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2016年09月03日
第341回 赤瀾会(二)
文●ツルシカズヒコ
『改造』一九二一年六月号に「赤瀾会の真相」が掲載されたが、山川菊栄「社会主義婦人運動と赤瀾会」とともに、野枝も「赤瀾会について」を寄稿している。
大杉豊『日録・大杉栄伝』によれば、『改造』同号には「赤瀾会の人々」という紹介記事も掲載されたが、五月一日のメーデーに初めて婦人団体として参加した赤瀾会が一躍注目を浴びたからである。
三千字ぐらいの原稿のうち、三分の二ぐらいが当局の検閲によって削除され伏せ字にされている。
赤瀾会は現在五十人たらずの婦人達を擁する小さなグルウプです。
本年のメエデーは、赤瀾会によつて最初の婦人参加者を得ました。
しかし此の少数の婦人達は、日本の婦人団体としては前例のない圧迫を被(こうむ)りました。
そして警察の檻房に打ち込まれ、二人の同志の婦人は東京監獄に拘禁されまでしました。
赤瀾会員の大部分は、現在の日本の社会運動の実際運動にたづさわつてゐる人々の家族であり、縁故の深い人々です。
従つて何よりも、みんなは、其の思想の上でよりも、先づ或る深い家庭的友情で結びつけられて居ります。
又その周囲の雰囲気が永い間に大きな訓練をみんなに与へて居ります。
或る人は、赤瀾会には思想がないと云ふ非難をしたさうです。
それは或は事実かも知れません。
一寸(ちよつと)指を屈して見ても、机の前に座つて本をよむ事の好きな人、或はさういふ事を楽しむといふ人は非常に少いやうです。
それが非難さるべきものだとすれば、赤瀾会員は多分よろこんで此の非難に屈するでせう。
しかし、本の上で覚えた理屈をこめる事を『思想的背景』があると云ふのなら、赤瀾会員は……彼女達は、いろ/\な立派な理屈を知つてゐ、云つてゐ、書いてゐながら、それを自分のものにして生活することを知らない卑怯者の尊大な誇りは持ちません。
(「赤瀾会について」/『改造』1921年6月号・第3巻第6号/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』_p259~260)
大杉豊『日録・大杉栄伝』によれば、「前例のない圧迫」とはメーデーに参加した赤瀾会会員が全員検挙されたことで、「二人の同志の婦人は東京監獄に拘禁」は、山川菊栄が書いた「婦人に檄す」というメーデー参加を呼びかけるビラを配った秋月静枝と中名生(なかのみょう)いね子が、出版法違反で検挙され、それぞれ罰金三十円に処せられたこと。
「赤瀾会員の大部分は、現在の日本の社会運動の実際運動にたづさわつてゐる人々の家族であり、縁故の深い人々」は、例えば堺真柄は堺利彦の長女、橋浦はる子は橋浦時雄の妹、秋月静枝は中名生幸力(こうりき)の伴侶、仲宗根貞代は仲宗根源和の伴侶。
当局の検閲によって原稿が大幅に削除され伏せ字にされた件に関して、野枝は『改造』次号七月号に「親愛なる読者よ」を寄稿。
「……編輯締切後に於て其筋より抹殺されたものであります、どうか読者もかくの如き事情でありますから御許しを願ひます」と事情を説明している。
野枝は『労働運動』二次十二号に「婦人の反抗」を寄稿したが、これは第二回メーデーに参加した赤瀾会への応援歌であり、『労働運動』同号の一面トップに掲載された。
野枝はまず五月二日の『読売新聞』の記事に触れている。
『読売新聞』はアドバタイザー社の婦人記者、ビリー女史が上野精養軒裏で目撃した官憲の赤瀾会会員への暴行に関するコメントを載せている。
「日本の警官は何んと云ふ非道い事をするのでせう、あんな繊弱(かよわ)い婦人を捉へて打つたり蹴つたりするとはーー又、群集は婦人が侮蔑されてるのに傍観してゐるとは何んと云ふ事でせうーー私迄が大なる辱めしめを受けてゐるように感じます。
日本は野蛮な国です、野蛮国です
(『読売新聞』1921年5月2日)
野枝はこのビリー女史(野枝は「ビズレー女史」と表記)の上から目線のコメントに対しては、チクリとひと刺ししている。
私は此の話を外国への恥だなどと問題にするのでない。
警官が民衆を打つたり蹴つたりするのが日本ばかりだとは思ひもせず、又、ビズレー女史のようにアメリカやヨオロツパの文明国でそんな事が決してない等とも思はない。
お互様に何(ど)の国の政府でもしてゐる事だ位は知つてゐる。
(「婦人の反抗」/『労働運動』1921年6月4日・2次12号/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』_p290)
そして、赤瀾会の勇気と行動力に賛辞を送っている。
巡査共に云はせれば『女のくせに余計なところに出しやばるからウンとこらしめておかねば癖になる』と云ふにちがひない。
しかし、如何に官僚的思想の彼等にしてもそんな暴行や侮辱を加へる事によつて、人間の心の奥底に萌え出した思想の芽をそう容易につみとつてしまへるものと信ずる事は出来ないにちがひない。
事実赤瀾会の誰一人それにひるんだものはない。
しかし、若い婦人が群集の面前で、髪を乱し、衣紋(えもん)をくづして巡査に引きづられると云ふ事が、どれ程痛ましい恥辱を与へるであらう?
