2016年03月25日
第50回 若い燕(二)
文●ツルシカズヒコ
紅吉は奥村から届いた「絶交状」への返信を書いた。
私はけさ、広岡の家であなたの最後の手紙をみた。
それから今家に帰ってあなたからの同じ手紙を見た。
私はああした感情に走り切るあさはかな女でした。
私は是非あなたに逢いたい。
そしてこの間からの話を聞いてもらい度い。
私は広岡によって生きていました。
けれど今度のああした事柄は私をどんなに苦しめ、またどれだけ女らしく傷ついたことでしょう。
……私はあなたに逢って最後の時を作ります。
あなたが私に逢ったらおそらくあなたの幸福となるでしょう。
あなたの前途に私のようなこうした悲しい時が来ないかもわかりません。
どうぞ私に逢って下さい。
そして時と所を与えて下さい。
私の心は今乱れ切っています。
あなたの返事を、只そればかりを待っています。
九月十八日 しげり
(奥村博史『めぐりあい 運命序曲』_p76~77)
穏やかでない、そして意味がよくわからない文面に接した奥村は、紅吉には深く同情したが、彼女には会わなかった。
らいてうが円窓の書斎に飾った奥村の自画像について、紅吉が言及している。
らいてうの室に近頃一枚の油絵がいつもきちんと同じ場所に飾られてゐます。
絵は紅吉に云はせるとどうやら少しばかり要領を得ないものらしいのですが此の画については至極面白い話が隠れてゐるんだそうです。
なんでも或る若い、自分から「若い燕」といつてゐる人から贈られたものださうです。
三色版にでもして青鞜の口絵にしたらなんて紅吉は不安そうな眼つきで交ぜつ返してゐます。
しかし「若い燕」は今何処の空を飛んでゐるのか全く分らないんですつて。
(「編輯室より」/『青鞜』1912年10月号・第2巻第10号_p136)
『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』(p409)によれば、紅吉はらいてうについて「気分的な出たらめ」を口外するようになった。
それにマスコミが飛びつき、堀場清子『青鞜の時代』(p137~139)によれば、たとえば『東京日日新聞』が「新らしがる女」という連載記事を掲載した。
十月二十六日『東京日日新聞』の「新らしがる女(二)」には、「らいてう(煤煙女史)は人に会えば直ぐ偽をいいます」という紅吉のコメントが載った。
記事を書いたのは紅吉の父・尾竹越堂の知り合いの記者、小野賢一郎だった。
小野と紅吉の共犯が生んだ記事だったのだろう。
この時点で保持が紅吉に退社を勧め、紅吉も承諾した。
紅吉は『青鞜』一九一二年十一月号を最後に同誌の編集スタッフから退いた。
私が入社してから荒々に九ケ月、春が過ぎて夏と秋が過ぎて、もうあの寒い冷たい……冬が来やうと云ふ時、私は、青鞜社から帰へつて逝きます。
この青鞜は私にとつて最終の編輯にあたつたので御座います。
私は何故か涙ぐまれてなりません。
ぢや左様なら、私は今もう帰つて行きます。
さようなら、さようなら。
(紅吉「群集のなかに交(まざ)つてから」/『青鞜』1912年11月号・第2巻第11号_p98~99)
さて奥村であるが、彼は少年時代のこんな体験を告白をしている。
奥村が十歳のころだった。
……秋のこと、浩の地方に陸軍特別大演習があって、彼の家は中隊本部に宛てられた。
このとき幾たりも泊まった軍人の中に、彼を愛する余り抱いて寝た若い士官が居た。
この歩兵少尉は、東京麻布連隊に帰っていらい、愛情の篭った手紙をしげしげ浩によこしていた。
この手紙の冒頭がいつも型のように《我が最愛なる浩さん!》と書かれていた。
すでにこれまで浩に想いをかけた男は幾たりもあった。
旅順で戦死した士官はその最初のひとりであった。
そのご浩が逗子の開成中学に通いはじめるとまもなく、ふたりの上級生に執念深くつきまとわれた。
(奥村博史『めぐりあい 運命序曲』_p47~49)
奥村は自分が同性に好かれたことを『めぐりあい 運命序曲 』に淡々と書いているが、それ以上の言及はしていない。
後述するが、奥村は新妻莞から接吻されたことがあると書いているので、新妻が奥村とらいてうの関係に容喙(ようかい)したのは、奥村に対して同性愛的な感情を持っていたのがその理由のひとつかもしれない。
しかし、新妻には新妻イトという妻がいる。
堀場清子『青鞜の時代』(p137~139)によれば、一九一二(大正元)年の秋から年末にかけて「若い燕」に関する記事が、『東京日日新聞』と『大阪毎日新聞』でさんざん書き立てられ、記事は複数のペーネームで書かれているが、小野賢一郎ひとりの手により量産された可能性が高いという。
この時点で東京日日と大阪毎日はひとつの会社になっていたからだ。
wikiの小野賢一郎の記述には、戦前の彼は「特高警察への密告者」とある。
「若い燕」はスキャンダル記事ほしさのために、小野と新妻が仕掛けた可能性が高いのではないだろうか。
さて、堀場清子『青鞜の時代』(p135)が提起した疑問である。
奥村の自伝『めぐりあい 運命序曲』(p70~72)に記された「鴛鴦(おしどり)」が、『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』(p392)で「水鳥」と書き換えられたのは、らいてうと紅吉、新妻と奥村という同性愛的なカップルの印象を和らげるために意図的になされた「編集」なのだろう。
『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝』の上巻や下巻のエッセンスとなった、らいてうの自伝『わたくしの歩いた道』(p158)でも『作家の自伝8 平塚らいてう わたくしの歩いた道』(p142)でも「鴛鴦」が「水鳥」と記されている。
『作家の自伝8 平塚らいてう わたくしの歩いた道』(p273)の岩見照代の解説によれば、『わたくしの歩いた道』はらいてう自身によって書かれたものだが、元毎日新聞記者であった小林登美枝(当時は全日本婦人団体連合会常任理事)を「良き協力者・引き出し役」として完成したものである。
らいてうの死後に出版された『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝』は、小林がらいてうからの聞き取りやライティングその他の作業をして完成したものであり、らいてうが書き下ろしてはいない。
つまり、『わたくしの歩いた道』『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝』には、小林が編集者として深く関わっている。
「鴛鴦」の「水鳥」への書き換えは、小林の編集意図だったのかもしれない。
そして「若い燕」が「流行語となるには、世間に拡めるプロモーターが不可欠だが、紅吉を庇って指摘を避けているため、流行語となった経過が納得されない」という、堀場清子『青鞜の時代』(p135)のふたつめの疑問である。
元毎日新聞記者だった小林の毎日新聞社に対する「配慮」かもしれない。
ブラックジャーナリズムな臭いがする小野と新妻が仕掛けたスキャンダラスなネタだったとすれば、「若い燕」を流行語にしたプロモーターは、このふたり以外考えられないはずだが、小林がかつての職場だった毎日新聞社に「配慮」して、あえてふたりの名前を上げなかったのではないだろうか。
★奥村博史『めぐりあい 運命序曲』(現代社・1956年9月30日)
★『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』(大月書店・1971年9月6日)
★堀場清子『青鞜の時代』(岩波新書・1988年3月22日)
★平塚らいてう『わたくしの歩いた道』(新評論社・1955年3月5日)
★『作家の自伝8 平塚らいてう わたくしの歩いた道』(日本図書センター・1994年10月25日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
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