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2016年04月28日
第129回 編輯室より
文●ツルシカズヒコ
さらに、御宿に滞在しているらいてうに手紙を書いたこと、らいてうが上京してふたりで話し合ったこと、自分が『青鞜』を引き継ぐことになった経緯を書いた。
助手の資格しかない田舎者の私がどんなことをやり出すか見てゐて頂きたい。
兎に角私はこれから全部私一個の仕事として引きつぎます。
私一人きりの力にたよります。
そうして今迄の社員組織を止めてすべての婦人達のためにもつと開放しやうと思ひます。
十一、十二と二ケ月間やつた私の経験では経営は左程困難ではありません。
けれどももし私の力が微弱な為めにもつと困難になつて来たら私は或は雑誌の形式をもつと縮小するかもしれません。
或は又もつとひどくて雑誌の形式がとれなくなるかも知れません。
併し私の力がつゞくかぎりはたとへ二頁でも三頁でも青鞜は存在させるつもりです。
(「『青鞜』を引き継ぐに就いて」/『青鞜』1915年1月号・第5巻第1号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p154)
子育てと仕事の両立についても言及している。
私は一方にさう云ふ仕事のことで考へながらも子供を育てゝゆかなければなりません。
……私は出来ることなら一日子供につゐてその一挙一動も注意して育児と云ふこと丈けを仕事にして見たいと云ふやうな欲望もかなり強いのです。
これ迄一ケ年以上私は少しも他手(ひとで)に委ねずに乳も自分の以外にはやらずに育てゝ来ました。
私は子供をおいて外出するやうな事も全く稀なのでした。
此度は一々連れ出すことは出来ませんから……それがたまらなく苦痛なのです。
時々留守の間に私を思ひ出しては子供が其処にかかつてゐる私の不断着の傍にはい寄つてそれをながめては泣き出すなど云ふ話を帰つて来て聞きますと涙がにじみ出ます。
けれども矢張り私は仕事をしなければなりません。
私は子供に留守をさせることに慣してしまはふとして忍んでゐます。
幸ひに子供は安心してなつくことの出来る小父(おじ)さんと小母(おば)さんを見出しました。
私は漸く気安く外出することが出来るやうになりました。
(「『青鞜』を引き継ぐに就いて」/『青鞜』1915年1月号・第5巻第1号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p154~155)
一(まこと)がなついている「小父さんと小母さん」とは、渡辺政太郎夫妻のことである。
野枝が『青鞜』を引き継いだことについての世間の評判については、こう書いている。
或る日私の処へ読売新聞の記者が面会を求めました。
会ひましたらば此度あなたと平塚氏が何かあつてお別れなすつたさうですがどんな事があつたのですとのことでした。
そしていろいろなうわさばなしをもちだしてあれもこれもと私に真偽をたしかめるのでした。
それは平塚氏が懐妊されたと云ふこと、奥村氏と平塚氏は別れると云ふこと、私と平塚氏と衝突したと云ふことなど重なことでした。
私は一々否定しましたけれど、可なりしつこく聞きましたので私は笑つてやつたのでした。
いろいろな取沙汰が新聞で紹介され続けてゐても私と平塚氏はいそがしさにはがき一枚もろくに取りかはさなくても私達の友情には何のかはりもなくおなじ気持ちでゐられる程私達の間は平なのです。
聞けば時事新報の記者柴田氏はわざ/\御宿まで出かけて真相をたゞさうとなすつたさうです。
本当にたゞ妙な世の中だと云ふより他仕方がありません。
(「『青鞜』を引き継ぐに就いて」/『青鞜』1915年1月号・第5巻第1号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p155~156)
そして、野枝は青鞜社の規則を排除した。
……私はこの雑誌の経営を自分の仕事として引き受けはしましたが私は今迄どほりの規則ではやり度ありません。
先づ私は今迄の青鞜社のすべての規則を取り去ります。
青鞜は今後無規則、無方針、無主張無主義です。
主義のほしい方規則がなくてはならない方は、各自でおつくりなさるがいゝ。
私はたヾ何の主義も方針も規則もない雑誌をすべての婦人達に提供いたします。
但し男子の方はお断はりいたします。
立身出世の踏台にしたいかたはなさいまし、感想を出したい方はお出し下さい。
何でも御用ひになる方の意のまゝに出来るやうに雑誌そのものには一切意味を持たせません。
たヾ原稿撰択はすべて私に一任さして頂きます。
(「『青鞜』を引き継ぐに就いて」/『青鞜』1915年1月号・第5巻第1号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p156)
「編輯室より」には、野枝はこう書いている。
●編輯室も随分賑やかでしたけれ共とう/\私一人にされてしまひました。ひとりでコツコツ校正をやるつまらなさはあの文祥堂の二階の時分を思ひ出させます。
●私が青鞜を引き受けたについて大分あぶながつてゐて下さる方があるとのことですが併し私はどうかして引き受けた以上はやつて行くつもりです。私は何時でも私の年が若いと云ふことの為めに私の力を蔑視されるのが一番口惜しい気がします。私にこの雑誌を続けて行ける力があるものかないものか見てゐて欲しいと思ひます。私は私の呼吸のつヾく限り青鞜を手放さうとは思ひません。
(「編輯室より」/『青鞜』1915年1月号・第5巻第1号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p158)
野枝は『廿世紀』一月号に「矛盾恋愛論」(『定本 伊藤野枝全集 第二巻』)を書いた。
恋愛を罪悪視する旧世代に対する反論である。
渡辺政太郎が関わっていた『微光』(一月二十日)には、「二人の子供の対話」(『定本 伊藤野枝全集 第二巻』)を書いた。
三月に第十二回衆議院議員選挙が行なわれることになっていたが、金で票を買う「金権選挙」批判である。
★『定本 伊藤野枝全集 第二巻』(學藝書林・2000年5月31日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
第128回 思想の方向
文●ツルシカズヒコ
『青鞜』一九一五(大正四)年一月号に、野枝は「『青鞜』を引き継ぐに就いて」を書いた。
野枝はまず、創刊からここまでに到る大づかみの『青鞜』の推移について書いた。
新しきものゝ動き初めたときに旧いものから加へらるゝ圧迫は大抵同じ形式をもつて何時もおしよせて来るやうに思はれます。
青鞜が創刊当時から今日迄加へられて来ましたあるゆる方面に於ける圧迫がこの種のものであることは今更云ふ迄もない事ですが更に私たちの主張が従来の歴史的事実からあまりに離れてゐたと云ふ事がーーそれは勿論人々から圧迫を受けたり反抗されたりするも重なる原因ですがーー予想以上に人々を驚かし或は不思議がらせました。
そしてその懸隔があまりにひどかつた為めに、私たちは容易に他の人々と近づくことが出来ませんでした。
そうして誤解を重ね……先入見の為めにお互ひにその間隔を近づけやうとはしなくなりました。
けれどもまた却つてそれが衆人の好奇心を呼びました。
そして不思議にも私達は他の雑誌のやうに経営の困難を感ずるやうな事はありませんでした。
併し私たちの真面目な思想や主張は流行品扱ひにされました。
皮相な真似のみをしたがる浅薄な人達の行為が私共の上に迄及びました。
そして私たちは世間で八ケ(やか)ましく云へば云ふ程自己の内部に向つてすべてを集注しやうとしました。
けれどもそれが為め世間との隔たりはだんだん遠くなつて仕舞ひました。
誤解はとけずにそのまゝ私たちに対する世間の人たちの固定観念となつて仕舞ひました。
併し世間の人達の好奇心が何時迄も続く筈はありません。
私たちはまづ経済的の苦痛を知らなければならないやうになりました。
