2016年09月18日
第353回 ピンポン
文●ツルシカズヒコ
一九二一(大正十)年十一月、大杉が藤沢・鵠沼海岸の旅館東屋で『改造』に連載中の「自叙伝」の原稿を書いているころ、宇野浩二も同宿していた。
その時、東家で、一緒になったのは、里見ク、久米正雄、芥川龍之介、佐々木茂索、大杉栄、その他がゐた。
私が、その時、東家に行くと、大杉が奥の二階の座敷にゐたので、私は、大杉の下の、奥の下の部屋に陣取ることにした。
この部屋は、落ち着いてゐて、勉強するには持つて来いであつた。
さうして、大杉の部屋は、見晴らしはよいが、ぽかぽかして暖かく勉強するには適しなかった。
その代り、里見、久米、芥川、佐佐木、ある時は谷崎潤一郎夫人(後の佐藤春夫夫人)の妹のせい子、その他が集まつて楽しく遊ぶ時は、大杉の部屋に集まることにした。
(宇野浩二『文学の三十年』_p157)
大杉の二階の八畳が一番広くて明るかったので、そこに集まった面々は、まだ麻雀などなかったときだから、「花かるた」をやった。
その『花かるた』をやりながた、大杉は、窓の下にみえる池のそばの、亭を指さしながら、「あすこに、番人がゐるから大丈夫だよ」といつた。
番人とは、その六畳ぐらゐの部屋のある亭に、大杉についてゐる、刑事が二人ゐたからである。
さうして、それを大丈夫といつたのは、大杉がその部屋にゐると、刑事が尾行する必要がなかつたからである。
(宇野浩二『思ひがけない人』_p92)
面々はよく写真も撮ったという。
里見と佐佐木が東屋の庭園に立つてる図、砂浜にあげられた和船に大杉がもたれ、その前に久米が踞んでゐる図、芥川と佐佐木が、何の苦もなささうに、窓際の椅子に、ならんで、腰かけてゐる図、江口が愛犬をつれて海岸歩く図、その他ーーこれらの写真は、みな二十年ほど前のものなれば、人人は若く、人の世の風は柔かく、回想すれば、この鵠沼時代は、みなみな、人の世の楽しい時であつた、ただ一人の人を除けば……。
(宇野浩二『文学の三十年』_p158)
この東家に滞在中に、大杉は吉屋信子と卓球をした。
吉屋はこのとき二十五歳である。
……徳田秋声先生が鵠沼海岸の東屋旅館に保養中を見舞うと、その座敷に目のぎょろりとした人物が宿のたんぜん姿であぐらをかいて先生にしゃべりつづけていた。
大杉栄だと私にはすぐわかった。
その彼は私を無視して秋声とだけ語り合っていたが、やがていきなり立上がると私に「おい君、ピンポンやろう」と言う。
宿のピンポン台に向うとボールの割れるほど烈しい打込み方で、私は冬だのに汗をかくほど悪戦苦闘だった。
これが大杉栄を見た最初であり、また最後であった。
(吉屋信子『私の見た人』_p31~32)
田辺聖子『ゆめはるか 吉屋信子(上)』(p30)によれば、吉屋一家と大杉一家はかつて近所に住んでいたことがあった。
吉屋の父が新潟県の佐渡郡長から北蒲原郡の郡長に転勤になり、吉屋一家が新発田に引っ越しして来たのは一八九九(明治三十二)年だった。
このとき大杉は十四歳、新発田中学三年生、信子は三歳だった。
信子が吉屋一家と大杉一家がかつて近所だったことを知ったのは、日蔭茶屋事件のときだった。
大杉栄訳のダーウィンの「種の起原」をナンデモむやみと読みましょうだった私が買ってまもなく、その学識のある訳者が艶福の三角関係で傷害をこうむった事件が新聞紙上をにぎわした。
母がその新聞の写真を見てびっくりした。
「まあ、これは大杉さんの坊ちゃんだよ」
かつて父の任地だった新潟新発田でわが家の近くに住んだ大杉少佐の長子「中学から幼年学校へいったはずだのにーー」そのころの面影にそっくりという。
母はその坊ちゃんがいつの間にかおそろしき無政府主義者などになったのか合点がゆかぬらしかった。
新発田では私は三、四歳の童女で何も知らない。
(吉屋信子『私の見た人』_p31)
吉屋はその後の「大杉との縁」についても記している。
吉屋がパリに滞在中のことだった。
知人の奥さんをアパートの住居に訪問した冬の夜、その部屋へ通じる廊下ですれ違ったのは、濃茶のソフトと同色の外套、眼鏡をかけた丸い感じの顔の日本人男性だった。
そのアパートには邦人の家族が二、三組、並んだ部屋に住んでいたので、日本人男性を見かけても不思議ではない。
知人の奥さんの部屋の扉をノックすると、不在だったが、ちょうどその尋ねる奥さんが隣りの邦人の部屋から出て来るところだった。
そして彼女はホットニュースをすぐに告げたいような素振りで、吉屋に言った。
「今、お隣りにそら、あの、甘粕大尉が来ていたのよ」
吉屋がすれ違った男が甘粕だという。
甘粕正彦がフランスに滞在したのは一九二七(昭和二)年から一九三〇(昭和五)年、吉屋のパリ滞在は一九二八(昭和三)年から一九二九(昭和四)年なので、一九二八年か一九二九年の冬のことだと思われる。
吉屋は大杉がラ・サンテ監獄から魔子に宛てた電文に触れ、こう記している。
……その思想はともあれ、子ぼんのうのよきパパだったにちがいない。
その魔子ちゃんは孤児となってのち親戚に引取られて成長、女学生になった姿がずっと以前の「婦人之友」の写真に出た時、彼女の小さい書だなに私の少女小説が数冊ならんであったと報じられて、ひどく胸が熱くなってしまった。
(吉屋信子『私の見た人』_p33)
★宇野浩二『文学の三十年』(中央公論社・1942年8月20日)
★宇野浩二『思ひがけない人』(宝文館・1957年4月25日)
★吉屋信子『私の見た人』(みすず書房・2010年9月17日)
★田辺聖子『ゆめはるか 吉屋信子ー秋灯机の上の幾山河(上)』
(中公文庫・2023年6月25日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
-
no image
-
no image
-
no image
-
no image
-
no image