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2016年09月18日
第354回 暁民共産党事件
文●ツルシカズヒコ
暁民共産党事件が起きていた、一九二一(大正十)年十一月十二日、大杉は朝早く大森の山川の家を訪ねた。
「やあ、どうだい」
「うん、相変わらずだ」
ふたりは、十幾年かの間、繰り返してきたこのお定まりの挨拶を交わした。
ベルトのついた茶色の外套を着た大杉は、バスケットを提げ、珍しく魔子を連れていなかった。
「ひとりなのかい?」
「なに、今日は奥山さんにお詣りだ」
「菊栄君にはずいぶん逢わぬな。この前もいなかったよ」
この前とは前年八月、大杉と和田久太郎と近藤憲二が焼豚を手みやげに訪れたときのことである。
そのときも菊栄は転地療養中で留守だったが、この日も奥山医院に行って留守だった。
『今日はこれから仙台まで往くんだ。』
斯う云つて大杉君は立ち上つた。
『しかし僕等がロシアにゐたら、大体に於て、まああの通りをやつたらうな。』
大杉は外套のボタンを掛けながら、斯う云つた。
『そうさ、君が彼の時、彼の人たちの代りロシアにゐたら、精密に同じ事をやつたらう。』
『ナニ、精密に同じ事はやらぬさ。プリンシプルが違うから。』
『そのプリンシプルと云ふ奴が、滅多に当てにならぬ奴でね。』
『滅多に当てにならぬ奴でね』と大杉君は口真似のやうに繰返した。
そして直ぐそのあとから、何時もの通りの如何にも罪のない、面白そうな、ヒ、ヒ、ヒといふ笑声を残して、バスケットを提げて出て往つた。
(山川均「大杉君と最後に会ふた時」/『改造』1923年11月号)
『東京朝日新聞』(十一月十四日)によれば、大杉は仙台赤化協会主催の社会問題講演会に出席するために、加藤一夫、岩佐作太郎らと仙台に向かったのである。
講演会は十一月十三日、午後六時から仙台歌舞伎座で開催された。
元寺小路の中央ホテルから会場に向かう途中、大杉と加藤は一番丁(ママ)の鳥屋で夕飯を食べようとしていたところを、仙台署の刑事に引致された。
岩佐も滞在していた旅館で引致され、検束された大杉、加藤、岩佐は講演会には出席できなかった。
三人が出席できなくなったため、講演会に詰めかけた数百名の聴衆が騒ぎ出し、百八十名の巡査が会場の内外を警戒する事態になった。
大杉ら三人はそれぞれに尾行の巡査をつけられ、東京に送還された。
鎌倉に住んでいたころの野枝について、和田久太郎はこう評している。
大正九年の六月、『労働運動』は一時廃刊と決して、大杉一家は相州鎌倉に引越した。
そして、この頃から野枝さんはぼつぼつと嫌やな性質を発揮しだした。
自ら労働運動の渦中に投じて働かうと云ふ熱もなくなつて行つた。
八年の夏頃から、大杉君の原稿が盛んに雑誌界で迎へられるやうになつた。
本を出せば飛ぶやうに売れて行つた。
社会的名声が高くなつて行つたのだ。
それに伴(つ)れて野枝さんの原稿も相当売れるやうになり、生活がよほど楽になつて来た。
で、鎌倉へ行つてからは、蓄音機(ママ)を買つたり、写真機を買つたり、時々は帝劇の音楽会などの一等席へ大杉君共に姿を現はしたりするやうになつた。
そして又、その頃から新聞記者や出入の商人に対する応対振りに、実に嫌やな、高慢ちきな、傲慢な態度を見せるやうにもなつて来た。
(和田久太郎「僕の見た野枝さん」/『婦人公論』1923年11月・12月合併号)
さらに和田は、こう記している。
野枝さんは、鎌倉へ行つて三女の『エマ』を産み落してから、以前のほがらかな所がなくなつた。
そして、時々ヒステリーを起して物を打ち壊したり、二日も三日も着物のまゝで黙つて寝て了(しま)ふやうな事があつた。
(和田久太郎「僕の見た野枝さん」/『婦人公論』1923年11月・12月合併号)
十一月二十三日、大杉一家は神奈川県三浦郡鎌倉町字小町二八五番地から、同郡逗子町字亀井九六九番地に引っ越した。
『読売新聞』(十一月二十四日)が「其筋を巧みにまいて 大杉栄氏転居 逗子に七十円の別荘」という見出しで報じている。
ひと月の家賃七十円の借家だが、その家は鎌倉の家同様、大谷嘉兵衛名義である。
『読売新聞』には「引越先は葉山御用邸に通ずる沿道であるし県警察部でも警戒の眼を放つている」とある。