そうして今やつと私たち、少なくとも私丈けは自然社会と自分を前にして考へなければならなくなりました。
(「『青鞜』を引き継ぐに就いて」/『青鞜』1915年1月号・第5巻第1号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p147~148)
野枝はさらに一歩踏み込んだ『青鞜』に対する自分の考えを書いた。
最初青鞜を創刊する時の態度が第一に既に間違つてゐたやうに思ひます。
私はその当時の事は本当に委しくは知りませんけれども……平塚氏の仕事であつたことは疑ひのない事実だと思ひます。
処がそれは全く違つた形式で発表されました。
社員組織だと云ふのです。
私はたゞ一概にそれを悪いとは思ひませんけれどもそれは可なり根拠のない共同組織であつたらしく思はれます。
そうして最初の創刊当時に仕事を執つてゐた人達は漸次に自分の仕事に去つて仕舞ひました。
創刊後満一ケ年を経て私が入社して事務を手伝ふやうになつたときは既に木内、物集(もずめ)、中野、保持の諸氏とは顔を合すことは全くなかつたのでした。
そして尾竹氏も去らうとして居られる時で編輯は平塚氏を助けて小林氏と私と三人でした。
経営は東雲堂に委してあつた頃でした。
子供のような遊びずきの尾竹氏が……無邪気に発表した楽屋落ちが意外に物議を醸した頃でした。
私たちは本当に正直で世間見ずでした。
私たちは世間と云ふものをさうまで頑迷だとは思ひませんでした。
やがて私たちは私達自身を教育する為めに相当の智識を得る途を開かうとしてある計画を立てました。
……先づ講演会を開きました。
それは私たちの考へてゐたのとは全(まる)で反対の結果を得ました。
私たちは重なる誤解の為めに各方面に同情を失ひまいした。
計画は見事に破れました。
そうして私達の行為にあらゆる障害を加へられるやうになりました。
また……外面的な皮相な行為を真似て得意らしく往来を闊歩して人々の嘲笑的好奇心を集めて喜んでゐるやうなえたいの知れない女達がぞく/\現はれました。
そうして社員組織の禍ひは此処にも及んでそれ等の厄介な人達の行為の責任がすべて青鞜社に持ち込まれました。
をとなしい内輪な平塚氏と純下町式娘の小林氏と小さな私と三人が生真面目な顔をして編輯してゐる青鞜社が女梁山泊と目されるやうな滑稽な事になつて来ました。
侮蔑されながらも好奇心でのお客様が多かつた為めか雑誌の発行部数はずん/\ふえて行つたらしく思はれます。
経営の方も左程苦労しなくてもよさゝうに思はれ出しました。
(「『青鞜』を引き継ぐに就いて」/『青鞜』1915年1月号・第5巻第1号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p148~149)
そして、保持が『青鞜』の経営に関わっていたころのこと、自分はしばらく青鞜社の編集にも経営にも関わらなくなったこと、保持が退社してらいてうがひとりですべての業務をこなしていたころのことを、野枝は書き進めていった。
らいてうが御宿に旅立ち、自分が『青鞜』の編集代理をするようになったころから自分の中に生じた、思想の変化について、野枝はこう書いている。
その頃から私の思想の方向がだん/\変つて来たのを幾らかづゝ私は感じ出しました。
今迄はどうしても自分自身と社会との間が遠い距離をもつてゐるやうに思はれました。
そして社会的になることはともかく自分自身を無視することのやうに考へられてゐました。
それが何時の間にかその矛盾を感ぜられなくなつて来たことです。
私は幾度も幾度もそれを考へ直して見ました。
けれどもどうも前の自分の考へ方がまだ行くところまでゆきつかなかつたのだとしか考へられなくなりました。
そうして今迄一番適当な態度だと思つてゐた態度にあきたりなくなりました。
今は社会的な運動の中に自分が飛び込んでも別に矛盾も苦痛もなささうに思はれました。
たゞ併しまだ考へ方が進んだ丈けで私の熱情は其処まではまゐりません。
(「『青鞜』を引き継ぐに就いて」/『青鞜』1915年1月号・第5巻第1号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p150~151)
野枝の思想の変化について、らいてうとの比較などにも言及し、宮本百合子はこう書いている。
『青鞜』をひきついだ伊藤野枝が、年齢の上でらいてうより若かったというばかりでなく、全体としての生活態度の上で、らいてうと対蹠していたことは、まことに意味ふかく考えられる。
伊藤野枝が『青鞜』を引受けた心持には、同棲者であった辻潤の協力が計算されていたこともあったろう。
しかし、彼女は、その時分もう子供をもっていた。
若い母となった野枝が、日常経済的な困難や絶間ない妻、母としての雑用に追われながら、その間却って女、妻、母としての生活上の自覚をつよめられて行って、「社会的運動の中に自分がとび込んでも別に矛盾も苦痛もなさそうに思われました」という心持に立ったことは、今日の私たちの関心をひかずにいない点であると思う。
らいてうと野枝との間のこういう相異は、唯二人の婦人の性格の相違だけのことであろうか。
もとより個性的なものが大きく作用しているのではあるけれども、その個性のちがいそのもののうちに、既に新しい世代への水源が仄めき現れている感じがする。
(「婦人と文学」/『宮本百合子全集 十七巻』_p209~210)
★『定本 伊藤野枝全集 第二巻』(學藝書林・2000年5月31日)
★『宮本百合子全集 十七巻』(新日本出版社・2002年3月30日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
2016年04月26日
第127回 貞操論争
文●ツルシカズヒコ
一九一四(大正三)年の『青鞜』を語る上で欠かせないのが、西崎(生田)花世と安田皐月の間で起きた「貞操論争」である。
発端は生田長江主幹の文芸評論誌『反響』九月号に、花世が発表した「食べることと貞操と」という告白的な文章だった。
その所説が平塚らいてう『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』に載っている。
女が食べるために、ことに自分だけでなく、養育の責任ある弟妹などがある場合はなおさら、他に生活手段がないとき、女の最後のものを食に代えることは、やむを得ないこととして許されるべきである。
食べるということが第一義的の要求であって、自分一個の操のことは第二義的な要求である。
在来の道徳が処女を捨てさせまいとするのは、それが決して罪悪だからではない。
処女であることが、結婚の有利な条件だからに過ぎない。
だから結婚の場合の不利さえ覚悟の上なら、貞操を売って生活するのも、また自由ではないか。
(『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』_p533~534)
皐月が『青鞜』誌上で花世に反駁した。
「自分一個の操の事」を考へないで何処に生活があるのだらう。
何で食べる事が必要だらう。
操……と云ふものは人間の、少くも女の全般であるべき筈だ。
決して決して決して部分ではない。
部分的宝ではない。
これ丈けが貞操で、これからが貞操の外だなどゝ云ひ得るわけがない。
人間の全部がそれでなければならない。
女の全部がそれでなければならない。
何物を以つても何事に合つても砕く事の出来ないものが操である筈だ。
(安田皐月「生きる事と貞操と」/『青鞜』1914年12月号・第4巻第11号_p2~3)
下町の「ことぶき亭」という寄席の女中をするなど、パンを得るために重労働を強いられていた花世は、パンのために「貞操を売る自由」を主張したが、皐月にとって貞操とパンを交換することは自己を侮辱し、女性を侮辱することであり、いやしくも自我に目覚めた女性の声としては呆れ返るほど腹立たしいことだった。
私は私を生かす為に生きてゐる。
只其為に生きてゐる。
私は生田氏の一文に余りに驚き余りに呆れて、どうしても書かずに居られなくて書いた。