弱い精神の持主では到底忍べる事ではない。
(「婦人の反抗」/『労働運動』1921年6月4日・2次12号/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』_p291)
赤瀾会に対する野枝と大杉の反応を、安谷寛一は四十四年後にこう回想している。
大杉は乗り気のようだったが野枝さんは一向気がすすまなかった。
『ネ、君い、セキランカイとか何とかって、ご婦人連中えらそうなこと云うが、女なんて新しくたって古くたって皆んなコレだよ!』と、大杉は右手でつまらない形を作って見せた。
野枝さんは険しい目で大杉をにらんだ。
だが大杉の男女関係観は決して怪しいものではなかった。
女は生殖器である。
その働きは排泄作用である。
男女平等では男はひどく不平等だし女はそれ以上不幸だ、と思っていた。
不思議な大自然の摂理、大調和、大杉はそんな方面を考えること、ファブルの本能論に魅せられた彼の思いは、ミミっちい社会運動とは異なった世界に進もうともしつつあった。
(安谷寛一「晩年の大杉栄」/『展望』1965年9月・10月号)
「野枝さんは一向気がすすまなかった」というのは、どういうことなのか、ちょっと気になる。
赤瀾会は応援するが、自分がメーデーに参加することには「一向気がすすまなかった」という意味だろうか。
★大杉豊『日録・大杉栄伝』(社会評論社・2009年9月16日)
★『定本 伊藤野枝全集 第三巻』(學藝書林・2000年9月30日)
中名生幸力
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●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
第340回 赤瀾会(一)
文●ツルシカズヒコ
一九二一(大正十)年四月十八日、神田区美土代(みとしろ)町の東京基督教青年会館で、暁民会主催の文芸思想講演会が開催されたが、小川未明、江口渙、エロシェンコらに交じり、野枝も「文芸至上主義に就いて」という演題で講演した(大杉豊『日録・大杉栄伝』)。
目的は資金稼ぎだったが、聴衆約千二百人の大盛況だった。
四月三十日、近藤栄蔵が東京を発ち上海に向かった。
コミンテルン(第三インターナショナル)の密使・李増林が来日して大杉と面会、コミンテルンとしては日本支部を創設したいわけだが、アナである大杉は自分がその話に乗るわけにはいかず、大杉は近藤栄蔵を代わりに上海に使いに遣ったのである(『日本脱出記』)。
もっとも、近藤栄蔵は大杉には内密に山川と堺に相談をしていたが、大杉も薄々それには気づきながら、大杉にもコミンテルンからの金の流れを確保したい意向があった(『近藤栄蔵自伝』「日本脱出記」)。
日本初の社会主義婦人団体、赤瀾会が発会したのは四月二十四日だった。
近藤真柄『わたしの回想(下)』によれば、綱領は「私どもは私ども兄弟姉妹を無知と窮乏と隷属に沈淪せしめたる一切の圧政に対し断固として反対するものであります」。
治安警察法第五条によって婦人の政治結社加入を禁止されていたため、日本社会主義同盟に加入できなかったゆえの結成だった。
発起人(世話人)は秋月静枝、九津見房子、堺真柄、橋浦はる子で、会員は約四十名、山川菊栄と野枝が顧問格として参加した。
「赤瀾(赤いさざなみ)」の命名者は九津見房子だった。
三十銭の会費すらなかなか集まらず運営は厳しかったが、「伊藤野枝さんが、どうしたはずみかに五円くらい寄付して下さって息をつくようなことでした」(『わたしの回想(下)』)。
五月一日、東京と大阪でメーデーが開催された。
東京は第二回メーデーであり、大阪は第一回メーデーである。
東京の会場は芝浦埋立地だったが、参加者はそこから上野公園まで大行進をした。
近藤憲二『一無政府主義者の回想』によれば、労働運動社は前日から警官に包囲されているので、近藤憲二は予備検束を逃れるために前日に姿を消し、当日は海苔舟を雇い、芝浦の埋立地に裏から乗り込んだ。
その日の参加者は前回よりもはるかに多く、引っこ抜きの戦いもすごかった。