中浜鉄「逗子の大杉」(『自由と祖国』一九二五年九月号)によれば、その家は駅から南に三、四丁のところにあり、浜辺へ下るダラダラ坂に沿って冠木門(かぶきもん)を抱いた人造石の高塀があり、家はかなり凝った和洋折衷で屋の棟が高くそびえていた。
門前は街道を隔てて鉄道線路まで野菜畑が広がり、畑の中には刑事たちの監視小屋があり刑事が四人常駐していた。
大杉豊『日録・大杉栄伝』によれば、逗子に転居してまもない十二月一日、大杉宅が暁民共産党事件の関与の疑いで警視庁の家宅捜索を受けた。
官房長官・正力松太郎、特高・外事課長らが刑事十数名を率いて家宅捜索を行なったが、確証は得られなかった。
結局、大杉も堺も山川も暁民共産党事件の累を免れたのである。
『夢を食いつづけた男 おやじ徹誠一代記 』は、植木等の語り下ろし調で綴られた、植木の父・植木徹誠(うえき-てつじょう)の一代記である。
御木本貴金属工場に勤務していた植木徹誠は、大正デモクラシー隆盛期の一九二一(大正十)年当時、労働運動に強い関心を抱き、「労働学校」に通ったり、「建設者同盟」の研究会に参加、若手の無政府主義者たちが作っていた「バガボンド社」にも顔を出していたという。
「バガボンド社」では、伊藤野枝や、彼女との恋愛で有名なダダイストの辻潤、俳優大泉晃の父、大泉黒石にもあった。
伊藤は、すでにこの頃、辻と別れて大杉栄と一緒になっていたが、たまたま辻と同席することがあっても、さすがに平然としていたそうだ。
服装は地味だが、身体の内部から利発さがにじみ出るような女性だったという。
こうした錚々たる人たちの間で、ひときわおやじ……たちに強い印象を与えたのは、大杉栄だった。
大杉は、茶系統の背広に派手な柄のネクタイを締めていた。
平素は口ごもる癖があったが、話が興に乗ると能弁になった。
講演よりは、むしろ座談の名手だったそうで、ヨーロッパの労働運動の状態、小さい船で日本を脱出した時の話、地方分権でなければ自由は保障されないということなどを説き来り説き去って、おやじたちを魅了した。
大山郁夫が学者タイプで謹厳だったのに比べ、大杉は人間的魅力が横溢していたそうだ。
(植木等『夢を食いつづけた男 おやじ徹誠一代記 』_p42~43)
ちなみに、植木徹誠の生年月日は一八九五(明治二十八)年一月二十一日、野枝と同じである。
★大杉豊『日録・大杉栄伝』(社会評論社・2009年9月16日)
★植木等『夢を食いつづけた男 おやじ徹誠一代記 』
(ちくま文庫・2018年2月10日)
★植木等・著 北畠清泰・構成『夢を食いつづけた男 おやじ徹誠一代記 』(朝日新聞社・1984年4月/朝日文庫・1987年2月20日_p39-40)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
第353回 ピンポン
文●ツルシカズヒコ
一九二一(大正十)年十一月、大杉が藤沢・鵠沼海岸の旅館東屋で『改造』に連載中の「自叙伝」の原稿を書いているころ、宇野浩二も同宿していた。
その時、東家で、一緒になったのは、里見ク、久米正雄、芥川龍之介、佐々木茂索、大杉栄、その他がゐた。
私が、その時、東家に行くと、大杉が奥の二階の座敷にゐたので、私は、大杉の下の、奥の下の部屋に陣取ることにした。
この部屋は、落ち着いてゐて、勉強するには持つて来いであつた。
さうして、大杉の部屋は、見晴らしはよいが、ぽかぽかして暖かく勉強するには適しなかった。
その代り、里見、久米、芥川、佐佐木、ある時は谷崎潤一郎夫人(後の佐藤春夫夫人)の妹のせい子、その他が集まつて楽しく遊ぶ時は、大杉の部屋に集まることにした。
(宇野浩二『文学の三十年』_p157)
大杉の二階の八畳が一番広くて明るかったので、そこに集まった面々は、まだ麻雀などなかったときだから、「花かるた」をやった。
その『花かるた』をやりながた、大杉は、窓の下にみえる池のそばの、亭を指さしながら、「あすこに、番人がゐるから大丈夫だよ」といつた。
番人とは、その六畳ぐらゐの部屋のある亭に、大杉についてゐる、刑事が二人ゐたからである。
さうして、それを大丈夫といつたのは、大杉がその部屋にゐると、刑事が尾行する必要がなかつたからである。
(宇野浩二『思ひがけない人』_p92)