九月号のこの記事が今迄何とも云はれなかつたと云ふ事丈けでも、「どうせ女だ。女と云ふものは食べられなくなれば其那者(そんなもの)さ」と云はれて居る様な不快を感ずる。
(安田皐月「生きる事と貞操と」/『青鞜』1914年12月号・第4巻第11号_p9)
大杉豊『日録・大杉栄伝』によれば、『平民新聞』第三号の製本が仕上がったのは一九一四(大正三)年十二月十八日、夜十時過ぎだった。
『平民新聞』を印刷していたのは銀座の福音印刷だったが、警官十四、五人が福音印刷を取り巻いて厳重な警戒をしていた。
タクシーで突破する方法を思いついた大杉は、吉川守圀、渡辺政太郎、荒畑寒村と新聞を抱えてタクシーに乗り込み、まだ発禁命令がなく手が出せない警官を尻目に運搬に成功した。
『平民新聞』第三号は翌、十二月十九日に発禁処分になったが、持ち出すことには成功した。
しかし、吉川と渡辺が運んだ分は、神田のある菓子屋に隠したのだが、翌日になってその二階に警部補が下宿していることがわかった。
尾行つきの彼らは取りにゆけない。
渡辺がその話を野枝にすると、野枝はすぐに俥で駆けつけ自宅に隠した。
そのことを大杉が知ったのは、ひと月くらい後だった。
★『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』(大月書店・1971年9月6日)
★大杉豊『日録・大杉栄伝』(社会評論社・2009年9月16日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
第126回 身の上相談
文●ツルシカズヒコ
野枝が『青鞜』の編集発行人になる件について、『読売新聞』が記事にした。
「原始女性は太陽なり」で婦人の自覚を促した「青鞜」もこの頃幹部の間に意見の扞格(かんかく)を生じたので愈々(いよいよ)平塚らいてう氏は同誌より退隠し、伊藤野枝氏が全部の責任を帯びて今後益々健闘すると云ふが事情に精通した人は野枝氏の立場に可なり同情を持つてゐるらしい。
(『読売新聞』1914年11月27日)
野枝は誤解を回避するために、速攻で『青鞜』にこう書いた。
廿七日の読売新聞に社の内部で何かゴタ/\でもあつて私が青鞜をやることになつたとか何とか妙な事が書いてありましたが決してそんなことはありません。
委しいことは来月号に書きます。
(「編輯室より」/『青鞜』1914年12月号・第4巻第11号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p142)
野枝は『青鞜』の発行を自分に継続させてほしいと、らいてうに懇願した。
創刊後もう三年以上も続けて来てまださう行きつまつたと云ふほど迫つてもゐないのに廃刊にするのは如何程考へ直してみても惜しい、殊にこの創刊後とやかく云はれ続けて来たけれどもそれでも幾多の若い人達を助けて来たことを思へば猶更捨てられません。
私自身が先づ一番に青鞜によつて育てられました。
歌津ちやん、がそうです数へ出すときりのない位です。
これからどんな人が生まれるかも知れません。
私はそのことを思ひますととても思ひ切つて投げ出す気にはなれません。
殊に……或る時ふと目に触れた私共に対する批評の中に『彼等は人々の好奇心によつて生まれたものだ。人々の好奇心が失くなつて存在しやう筈がない。』と云ふ言葉が雷のやうに私の頭を横切りました。
私はあやふく涙が出さうになりました。
『どんな苦痛と戦つてもやつてゆく!』
私は固く/\決心したのでした。
(「『青鞜』を引き継ぐに就いて」/『青鞜』1915年1月号・第5巻第1号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p153)
野枝は『青鞜』十二月号に二本の原稿を書いた。
●「再び松本悟郎氏に」(※「悟郎」は「悟朗」の誤記)
●「雑感」
「再び松本悟郎氏に」は、松本悟郎「伊藤野枝氏に」(『第三帝国』第二十四号・十一月十五日)への反論である。
野枝は自分と松本との見解の違いを明確にした。
野枝にとっては「社会自身は私には無意味な、問題にならないものです。それが自分の生活に関はつて来るときにはじめて問題になる」が、松本は「社会と自分の生活に交渉があるとかないとか云ふ馬鹿な事はない。社会と自分と引きはなして考へることは出来ない」と考えている。
この見解の相違は仕方ないとして、野枝はさらにこう述べた。
私は自分のことやその他、思索する時に、かなり社会とは没交渉になつてゐます。
それはあなたのやうな一も社会二も社会と何でも社会によつて事を運ぼうとするやうな忠実な社会賛美者には到底不可解だと思ひます。
私は現代の社会に対しては思ひ切つて不満をもつてゐる反逆者の一人であることを信じます。
そうして私はあなたとは違つた意味で「我々は一切の過去其物だ」と云ふ哲理を賛美します。
(「再び松本悟郎氏に」/『青鞜』1914年12月号・第4巻第11号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p135)
「雑感」で野枝は『読売新聞』の「婦人附録」にまた憤っている。
読売の婦人附録の愚劣さに毎朝不快を感じる。
就中(なかんずく)私を憤らせるのは身の上相談である。
先づ問ひの方だ。
あんなくだらない事まで他人に相談しなければ仕末のつかないやうないくじのない人があゝもゐるかと思うと腹立たしくなつて来る。
実に下らない人達だ。
けれども答へる人に至つては更に言語道断である。
こんな人に身の上相談を持ちかける人も人だがこんな答へに満足してゐるやうならまだ相談しない方がましだ。
そう云ふ人達ばかりだからあの附録が宣言とはまるでかけはなれたありふれた婦人雑誌とすこしも違はない愚劣なものなのも不思議ではない。
(「雑感」/『青鞜』1914年12月号・第4巻第11号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p139~140)
「雑感」では社会主義者、無政府主義者にも言及している。
「私は現代の傾向を要約して『量』(コンテイテイ)であると云ひたい。
群集と群集精神とは到る処にはびこつて『質』(クオリテイ)を破壊しつゝある。
今や私どもの全生活ーー生産、政治、教育ーーは全く数と量との上におかれてゐる」
というエマ・ゴールドマンの言葉を引き、野枝はこう書いた。
本当に、さうだ。
多数者の横暴は現今に於ては常に全く正義とその位置をかへてゐる。
私はまだソシヤリストでもないしアナアキストでもない。
けれどもそれ等に対して興味はもつてゐる。
同情も持つてゐる。
それは正しい思想であるからは、同情をもつのは当然である。
この人口の稠密(ちゅうみつ)した日本に社会主義者と目される人が三千人とはゐないようだ。
そしてそれ等の殆んどすべてが圧迫をおそれてゐるやうな人達ばかりださうだ。
心細いことだと私は思ふ。
真実に主義の為めに殉じ得る人は数える程しかいない。
平民新聞が二度出して二度発売禁止の厄に遇つたことなどあまりに政府の小胆を暴露するものである。
私はどう見ても彼等はたヾソシヤリスト、アナーキストと云ふ名に怖れを抱いてゐるとしか思はれない。
私は彼等の横暴を憤るよりも日本に於るソシアリストの団結の貧弱さを想ふ。
あの大杉、荒畑両氏のあれ丈けの仕事に、何等の積極的な助力を与へることも出来ないあの人たちの同志諸君の意久地(いくじ)なさをおもふ。
更に私達婦人としての立場からそれ等の主義者の夫人たちがもつと良人(おつと)に同化せられることを望む。
夫人同士の結合が良人達の団結をどの位助けるものかと云ふことを考へられるならばもう少し広い心持ちになられて欲しい。
私が今迄直接間接に聞き知つた夫人達の行為は或は態度はあまりにはがゆいものであつた。
私達もこれからはたヾ「妥協せざる熱心と勇気と決断」に依つて、私達の正当な位置を取りかへさなければならない。
そうしてやがて私達の「質」が「数」と「量」をもあはせ収め得るであらう。