新橋付近で赤瀾会の女性軍二十人ほどが、黒地に赤くRW(レッド・ウェーブ)の旗を掲げて飛び込み、デモ隊にいっそうの気勢をそえた。
宮城付近を通過するときには「千代田の森に黒旗たてて……」が高々と歌われた。
あちこちに警官隊の伏兵は起こる、騎馬巡査のサーベルが鳴る。
「密集! 密集! 旗を守れ! 突撃しろ!」の怒号に対して、「旗を奪え! 女子軍を捕らえろ! 戦闘分子を引っこ抜け!」の騒ぎだ。
小川町でも松住町でも戦いの連続、上野池の端へ出たときはまさに白熱化した。
好天に恵まれて、たいへんな人出、どの料理屋も満員、それがメーデーを見物しようと二階の窓へ鈴なりになったところへ、行列からバラバラと小石を投げはじめたのだからたまらない。
お客はくもの子を散らしたように逃げだす騒ぎ。
赤瀾会の九津見房子、仲宗根貞代、堺真柄らが総検束されたのは山下から上野東照宮下付近だ。
橋浦はる子さんがあご紐をかけた警官にかこまれながら、毅然として検束されて行くさまは『写真近代女性史』にも載っているが、当日の語りぐさであった。
(近藤憲二『一無政府主義者の回想』_p224)
『わたしの回想(下)』によれば、赤瀾会の会員は新橋の高等理容店「樹神(こだま)」に集結し、午後一時ごろに新橋に到着することになっていたデモ隊を待っていた。
「樹神(こだま)」は九津見房子の知り合いの理容店だった。
午前十時ごろから赤瀾会会員は集まり出し、「樹神」の二階で待機していた。
当時着物の袖丈は普通一尺七寸位でしたから、元禄に縫いこんだり、裾を短目に着るなどしていた。
……早目のおひるをと、そばを食べかけた折から、早くも行列の近づく気配。
前々から橋浦はる子さんや中村しげさんなどが工夫してミシンかけした手製の会旗は、黒の綿繻子地に赤いネルで横に「赤瀾会」と縫いつけ、小旗は同じように「R・W」と縫いつけたもので竹竿に紐で結びつけて横にたおし、数人で小脇にかかえておりました。
やがて印刷工組合や労働運動社の黒旗が翻る行列の近づいたとき、路地から飛び出して行列に入るや、組合の人たちはウワァーという歓声と拍手で、十数人の女の一団を包み込むように迎えくれました。
(近藤真柄『わたしの回想(下)』_p21~22)
途中検束する関所が桜田本郷町、日比谷、松住町、上野山下などだったが、赤瀾会会員はなんとか引き抜かれずに進んだ。
堺真柄の母・堺為子、叔母・堀保子など年輩者は、アンパンの包みを手渡してくれたり、電車で先回りしてサイダーの栓を抜いて待っていてくれたりした。
デモ隊が池の端を通るとき、料亭の二階から客がデモ隊を見下ろしていたが、どこからともなく小石が飛んだ。
続いてバラバラと窓めがけて石が飛び、それが合図かのように、巡査が割り込んできて、大混乱になった。
革命歌「森も林も武装せよ、石よなにゆえ飛ばざるか」を実践したようなこの光景が、デモ隊の士気をいっそう燃え上がらせた。
デモ隊は上野東照宮下で解散するはずだったが、さらに石段を登ろうとする一団と巡査の争いが一段と激しくなり、赤瀾会の会員たちはもみくちゃにされた。
高津正道の妻、高津多代子は生後間もない子をおぶって、巡査にしがみついていた。
赤瀾会の会員はほんどが検束された。
仲宗根貞代は巡査が「女のくせに何だ!」と嘲ったので、「無産者のくせに何だ! 資本家の手先になって、そのザマは何だ!」と言い返した。
翌日の『読売新聞』にあごひもをかけたふたりの巡査に挟まれて、キリッとして歩く堂々たる橋浦はる子の写真が載った。
『読売新聞』のキャプションは「九津見フサ子」としているが、これは間違いなのであろう。
※赤瀾会@「馬込文学マラソン」
★大杉豊『日録・大杉栄伝』(社会評論社・2009年9月16日)
★『近藤栄蔵自伝』(ひえい書房・1970年)
★近藤真柄『わたしの回想(下)』(ドメス出版・1981年11月25日)
★近藤憲二『一無政府主義者の回想』(平凡社・1965年6月30日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index