない。

 ●しかし、また私は考える。今、私たちはかつて臨んだことのないような光栄ある時代に生きている。それは虐げられた平民階級とともに生きることである。

 ●時代を生きるということは、理屈を言うことではなく、事実を追って事実を創ることなのではないか。

 ●私は堺氏がただの理論家でないことを信じた。氏に不親切な態度をとらしめているものは何か?

 ●それは他人を子供扱いする、叔父さん的感情ではないだろうか。

 ●現在の日本の労働運動にとって失ってはならない堺氏の、若々しい激情を見たい、熱情を見たい。氏にはもう望めないことであろうか。

〈五〉

 ●いわゆる世間の裏も表も知りつくし、甘いも酸いも味わった苦労人という人がいる。

 ●苦労人の誇りは過去にしかない。現在においては疲れた人である。

 ●苦労人は新しく踏み出す勇気がない、アンビションもない。勇気とアンビションを持って踏み出す者がいると無謀と嘲る。

 ●苦労人は自若としている、あくまでも傍観者である。理解ある批評家である。激情を発しない。

〈六〉

 ●堺利彦氏は、日本における社会主義者の第一人者である。長い間、社会制度の不合理な欠陥を指摘し弾劾し続けてきた。

 ●そして常に愚劣な俗衆や内気な批評家よりは勇敢に一歩先を歩いていた。臆病者には真似のできないことだった。

 ●それが婉曲で老巧であったとしても、他人の言い得ないことを敢えて言い、進んで書いた。それは貴い熱意であった。

 ●今の氏には貴い熱意を抑えよう抑えようとしている。叔父さん的苦労人に収まろうしている。悪い趣味だと思う。

 ●氏はこの悪趣味と理想や熱意を合わせ持っているが、後者が本物の氏であると私は断言する。

 ●氏の悪趣味は初老近くになって落ち着こうとする、日本人の伝統的なものかもしれない。

 ●この退嬰(たいえい)的な悪趣味は、新思想を抱いて行動しようとする者にとっては、その思想や行動を阻むだけである。





〈七〉

 ●最近、労働問題の是非が盛んに論じられるようになり、氏の筆は活発に動いている。「我が時到れり」とまでの得意は見せないまでも、長い隠忍から得た蘊蓄(うんちく)を傾ける愉快さは格別であろう。

 ●氏には久しい言論の圧迫があった。今やとにかく氏の老巧な婉曲な筆をもってすれば、ほぼ書きたいことは書ける自由がある。

 ●氏の言論に味方する論客も簇出(ぞくしゅつ)したが、氏はそれで満足すべきなのだろうか。

 ●氏がもし満足しているなら、氏はもはや一社会主義者ではなく、卑怯な一理論家である。

 ●卑怯な一理論家に収まるなら、氏の生命には老衰が来たのだ。新しい世界を創造しようとする若い生命の味方ではない。目覚めつつある平民階級の真の味方でもない。

〈八〉

 ●過去から現在にいたるまで、社会主義者や無政府主義者がなぜ呪われ迫害され続けてきたのか? その答えはひとつしかない。即ち、彼らが単なる理論家ではなかったからだ。

 ●どんな剣呑な無政府主義思想も、それがただ哲学として受け取られていれば許されるが、その哲学によって生きようとする者は呪われ迫害される。

 ●現社会にとって最も許しがたいのは、理論を実行に移そうと企てる向こう見ずな冒険者たちである。

 ●今、世界は一大転機に直面している。日本の社会も著しく変化している。

 ●平民階級は日々に目覚め、育ちつつある。官学の学者ですら、かつては公然と話すのを憚(はばか)った理想について議論するようになった。

 ●目覚めた平民階級は、新しい勇気に満ちた冒険者である。新しい世界を創造するために新しい一歩一歩を踏みしめている。

 ●我がパイオニア! 堺利彦氏はもう動こうとはしないのだろうか。彼の仕事はもう終わったのであろうか。

 ●パイオニアは動かない。しかし、新しい冒険者は進んで行く。

〈九〉

 ●氏は過去に生活している人である。今、目覚めつつある平民階級に氏がこう言っているように思う。

 ●「長い間、私たちが待っていた時代がようやくめぐって来たらしい。私たちが言ったことは正しかった。それが解かったら、貴方たちは自分の幸福を索(さが)しなさい。行き着く先はもう見えている。軽はずみをしないで落ちついて行くがいい」