(三、十一、二七)
(「雑感」/『青鞜』1914年12月号・第4巻第11号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p140~141)
大杉は野枝の書いたこの文章をいちいち首肯しながら読んだ。
大杉は野枝と面会したときに、自分たちの主義とか運動とか同志とかについての深い話はせず、電車の飛び乗り飛び降りをして尾行の刑事をまくとか、笑い話ぐらいしかしなかった。
それなのにどこで見聞きしたのか?ーー大杉はそれが不思議だった。
★『定本 伊藤野枝全集 第二巻』(學藝書林・2000年5月31日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
第125回 引き継ぎ
文●ツルシカズヒコ
一九一四(大正三)年十一月、平塚明『現代と婦人生活』が出版されたが、野枝はその「序」を書いた。
らいてうさま、
ほんとうに私は嬉しうございます。
私はあなたの第二の感想集が出版されるのだと思ひますとまるで自分のものでも出すやうな心持ちがいたします。
最近の私達の生活を知つてゐるものは私達自身きりですわね、私たちは私たちの周囲の極く少数の人をのぞく他の誰からも理解や同情など云ふものを得ることは出来ませんでしたね、まるで私だ(ママ)ちの周囲は真暗でしたもの。
疑惑と中傷と誤解と威圧とそして侮蔑と嘲笑と揶揄とが代る/″\に私達を一番親しく見舞つてくれましたわね、けれどもその中からこのあなたの論文集が生まれたのですわね……。
あなたの……最近の生活の努力によつて生れた尊い思想の断片として私は私の能ふるかぎりの尊敬をこの書に捧げます。
(三、一一、八)
小石川にて 野枝
(「序に代へて」/『現代と婦人の生活』・反響叢書第二編・日月社・1914年11月27日/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p132)
十一月十三日の夜、らいてうは御宿から上京し、十一月十五日の朝、野枝宅を訪ねた。
自分に『青鞜』の編集や経営の一切を譲ってほしいという野枝がらいてうに書いた第二信の手紙は、らいてうの上京と行き違いになったが、御宿かららいてうの実家に廻送されたので、らいてうはその手紙を読んでいた。
ひと月ぶりに野枝の顔を見たらいてうは、野枝は相変わらず元気いっぱいでピチピチしていると思った。
野枝はらいてうに『青鞜』を引き継ぐ決意を力強く語った。
「一生懸命やってみますから、ひとつ委せて下さい。あなたはなにもしないでいいんです。ただ毎月書くことだけはかならずして下されば。しかし雑誌の署名人だけはあなたに御願いします。責任は何処までもわたくしたちが負います、ご迷惑になるようなことはしないつもりです。編集の方は辻がやるから大丈夫です」
(『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』_p552)
らいてうは辻と野枝夫妻の決意はうれしかったが、経営面など楽観しているころがあるのではないかと危惧し、いろいろ注意した。
野枝は雑誌を簡素化し、金銭も切り詰め、自分たちの生活の形式も変えて対応したいと自信たっぷりだった。
しかし、辻にしても野枝にしても事務的な仕事をこなし、継続していけるタイプの人間ではないーーらいてうはそれを知っているだけに、危惧の念は去らなかった。
らいてうは名だけの署名人の件は断り、原稿も書きたいときに書かせてもらうことにした。
二日後、野枝がらいてうの上駒込の家を訪れて事務引き継ぎを行ない、野枝は翌年の一月号から『青鞜』の編集人兼発行人を務めることになった。
青鞜社の所有品全部ーー寄贈の図書、雑誌類、英語や日本語の辞典や書類、名簿「青鞜」の合本、本箱、机、文房具など一切合財、野枝さんの引越し先、小石川竹早町の家へ運んでもらいました。
(『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』_p553)
らいてうは『青鞜』には、こう書いている。
十七日の昼近くに野枝さんが社に来ました。
野枝さんの眼には自信と勇気と決心の色が輝いて居ました。
私は野(ママ/※野枝)さんに譲り渡し(ママ/※渡した)社の責任と仕事と、所有物の総てを手渡しました。
只創刊号から三週(ママ/※周)年紀念号までーー丁度三年間の『青鞜』各一部を私の手に残して。
午後、社の荷物は野枝さんのお宅に運ばれました。
私は長い間の重荷をやつと卸したやうな気持がしました。
そして私の心には野枝さんに対するある感謝の念が湧いて来ました。
(平塚らいてう「青鞜と私」/『青鞜』1915年1月号・第5巻第1号_p133)
★『定本 伊藤野枝全集 第二巻』(學藝書林・2000年5月31日)
★『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』(大月書店・1971年9月6日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
第124回 平民新聞
文●ツルシカズヒコ
大杉と荒畑寒村が編集発行する、月刊『平民新聞』創刊号が発行されたのは、十月十五日だった。
しかし、即日発禁になり、この日の正午、印刷所から持ち運ばれるや否や直ちに全部を押収された。
全紙面が安寧秩序に有害だというのが発禁の理由だった。
起訴はせず、印刷直後に発禁、押収して経済的に追いつめるのが官憲の手口だった。
野枝は『青鞜』で果敢に官憲の批判をした。
大杉荒畑両氏の平民新聞が出るか出ないうちに発売禁止になりました。
あの十頁の紙にどれ丈けの尊いものが費やされてあるかを思ひますと涙せずにはゐられません……。
ふとして私は新聞を読むことが出来ました。
……書かれた事は主として労働者の自覚についてヾある。
私は書かれた理屈が労働者ばかりについてヾなくすべての人の上に云はるべきものであると思ふ。
そしてそれが労働者についてのみ云はるゝときに限って何故所謂その筋の忌憚にふれるのか怪しまないではゐられない。
私は此処に出来ることならその一部丈けでも紹介したいけれどもあの十頁すべてが忌憚に触れたのださうだ。
だからまた転載した罪をもつて傍杖(そばづえ)でも食ふやうな事になると折角私が骨を折つて働いたのが無駄になるから止めと置く。
けれども大杉荒畑両氏にも心から同情いたします。
(「編輯室より」/『青鞜』1914四年11月号・第4巻第10号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p131)
大杉は野枝のこの文章を心からありがたいと思った。
そして大杉は『平民新聞』十一月号・第二号の「発売禁止の反響」の中にこれを転載するようにと、荒畑に言った。
荒畑はいわゆる「新しい女」に妙に反感を持っていたが、すぐにこう書いた。
「凡ての新聞雑誌が大隈内閣の言論圧迫に満足して、本誌の発売禁止に関しては全く口を噤み、本誌の存在すら黙殺しつゝある時、青鞜誌上に独りこの文を見るは、吾々の寧ろ意外とする処である」
(『青鞜』1914年11月号・第4巻第10号「編輯室より」解題/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p462)
しかし、『平民新聞』は第二号も発禁になった。
らいてうによれば、野枝がらいてうに宛てた手紙には、こんな主旨のことが書かれていたという。
自分がつくった雑誌があまり不出来なので、自分にあいそがつきた、出来るなら十二月号の編集はお断りしたい。
尤もこの仕事が自分の生活とピッタリくっついてしまえばいいのだが、あなたの代理としてやるのはやりにくくて困る。
もしあなたが『青鞜』の編集、経営のすべてを私共の手に委して下されば、もう一度覚悟し直して、辻と一緒に出来るだけやってみてもいいと思う。
この際、むしろ、思いきって、『青鞜』をあなたの個人誌としてあなたの生活と仕事を統一して再出発されるがいいと思う。