面々はよく写真も撮ったという。
里見と佐佐木が東屋の庭園に立つてる図、砂浜にあげられた和船に大杉がもたれ、その前に久米が踞んでゐる図、芥川と佐佐木が、何の苦もなささうに、窓際の椅子に、ならんで、腰かけてゐる図、江口が愛犬をつれて海岸歩く図、その他ーーこれらの写真は、みな二十年ほど前のものなれば、人人は若く、人の世の風は柔かく、回想すれば、この鵠沼時代は、みなみな、人の世の楽しい時であつた、ただ一人の人を除けば……。
(宇野浩二『文学の三十年』_p158)
この東家に滞在中に、大杉は吉屋信子と卓球をした。
吉屋はこのとき二十五歳である。
……徳田秋声先生が鵠沼海岸の東屋旅館に保養中を見舞うと、その座敷に目のぎょろりとした人物が宿のたんぜん姿であぐらをかいて先生にしゃべりつづけていた。
大杉栄だと私にはすぐわかった。
その彼は私を無視して秋声とだけ語り合っていたが、やがていきなり立上がると私に「おい君、ピンポンやろう」と言う。
宿のピンポン台に向うとボールの割れるほど烈しい打込み方で、私は冬だのに汗をかくほど悪戦苦闘だった。
これが大杉栄を見た最初であり、また最後であった。
(吉屋信子『私の見た人』_p31~32)
田辺聖子『ゆめはるか 吉屋信子(上)』(p30)によれば、吉屋一家と大杉一家はかつて近所に住んでいたことがあった。
吉屋の父が新潟県の佐渡郡長から北蒲原郡の郡長に転勤になり、吉屋一家が新発田に引っ越しして来たのは一八九九(明治三十二)年だった。
このとき大杉は十四歳、新発田中学三年生、信子は三歳だった。
信子が吉屋一家と大杉一家がかつて近所だったことを知ったのは、日蔭茶屋事件のときだった。
大杉栄訳のダーウィンの「種の起原」をナンデモむやみと読みましょうだった私が買ってまもなく、その学識のある訳者が艶福の三角関係で傷害をこうむった事件が新聞紙上をにぎわした。
母がその新聞の写真を見てびっくりした。
「まあ、これは大杉さんの坊ちゃんだよ」
かつて父の任地だった新潟新発田でわが家の近くに住んだ大杉少佐の長子「中学から幼年学校へいったはずだのにーー」そのころの面影にそっくりという。
母はその坊ちゃんがいつの間にかおそろしき無政府主義者などになったのか合点がゆかぬらしかった。
新発田では私は三、四歳の童女で何も知らない。
(吉屋信子『私の見た人』_p31)
吉屋はその後の「大杉との縁」についても記している。
吉屋がパリに滞在中のことだった。
知人の奥さんをアパートの住居に訪問した冬の夜、その部屋へ通じる廊下ですれ違ったのは、濃茶のソフトと同色の外套、眼鏡をかけた丸い感じの顔の日本人男性だった。
そのアパートには邦人の家族が二、三組、並んだ部屋に住んでいたので、日本人男性を見かけても不思議ではない。
知人の奥さんの部屋の扉をノックすると、不在だったが、ちょうどその尋ねる奥さんが隣りの邦人の部屋から出て来るところだった。
そして彼女はホットニュースをすぐに告げたいような素振りで、吉屋に言った。
「今、お隣りにそら、あの、甘粕大尉が来ていたのよ」
吉屋がすれ違った男が甘粕だという。
甘粕正彦がフランスに滞在したのは一九二七(昭和二)年から一九三〇(昭和五)年、吉屋のパリ滞在は一九二八(昭和三)年から一九二九(昭和四)年なので、一九二八年か一九二九年の冬のことだと思われる。
吉屋は大杉がラ・サンテ監獄から魔子に宛てた電文に触れ、こう記している。
……その思想はともあれ、子ぼんのうのよきパパだったにちがいない。
その魔子ちゃんは孤児となってのち親戚に引取られて成長、女学生になった姿がずっと以前の「婦人之友」の写真に出た時、彼女の小さい書だなに私の少女小説が数冊ならんであったと報じられて、ひどく胸が熱くなってしまった。
(吉屋信子『私の見た人』_p33)
★宇野浩二『文学の三十年』(中央公論社・1942年8月20日)
★宇野浩二『思ひがけない人』(宝文館・1957年4月25日)
★吉屋信子『私の見た人』(みすず書房・2010年9月17日)
★田辺聖子『ゆめはるか 吉屋信子ー秋灯机の上の幾山河(上)』
(中公文庫・2023年6月25日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index