 ●しかし、氏はこう言うかもしれない。

 ●「我々のパイオニアとしての仕事はあれでいいのだ。もう済んだのだ。我々が今すべきことは、平民階級の勝利が来たとき、彼らを幸福にする社会をどう計画すればいいか。あるいは平民階級に理解を持たぬ者をいかに導き彼らに結びつけるか」

 ●私はもう余計なことは言うまい。老いぼれた氏になんの要があろう。



★『定本 伊藤野枝全集 第三巻』(學藝書林・2000年9月30日)

★『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』(大杉栄全集刊行会・1925年12月8日)



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2016年07月30日

第310回 不景気






文●ツルシカズヒコ


 大杉一家が鎌倉に引っ越した一九二〇(大正九)年四月三十日は、『労働運動』第一次第五号が発行された日でもあった。

 三月の株価暴落による不景気の到来、それによる労働運動の新たな展開について、大杉が書いている。


 とうたう不景気が来た。

 戦争中から、今に来るぞ、今に来るぞ、そして其時には険悪な労働運動が起こるぞ、と警戒されてゐた不景気がとうたう来た。


(「労働運動の転機」/『労働運動』1920年4月30日・第1次第5号/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第二巻』/日本図書センター『大杉栄全集 第6巻』)

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 大杉は前年(一九一九年)来の日本の労働運動の勃興の背景を、ロシアやドイツの革命とその他欧米諸国における急激な民主主義の刺激、あるいは物価騰貴による生活不安、そして一般経済界の好景気に乗じたものと分析している。

 しかし、と大杉は言う。

 日本の識者が急激に労働問題にやかましくなったのは、前々年、一九一八年夏に起こった米騒動からである。

 米騒動は日本の権力階級にとって非常な脅威、恐怖だった。

 この脅威、恐怖がなかったら、権力階級は労働者階級の生活の不安には目もくれず、民主思想にも耳を貸さなかっただろう。

 前年来の労働運動の勃興は、この権力階級の狼狽に乗じたものである。

 しかし、その労働運動の勃興も好景気だから可能だったのだ。

 労働者に背かれては、好景気でも資本家は暴利を貪ることができないからだ。

 なるほど、賃金は多少増し、労働時間も多少減り、そして労働運動界の首領どもがその運動の勝利を誇ったが、それはただ上っ面のことにすぎなかった。

 しかし、労働運動は行き詰まったのではなく、第一段階から第二段階に移る過渡期になったのだ。

 弱腰だった政府や資本家がだんだんと強腰になってきた。

 議会解散以来、労働者の普通選挙運動がとみに衰えたのは、さまざま要因があるだろうが、政治的運動に対する労働者の疑惑が主因であることは疑いない。

 労働者は今、考え込んでいる。

 その矢先に不景気が来たのだ。

 好景気下の労働運動と不景気下の労働運動とは、よほど違う。

 不景気は労働者にとって、まず失業を意味する。

 失業問題は労働問題の一大難関である。

 労働者は真剣になるざるを得ない。

 その真剣がどう現われるか、過去の経験がどう生かされるか、それは今後の事実に見るほかない。




★『大杉栄全集 第二巻』(大杉栄全集刊行会・1926年5月18日)

★『大杉栄全集 第6巻』(日本図書センター・1995年1月25日)



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2016年07月29日

第309回 大谷嘉兵衛






文●ツルシカズヒコ



 一九二〇(大正九)年四月三十日、大杉一家は神奈川県三浦郡鎌倉町字小町二八五番地(瀬戸小路)に引っ越した。

 谷ナオ所有の貸家を月六十円で借り、大杉一家四人と村木が住むことになった。

「鎌倉から」(『労働運動』1920年6月1日・1次6号/『大杉栄全集 第四巻』/『大杉栄全集 第14巻』)によれば、四月中旬、村木が知人の鎌倉の刺繍屋さんを仲介し、決めてきた家だった。

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 野枝は「引越し騒ぎ」(『定本 伊藤野枝全集 第三巻』)に、村木の知人(刺繍屋のNさん)は「村木の小父さん」だと書いている。