とにかく冷静なあなたの判断を待ちます。
そのうちには、私の考え方もちがってくるかもしれません。
(『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』_p550)
野枝はらいてうに宛てた手紙について、こう書いている
十一月号の編輯をしてゐる間に私はいろいろなことを考へました。
私は充分に働かうといたしましたけれど家のことや子供に大部分の時間をそがれてどうしても思ふやうに動けませんでした。
そうして遅れながら雑誌が出来上つたとき私は私の仕事の間抜さ加減がいやになつて仕舞ひました。
そのみすぼらしさがかなしくなりました。
私は何を考えるひまもなく直ぐに御宿の平塚氏の処へ長い手紙を書きました。
それは重(おも)に雑誌が不出来なこと…こんな事では駄目だから十二月号の編輯もお断はりしたいと云ふこと……。
それから……思ひきつて平塚氏に雑誌をすつかりあなたのものにして……経営なすつたらどうでせう。
私はそれが一番最上の方法だと思ひます。
けれども……続けていゆく上にあなたが真実に苦痛をお感じになれば……私に全責任を負はして頂いて私の仕事としてもよろしう御座います。
然し今のやうな状態では……私のやつてゐることがどつちつかずで……あなたに対する心づかいが私自身を不快にしていけませんからとても十二月号は出来さうもありません。
と云ふやうなことを書き送りました。
(「『青鞜』を引き継ぐに就いて」/『青鞜』1915年1月号・第5巻第1号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p151)
野枝の手紙の内容はかなり錯綜していたが、らいてうは野枝に返事を書いた。
十二月号は、あなたが一たん引受けたことであり、とにかく今のままでやって下さい。
無理なことはよくわかっています。
これからのことは今考えています。
わたくしの考えがまとまるまでしばらく待って下さい。
(『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』_p550)
らいてうは『青鞜』を出し続けることに伴う雑事に振り回されることが苦痛だった。
『青鞜』以外の雑誌に原稿を書いて、原稿料を稼ぐ必要にも迫られていた。
らいてうは奥村とふたりで勉強したり、原稿を書いたりという自由な生活を望んでいたので、『青鞜』はここできれいに廃刊すべきだと考えた。
しかし、苦労して育ててきた雑誌の未来を、自分ひとりの考えで断つのも残念に思われたので、ともかく、らいてうは野枝に会いよく話してみようと思った。
らいてうから返事を受け取った野枝は、十二月号はいったん引き受けた仕事なので編集作業にとりかかることにしたが、次第に『青鞜』の仕事を自分が引き受けてもよいと考えるようになった。
そして、らいてうに第二信を書いた。
私はこれから十年ひとりで忙しい思ひをした処でまだ三十だ。
まとまつた勉強はそれからで沢山だ。
十年のうちには少しは手伝ひをしてくれる人位は出さうに思はれます。
そう思つて私は私の仕事にしてやつて見る気になりました。
……私は私の心持をありのまゝに書きました。
……私はいろいろな誤解をのぞく為めすべての責任は私が背負ひます。
ただ署名人にかゝるやうなことは決していたしませんから署名人にはあなたになつて頂きたいと云ふことを書きました。
(「『青鞜』を引き継ぐに就いて」/『青鞜』1915年1月号・第5巻第1号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p152)
★『定本 伊藤野枝全集 第二巻』(學藝書林・2000年5月31日)
★『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』(大月書店・1971年9月6日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
第123回 人間問題
文●ツルシカズヒコ
一九一四(大正三)年十月に奥村と千葉県の御宿に行ったらいてうは、当初、上野屋という旅館に宿泊していたが、しばらくして漁師の家の広い部屋を借りた。
野枝が書いた『青鞜』十二月号(第四巻第十一号)「編輯室より」(『定本 伊藤野枝全集 第二巻』)によれば、らいてうが滞在した漁師の家は「千葉県御宿村須賀、長尾浅吉方」である。
らいてうは御宿海岸が気に入った。
つよい日の光を反射して白く見える大きな砂丘が、波浪のような豊かな曲線をえがいていくつもつづき、その面に、雲が紫色のかげを大きく落としてゆっくり流れてゆきます。
砂丘と砂丘の間に坐っていると、まるで砂漠のなかにひとりいるような孤独感が迫ってきます。
でも足もとを見れば、菊のようで、もっと花びらの厚ぼったい黄色い花が、日をうけて、逞しく金のように光ってあちこちに咲いていますし、遠くには、青草をはむ牛の姿ものんびりと目に映ります。
(『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』_p547)
『青鞜』にはこんな文章を寄稿している。
野枝さん、
何か書いて御送りしたいと思つて……原稿紙をもち出して浜に出て来た処です。
まだ五日ばかりですが私の皮膚はもう大分黒くなりました。
それもその筈です、かうして殆ど終日浜にゐて、海や山や雲を見ながら日なたぼつこをしてゐるのですもの。
先刻(さつき)から真裸(まつぱだか)な浜の子が二三人私のまはりに突つ立つて、不思議さうに私の書いてゐるのをしばらく見守つて居ました……。
……白い蝶々が二つもつれながら飛んで来ました。
そして今、私のペンの先で戯れて居ます。
波の音は静かに、そしてリズミカルに寄せては退き寄せては退きして居ます。
どうしてこの地球上に今大戦争が起りつゝあるといふやうなことが信じられませう。
号外の呼声もあの鈴の音も私にはもうあんまり遠ひことのやうに思はれますもの。
(平塚らいてう「御宿より」/『青鞜』1914年11月号・第4巻第10号_p50~52)
このらいてうの滞在先に、野枝から『青鞜』十一月号と厚い手紙が届いた。
野枝は『青鞜』同号に以下の原稿を書いている。
●「人間と云ふ意識」
岩野清「個人主義と家庭」(『青鞜』第四巻第九号)を読んだ、野枝の論考である。
自分の家族とのしがらみを断ち切り婚家から出奔した野枝だったが、辻家の姑、小姑との関係が深刻になってきたことによる葛藤が書かれている。
注目すべきは、野枝の思考に「社会問題」という視点が入り込んできたことである。
私は今こそ本当に直接にヒタと本当の問題に出会(でく)はした。
それは社会と云ふ大きなものに包まれたいろ/\なものについての疑問である。
それは痛切な私の問題である。
それは無論他人の問題をも含んでゐるに違ひない。
一人の私が直接した問題であり数万数億の人の面前に迫つてゐる問題である。
そうして私は真実に自分の孤独と云ふことが今迄考へてゐたやうに狭くも何ともないことを発見した。
その孤独は自分一人丈けの孤独でなくあらゆる人をとり巻いてゐる孤独であつた。
もつと広い深いものであつた。
あらゆる事物を包含した偉大な孤独であつた。
私の今迄の考へはあまりに狭く小さかった。
私は今迄足元ばかりを見詰めてゐた。
漸く私は人達の所謂社会問題を自分の問題として考へることが出来るやうになつた。
小さな私の問題が拡がつた。
そして深い根ざしをもつた。
(『青鞜』1914年11月号・第4巻第10号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p125~126)
●「松本悟郎氏に答ふ」(※「悟郎」は「悟朗」の誤記)
『第三帝国』(第二十二号・十月二十五日)に掲載された、松本悟朗「青鞜社同人に与ふ」に答えたもの。
野枝は社会問題について、こんな発言をしている。
……それが自分の生活に関はつて来る時にはじめて問題になるのです。
……私にとっては何をするのにも自分の要求から出たことでなくては満足が出来ません。
自分の本来の心からでたことと他動的な事との差はその熱情の点に於てまた力の点に於て、忍耐の点に於て大きな懸隔があるとはお思ひにはなりませんか、所謂社会の為めの社会改良と自分の為めの社会改良……その差は殊によくわかります。
(『青鞜』1914年11月号・第4巻第10号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p127~128)
そして、野枝は今後、自分がどこへ向かっていこうとしているのか、その回答をした。
先づ根本から改革してゆかなければ何の効果もありません。
婦人問題と云ふよりも私はまだ人間問題だと思ひます。
私の漸く社会と云ふものに向つてあいて来た目に、久しい以前から私の心の隅にちヾこまつてゐたものと一緒に個人主義を根底としたアナーキズムに向つてあるものをもとめやうとしてゐます。
(『青鞜』1914年11月号・第4巻第10号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p129)
『青鞜』の業務をひとりでこなさなければならなかった野枝は、その大変さをこう書いている。
私はすつかりまごついてしまつた。
相談する人もいない。
加勢を頼む人もいない。
こんな時に哥津ちやんでもゐてくれるとなど愚痴つぽいことも考へる。
広告をとりにゆく、原稿をえらぶ、印刷所にゆく、紙屋にゆく、そうして外出しつけない私はつかれきつて帰つて来る、お腹をすかした子供が待つてゐる、机の上には食ふ為めの無味な仕事がまつてゐる。
ひまひまを見ては洗濯もせねばならず食事のことも考へねばならず、校正も来ると云ふ有様、本当にまごついてしまつた。
その上に印刷所の引越しがあるし雑誌はすつかり後れそうになつてしまつた。
広告は一つも貰へないで嘲笑や侮蔑は沢山貰つた。
私はすべてのことを投げ出したくなつてしまつた。
そんな訳なのでこの号は本当に間がぬけて手落ちがあるけれどこの号丈けはどなたもがまんして頂きたい。
(「編輯室より」/『青鞜』1914年11月号・第4巻第10号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p130)
★『定本 伊藤野枝全集 第二巻』(學藝書林・2000年5月31日)
★『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』(大月書店・1971年9月6日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
2016年04月25日
第122回 根本の問題
文●ツルシカズヒコ
野枝の胸中に今まで抑えに抑えていた辻に対する微細な不満が、頭をそろえて湧き上がってきた。
野枝が言いたいことを言い、したいことをすれば、家の中の人たちの不平や不満は、どれもこれも辻に向かうに決まっていた。
野枝はそういう経験をいくつもしてきた。
それを繰り返すのが嫌なので、辻から穏やかに話して欲しかった。
野枝が苦しんでいるのを知らないわけでもないのだし、そのくらいの話を義母や義妹にしてくれるのは当然だと野枝は思っていた。
辻は妻のそういう心持ちを知ってか知らずか、素気なく突き放した。
彼はしたいことがあれば、言いたいことがあれば、勝手に自分でしろと言った。
彼はいつも何に対しても、そう主張する。
だから、辻と話しても無駄であり、自分で解決するよりは仕方がない。
辻は日常に起こる些細な交渉に対してすら、できるだけ避けたがっていた。
『面倒くさい、いゝ加減にやつてくれ』
さう云つて大抵の事は、逸子や母親にまかしてゐた。
或場合には、面倒くさい事以上の不快や損が、その結果の上に表はれて来る事が当然に解つてゐてさへ、矢張り彼は、そのまゝ其処に座りきつきりにしてゐた。
『お前は懐手をしながら勝手なことばかし云つてゐるんだもの、ちつとは、自分で手を出して御覧、それで世間が通つてゆくものだかどうか。』
母親も時々は、彼のさうした態度に怒つて云つた。
『俺は世間なんか相手にしやうと思はないよ』
『さうはいきませんよ、そんなに威張つてお前、ちつとも威張る丈けの事をしないぢやないか、お前がそんな勝手な太平楽を並べるのだつて、皆世間へ向つては私たちが代りをしてやつてるからぢやないか』
(「惑い」/『新日本』1918年10月号・第8巻10号/『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』_p316~317/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p290)
辻はコンヴェンショナルに対する野枝の遠慮や気兼ねを叱っているのかもしれないと思ったこともあるが、実際は妻と家の人たちとの間の面倒ごとに入って話をするのが煩わしいだけなのだーーそう考えて、野枝はまた彼に対する腹立たしさを呼び戻すのであった。
野枝の苦しみの原因は、一緒の家にいて始終顔を見合わせているから問題になるような、些細なことばかりだった。
そういう家庭内の些事(さじ)に煩わされ、自分のしたいことをやれずに苦しむことが、野枝にはつくづく馬鹿馬鹿しいこととしか思えなかった。
けれど、家族の他の人々にとっては、そんな些事が一大問題になるのだった。
そして野枝がそうした些事にインデイファレントであれば、辻にはそのことがさらに大問題になる。
そして、野枝もまたその問題から逃れられなくなる。
些事とはいえ、それはやはり彼女の考えをすぐに擾(か)き乱してしまうだけの可能性は持っていた。
辻も野枝もコンヴェンショナルなものに反抗心や憎悪を持っているのは、お互い理解している。
けれど、辻はその反抗心や憎悪を直接それに向けず、できるだけ没交渉でありたいと願っている。
その理由は到底、自分の力がまだ及ばないからだという。
それなら諦めてそれに屈するからと言えば、憎悪は持ち続けているのだが、辻は憎悪をもって戦おうとはしない。
辻についてここまで考えた野枝は、この問題は自分にとっても根本の問題であることに気づいた。
野枝は辻の家族と一緒に暮らすようになって、習俗に対する反抗心や憎悪を隠して生きてきた、それは事実だ。
しかし、隠すくらいなら捨ててしまう方がいい、でなければ堂々と主張すればいいのだ。
後者を選択した場合、自分が辻の家族と暮らし続けることは、彼らとの軋轢が格段に増え、自分とは違って習俗や情実に従って生きている人を犠牲にしてしまう。
『どうしても、この家からは出なければならない。』
逸子は、考へれば考へる程その覚悟を強いられた。
出来る丈けの努力をして、家族の人達に対抗して、自分の考へを押し立てるとしても、かれ等の力も強い。
その周辺の考へも後盾てになる。
その上に、嫁と姑小姑と云ふ悪い概念を持つた関係にある。
それ等のいろんな事から云つて、この争ひは何時まで続くかしれない。
その位なら、もつと根本的なものに迫つてゆく、大きな広い闘争の仲間入りをした方がどの位いゝかしれない。
効果の上から云つても、自分の気持ちの上から云つても、大変なちがひだ。
少々の批難位はなんでもない、
『出よう、出よう、自分の道を他人の為に遮ぎられてはならない。』
(「惑い」/『新日本』1918年10月号・第8巻10号/『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』_p324~325/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p294~295)
野枝の考えはひとつのところばかりに帰って来るーー。
現在の人間生活のすべてに不自由と不合理が当然なものとしてついて廻っているのだ。
それに立ち向かおうとすれば、ただ初めから終りまで苦しまなければないない。
諦めてとうてい及ばないとして見逃してしまうか、苦しみの中にもっと進み入るか……。