 この大杉一家の引っ越しを『報知新聞』が「大杉栄氏が鎌倉に定住−−所轄署大警戒」という見出しで報じたことにより、ひと騒動が起きた。

 社会主義者大杉栄氏は伊藤野枝、村木源太郎と共に本日(※四月三〇日)午後三時横浜駅発、戸部署巡査四名尾行の下に三時四十分鎌倉駅に着し、横浜大谷嘉兵衛氏所有の鎌倉小町瀬戸小路二八五新築家屋を借り受け入れり。

 右三名は当地に永住の覚悟らしく鎌倉署にては直(ただち)に私服巡査五名を付近に配し、目下夫(だれ)となく警戒中なり。

 家賃は五十円なり(鎌倉)


(『報知新聞』1920年5月1日)





 「村木源太郎」は「村木源次郎」の誤記である。

 大杉の書いた「鎌倉から」によれば、鎌倉駅に到着した大杉一家を迎えたのは、高等視察に引き連れられた尾行刑事四人だった。

 大杉の尾行がふたり、野枝にひとり、村木にひとり、合わせて四人の尾行刑事である。

 署長以下総勢二十人の鎌倉署はてんてこ舞いの騒ぎになった。

 そして『報知新聞』により、家主は谷ナオではなくて地元の名士である大谷嘉兵衛であることが判明してしまった。

 引っ越して来てから四、五日して、大杉が仕入れてきた情報として、野枝が「引越し騒ぎ」にそのからくりを書いている。

 著名な実業家である大谷は、また道徳家であり独身主義者でもあったが、五十歳を過ぎて女中に手をつけ子供ができた。

 しかし、その女中がふたりの子供を残して死んだので、残された子供に家庭教師をつけた。

 その女家庭教師が谷ナオであり、谷は大谷の妾でもあった。

 大杉一家が借りた家は、大谷がその家賃を妾の月々の生活費に当てるために建てたものだった。

 道徳家として通っていた大谷は、妾の存在もその生活費を捻出するために鎌倉に家を持っていることも内密にしていたので、『報知新聞』の記事によって身から出た錆(さび)ではあったが、とんだどばっちりを受けてしまった。

 大谷は警察からの使嗾(しそう)もあって、差配を介して「社会主義者には貸せぬ」と言ってきた。

 大杉も野枝も村木も理不尽な要求を突きつける大家とは、徹底抗戦の腹づもりでいたが、道徳家らしからぬ弱味がバレてしまった大谷も強くは出れず、結局、大杉一家は立ち退きをせずにすんだ。

 鎌倉は選挙の時期だったので、始終顔を合わせている地元の有力者連からの圧力もあったが、いつものこととて野枝たちはめげなかった。





 ……『あんな奴らには米味噌醤油を売らない事にすれば閉口して行つてしまふだろう』と云つてゐるさうでう。

 しかしそれも私共には一向何んの影響もないんです。

 何故なら、鎌倉では向ふで買つてくれと云つても私達は出来るだけ買い度くないのですから。

 昨日も或る店で買物をしようとしますと其の店の主人が、今自分の処でもそれが入用で漸く他の店から買つて間に合はせたが、自分の店で売るのよりは三割方も高いと云つて、

『何しろ鎌倉のあきんどさんは高いのを自慢にしているのですからね』

 と真顔になつてゐましたが、それは全くです。

 私達のような貧乏なものは、とても此処の『別荘値段』のおつき合ひは出来かねます。


(「引越し騒ぎ」/『改造』1920年9月号/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』_p203)


「伊藤野枝年譜」(『定本 伊藤野枝全集 第四巻』_p514)によれば、野枝は鎌倉に移ってから、ミシンを購入して洋服を作り始めた。


大谷嘉兵衛




★『大杉栄全集 第四巻』(大杉栄全集刊行会・1926年9月8日)

★『大杉栄全集 第14巻』(日本図書センター・1995年1月25日)

★『定本 伊藤野枝全集 第三巻』(學藝書林・2000年9月30日)

★『定本 伊藤野枝全集 第四巻』(學藝書林・2000年12月15日)





●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 18:58| 本文
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1955年生まれ。早稲田大学法学部卒業。『週刊SPA!』などの編集をへてフリーランスに。著書は『「週刊SPA!」黄金伝説 1988〜1995 おたくの時代を作った男』(朝日新聞出版)『秩父事件再発見』(新日本出版社)など。
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