野枝はそこまで決心がつくと、そのテキパキした考えに対する自信がさらにまたその決心を強めた。
場合によっては辻と絶縁をしてもいい、そして学生時代に帰って勉強しようと思った。
子供は野枝が連れて出るしかないが、それは子供をそう不幸にはしないとも思えた。
考えの整理がつき頭がスッキリした野枝は、家の日課を滞りなく果たしながら、具体的な計画について二日ばかりは熱心に考え続けた。
今の平穏な空気を故意に乱すでもあるまいと、腹の決まった野枝はそのままそっとして機会を待った。
毎日、気持ちのいい秋晴れが続いた。
野枝は朝から忙しく洗濯や掃除に立ち働いて、折々は子供の相手になってやりながら、呑気らしく子守歌を歌ったりした。
夜は疲れた体を横にすると、そのままぐっすりと眠りこんだ。
子供も秋風に肌心地がよくなると、目に見えておとなしくなった。
四、五日すると母親は陽気な笑顔を見せて帰って来た。
家の中には隅々まで和(やわ)らかな気分が広がつてゐて、逸子のねらつてゐるやうな、険悪な機会は、何処にも潜んではゐなかつた。
一度は確つかりと考へ固めた彼女の決心が、知らず/\の間に、ほぐれ始めた。
けれど逸子は、そんな事にはふり向きもせずに、一日々々と近づいて来る冬仕度についての、考への方が、遥かに大事な事でゝもあるやうに一生懸命に、あれ、これと、考へては手を下ろして行つた。
日が傾いて、よく乾いた洗濯物を腕一杯に抱へて、家の中に這入つて来る彼女の顔には、何の不満らしい曇りもなく、疲労に汗ばんではゐても晴れやかな眼をして子供をあやしたり、母親の話相手になつたりしてゐた。
(「惑い」/『新日本』1918年10月号・第8巻10号/『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』_p327/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p296)
★『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』(大杉栄全集刊行会・1925年12月8日)
★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
第121回 小石川植物園
文●ツルシカズヒコ
野枝が西原から金策をしてきた日の翌朝。
辻も野枝も義母の美津も、それぞれに不機嫌だった。
野枝は朝の仕事をひととおりしてしまうと、机の前に座って子供の相手をしながら読書を始めた。
野枝にとって読書が最も寛(くつろ)げるときだった。
書物に引きつけられた母親に物足りなくなった子供が、いつのまにか茶の間の方に逼(は)って行った。
「坊や、おとなしいね、母ちゃんは何してるの。また御本かい、本当に仕様のないお守りさんだね。昼日中、子持ちが机の前で本を読んでいるなんて、とんでもない話だ。することは後から後からといくらでもありますって、坊やそうお言い。あんまりお呑気がすぎますよ」
野枝は頓着なしに、そのまま強情に机の前から離れないでいた。
遅く目を覚ました辻は、ひとりで朝食をすませ、しばらく縁側にしゃがんでいた。
ふと野枝の方に向いた辻は、
「お前の方ではどうにかならないかい」
と、できるだけ平気な顔で聞いた。
『駄目ですよ、あなたはまた他人に押しつける気でゐるんですね。偶(たま)にはひとをあてにせずに何とかしなさいね、あんまりだわ』
逸子はプン/\しながら隣室にも聞こえるやうな声で冷たく云ひ放つた。
『何て意気地のない男だらう』
さう云ふ考へが何の前置きもなく、今、かつとした気持の後から浮んで来ると、何時か書物に向けた注意は離れて仕舞つた。
心の底からこみ上て来る忌々(いまいま)しさを耐へかねて、彼女は書物を伏せると一刻も家にぢつとしてゐられないやうな気持ちで一杯になつた。
帯をしめ直して子供を抱いて立ち上ると、そのまゝツカ/\玄関まで出たが、思ひ返して懐から財布を出すと子供を其処に待たしておいて幾枚かの紙幣を机の上に置いて後もふり向かずに出て行つた。
(「惑い」/『新日本』1918年10月号・第8巻10号/『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』_p309~310/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p286)
野枝と子供が小石川植物園で散々遊び疲れて帰ったのは、もう日暮れに近い時分だった。
野枝が予期したとおりに、美津の姿はもう見えなかつた。
辻は陰欝な顔をして庭先に突っ立っていた。
それを見ると、野枝の気持ちは急に暗いところに引き込まれるように沈んだ。
「ああ、つまらない!」
野枝はもう何もかも投げ出してしまいたいような、やるせなさを感じて焦(じ)り焦りした。
彼女は子供にまで遣り場のない気持ちを当たり散しながら、すぐに可哀そうになって一緒に泣き出しそうになったりした。
夕飯がすむと、疲れた子供と一緒になってうつらうつらしているうちに眠ってしまった。
二時間ほどの眠りから醒めた野枝のぼっとした頭の隅の方から、昼間の不快さがもたげ始めた。
彼女は体を起こし衣紋(えもん)を直しながら、もう昨日からのことについては何も考えまいと思い、茶の間に入りお茶を飲んだ。
そして壊れかかったた髪のピンをさし直したりして、ようやく机の前に座った。
野枝は昼間に伏せたままの書物を開いて読み始めたが、先刻の眠りで疲れた頭はもうすっかり緩みかけていて、読んでいる文字はなんの意味もなさずに、バラバラに眼に映るだけだった。
その気持ちのうつろな隙を狙って、考えまい考えまいとしていることがチョイチョイと頭をもたげ出す。
「なぜ、こうなのだろう……」
とうとう野枝は机の上から眼を離すと、いろいろな考えが一度に押し寄せてきた。
「あの金にどんな顔をして手を触れたろう?」
そんなことをまず思い、あの人は自分では決して嫌なことをしないですますことばかり考えている、意気地がないというよりは横着で手前勝手な人間のように、野枝には思えてくるのだった。
『何んだ、まだこれを読んでしまはないのか、こんなものに幾日かゝるんだ?』
谷は逸子の机の傍に座ると直ぐ、書物の頁を返しながら云つた。
『毎日々々、用にばかり追はれてゐて、読む事も何も出来るもんですか、あなたとは違ひますよ』
今が今まで考へてゐた、谷に対する感情をそのまゝむき出しに。弾き返すやうに云つて逸子は口を一文字に引き結んで黙つた。
思ひがけないやうな返事に出遭つた谷はムツとしたやうに後の言葉をそのまゝ引つこめて暫く無言でゐたが、やがて穏やかな調子になりながら話かけた。
『そんなに、用と云ふ用を皆んな、お前がしなくつても済むだらう? いちんちあくせくして騒がないで、何とかもう少し時間の出るやうな工夫をすればいゝじゃないか』
『そんな事は、今更あなたの指図を受ける迄もないんですけれど、そんな事とても駄目です』
『何故だい、家の中の用はお糸だつて、お母さんだって、やれない事はないんだし、骨の折れないものを読む位の事は、守りをしながらでも出来るだらう? 夜だつ、かうして相応に時間はあるぢやないか』
『さう、はたで見てゐるやうなものぢやありませんよ。どうして、皆書物をよむのは無駄話をするよりもぜいたくな道楽だ位にしか思つてはゐないんですもの。その為めに時間を拵(こしら)へるなんて、飛んでもない事ですわ、少しばかり時間を見出したつて何の役にも立ちやしない。夜は夜で疲れてしまつてとても駄目です。こんなぢや、私もうどうなるか分りやしない。皆はずん/\勉強してゐるのに、私ひとりは取り残されてゆくんだわ』
(「惑い」/『新日本』1918年10月号・第8巻10号/『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』_p312~313/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p288)
「まさか道楽だとも思ってやすまい」
「思ってやすまいって、今朝だって、あんなに言っていたのがわらないんですか」
「そんなら、黙っていないで、道楽でないとよく話してやればいいじゃないか。黙っていたんじゃ、いつまでたってもわかりはしないよ」
「そう思うんなら、あなたが話して下さいな。私じゃ駄目なんですから」
「自分のことは自分で話せばいいじゃないか、なぜ駄目なんだい?」
「私が言ったんじゃ変に取られるばかりです。あたり前のことだって、あの人たちにゃ、何ひとつ、私の口からは言えないんですよ」
「そんな馬鹿なことがあるもんか。それはお前の余計なひがみだ。言わないでいるだけ、自分の損じゃないか。言いたいことはずんずん言い、したいことはどしどしかまわずするさ。下らない遠慮をしているから馬鹿をみるのさ」
「私とあの人たちの間と、あなたとあの人たちの間は別ですよ。ひがむわけじゃありませんけれど、あなたが言いたいことを言ったり、したいことをして、たとえ一時は怒ったり怒られたりしたって、その場きりですみますけど、私じゃそうはゆかないんです。あたり前なことひとつ言っても、十日も廿日も不快な顔ばかりしていられたり、辛らいことを聞かされるのじゃ、やりきれませんからねえ」
「じゃ仕方がない、どうともお前のいいようにするさ」
辻はそう言ったままプイと立って行った。
同時に野枝の頭の中では、彼の冷淡な思いやりのなさへの怒りが、火のやうに一時に炎(も)え上がった。
★『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』(大杉栄全集刊行会・1925年12月8日)
★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
第120回 毒口
文●ツルシカズヒコ
「お前さんも、あんまり呑気だよ。用達しに行ったとき、遊びにいったときとは違うからね。子供を他人に預けてゆきながら、いつまでもよそにお尻をすえていられたんじゃ、預かった方は大迷惑だよ。もう少し大きくなれば、どうにか誤魔化しもきくけれど、今じゃ一時だって他の者じゃ駄目なんだからね、そのつもりでいてもらわなくちゃ」
ただ美津の不機嫌な顔を見るのが嫌なばかりに、ようやくの思いで金をもらいに行き、どうにか持って帰って、まだ座りもしない前からいきなり、そうした言葉を美津に投げつけられ、野枝は心外ともなんとも言いようのない口惜しい腹立たしい気持ちでいっぱいになった。
一時間や二時間くらいかかるのは初めからわかりきっているのだし、場合によっては、もつと延びるくらいのことは考えてくれてもよさそうなのに……。
こんなことなら少々不機嫌でいられても、行かなければよかったとさえ野枝は思った。
野枝はこの上いやな言葉は聞きたくなかったので、
「どうもすみません」
と簡単に言ったきり、子供を抱いて次の間に入った。
美津の気持ちはいつまでたっても直らないと見えて、耳を覆いたいような毒口が後を追っかけて来た。
とうとう野枝もたまらなくなって言った。
『彼処(あそこ)まで、行つて帰るだけだつて二時間はかゝります。私だつて用足しに行つて、無駄な時間なんぞ呑気につぶしてやしませんよ。頼まれたつて落ちついてなんかゐられやしません。用の都合で一時間や二時間遅れる位の事はあたり前だと思つて行かなくつちや。さう用を足しに出る度に一々小言を言はれたり、当たられたりしちやたまりませんわ、好きで出てる訳ぢやないんですからね』
『あたりまへさ、好きで出られてたまるもんかね』
(「惑い」/『新日本』1918年10月号・第8巻10号/『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』_p304/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p283~284)
野枝はそのまま黙ってしまった。
普段、耐えている言いたいことのありったけがこみ上げて来るのをじっと抑えて、無心に乳房に吸ひついている子供を抱きしめながら、
「もう、あんなこと言われて金なんか出すものか」
と思い、机の上の財布に目をやった。
その中には義母の必要を充分にする金額の三、四倍もの金が入っていた。
先刻まではその金でどんな嫌な思いをしたにしろ、もう自分の手で自由に使うことのできる金だと思うと、強い口をきいている美津に対して、なんとなく皮肉な嘲笑を投げたくなるのだった。
「いくらでも、なんとでも言うがいい。そのくらい言えば、金をくれとはまさかに言えまい」
意地の悪い野枝の考えは、それからそれへと募っていき、もう少しなんとか言いたいことを言って、この金でどこか旅行でもしてこようかしら、それとももうこのままこんな煩さい家は出てしまおうか。
そんなことまで野枝は考えていた。
辻は朝出かけたままで、夕飯過ぎまで帰らなかった。
美津と野枝はふたりとも意地悪く黙りこくって、いつまでも不機嫌な顔をし合っていた。
夜になると野枝は子供を早く寝かして、そのまま机の前に座って、四、五日も前から半ば読んでそのままになっている書物を開いた。
座ると不思議に険しい気持が去ってゆったりと落ちついた気分になり、久しぶりでしみじみと、書物に対することができたような快さを感じた。
夜もふけてから、辻はぼんやり帰って来た。
美津はまだ茶の間で、彼の帰りを待っているらしかった。
野枝は帰って来た辻の顔をちょっと見ただけで、そしらぬ顔で書物に目を落とした。
辻はさっさと茶の間に入っていった。
『何処を歩いてたの今時分まで』
「彼方此方(あちこちさ)さ』
『それで、何とか出来たかえ』
『駄目だ』
『それぢや困るぢやないか、お前は本当にどうしてさうなんだらうね。あんまり意気地がなさすぎるぢやないか、たんとのお金でもないのに。』
『明日どうかするよ』
『明日ぢや間に合ひはしませんよ』
『ぢや仕方がないや』
『仕方がないつて、それぢや済みませんよ、だから、朝もあんなに念を押しといたんだのに、お前のやうに当てにならない人間はありやしない。』
『だつていくら念を押したつて間に合はないものは仕様がないや、それよりはお茶を一杯おくれよ』
『お前はそれで済ましてゆけるけれど、お母さんは困つて仕舞ふぢやないか、お前が何時までも、さうやつて意気地なくのらくらしてゐるから、何だつて彼だつて皆家の中の事に順序がなくなつて仕舞うぢやないか、お前が第一確(し)つかりしてゐないからこの年になつて、嫁にまで馬鹿にされるのだよ、自分さへのんきにしてゐれば、他人はどうでも構まわない気かもしれないけれど、そうはなか/\ゆきませんよ』
(「惑い」/『新日本』1918年10月号・第8巻10号/『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』_p306~307/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p285)
美津は今までひとりで長いこと考えためていたことを、また片っぱしから辻の前に並べようとしていた。
だが、それはやはり今朝、散々並べたてた愚痴となんの違いもなかった。
けれどやがて、なにをどう言っても平気な顔で聞いているのかいないのかわらないやうな辻の態度に、なんの手応えも感じなくなった美津は独り言のような調子から涙声になって黙ってしまった。
野枝は同じ愚痴を聞きたくもないと思いながら、どうしてもそれが耳について、いったんそこに向いた注意がどうしても、書物の上に帰って来なかった。
野枝の固く閉じた先刻の気持ちは、どこまでも開かないで遠い冷たい気持ちで次の間の話を聞いていた。
野枝の心の奥底の方のどこかでは、いい気味だというような笑いさえ浮べているのであった。
★『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』(大杉栄全集刊行会・1925年12月8日)
★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index