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2016年08月18日

第326回 駿台倶楽部






文●ツルシカズヒコ




 一九二一(大正十)年一月中旬ころ、有楽町の労働運動社の仮事務所に、林倭衛広津和郎が突然、訪ねて来た(大杉豊『日録・大杉栄伝』)。

 ふたりはその日の夜、雨が降る中、銀座を散歩していたが突然、義太夫を聞きたくなった。

 食わず嫌いだった林に、義太夫の魅力を伝授したのは広津だった。

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 林は西洋音楽に対してかなりの熱情をもっていた。

 そんなに豊であるはずがない西洋画家生活の間に、ビクタアやコロンビアのレコードを百五十枚だか二百枚だが持っていた事でも、彼の音楽好きが想像出来るだろう。

 何でもそれはポツポツと買集めたので集まったのだが、しかし彼はそれだけのレコードを揃えていながら、蓄音器は持っていなかった。

 レコードは一枚一枚買えるので、一時に金が要らないが、蓄音器は一時に纏まった金が要るので、彼には買えなかったのである。

 それで彼は自分のレコードが聞きたくなると聞きたいレコードを小脇にかかえ込んで、何処か蓄音器を持っている友達のところに、出かけて行く事にしていた。

 その林に自分は義太夫熱を吹込んだ。

 日本音楽を聞かずに軽蔑していた彼は、やがて義太夫が好きになって来た。

 感受性の敏感な彼は、どんなものでも直ぐ理解する能力を持っていた。


(広津和郎「その夜の三人ーー大杉栄」・『改造』1925年10月号/広津和郎『同時代の作家たち』/広津和郎『新編 同時代の作家たち』_P230~231 )


 しかし、その晩、ふたりとも電車賃も持ち合わせていなかった。

「誰かに会うだろう」というような感じで、ふたりは銀座を歩いていたが、雨の中、散歩に出かけて来る知った顔はいなかった。

 林が大杉のところに行って金を借りることを思いついたので、数寄屋橋のそばの大杉の病室兼労働運動社の仮事務所を訪ねた。





 日露協会と向い合った自動車屋の二階から、尾行が首をのぞかしているのを見た林は、

「大丈夫大杉はいるよ。あすこの犬たちが番をしているから」といって、その自動車屋の二階を指さした。

 大杉は窓際のテーブルに向って、校正をしていた。

 奥の寝台の上に、野枝夫人が魔子ちゃんと一緒に寝ていた。

 非常に上等とはいえないが、相当に立派な部屋だったので、自分は「なかなか豪儀なものだね」と室内を見廻しながらいった。

「うん、そんなでもないがね」こう答えながらも、無邪気らしい得意さを顔に表して、「こんな事務所なんか持っているというので、近頃は大分成金見たような事をいわれるよ。上海に行って二万円持って来たなどという奴があってね……」

「その噂は僕も聞いたが、上海にはほんとうに行ったのかい?」

「いいや、行きやしないさ……」彼はそういって、へんにニヤリニヤリとした。

 行ったとも行かないとも取れるような笑い方だった。

「実はね、今義太夫を聞きに行く金を借りに来たたんでね」と林がいいだした。

「義太夫とは、また恐ろしく古風なものが聞きたくなったもんだね。ーーしかし金があるかな、どうかな。野枝さんに訊いて見給え」そういって、にこにこしながら、ちょっと寝台の方を顎で示した。

 そしてこんな事をいい続けた。

「しかし義太夫というものはちょっと好いものだよ。あれは半分坐睡(いねむ)りしながら聞いているに限る。坐睡りしながら、三味線に合わせて、こくりこくりやっていると、ほんとうに好いものだよ」

「弱ったな、実に」と林は野枝夫人の方を向きながら、頭を掻いた。

「悪いな、あなたに借りるのは……」

「まあ」と野枝夫人は寝台から起上って、快活に笑いながら、「でも、いくらもない事よ」

 それから蟇口を取出して、内をしらべていたが、

「三円あるから、一円五十銭持っていらっしゃい。それで足りて?」

「弱ったなあ、どうもーーははは」と林は再び頭を掻いた。

「それじゃ借りて行きます」


(広津和郎「その夜の三人ーー大杉栄」・『改造』1925年10月号/広津和郎『同時代の作家たち』/広津和郎『新編 同時代の作家たち』_P232~233 )





 広津と林は市ヶ谷見附のそばの「何んとかいう席」で義太夫を聞いた。

 ふたりは素雪(そせつ)の「堀川」の三味線を聞きたかったのだが、素雪は病気かなんかで休みだったのでがっかりした。

 広津は大杉との交流をこう回想している。


 大杉栄とは自分は五、六回しか会った事がなかった。

 矢来倶楽部で、彼が昂然と内ヶ崎作三郎に向って空嘯(そらうそぶ)いたのを見た時から、四、五年経ってからであろう。

 自分は彼と知合になった。

 矢来倶楽部の時から見ると、彼は人間が円熟して来たとでもいうのか、むしろ如才なさ過ぎはしないかと思われる位に、アタリが柔かった。


(広津和郎「その夜の三人ーー大杉栄」・『改造』1925年10月号/広津和郎『同時代の作家たち』/広津和郎『新編 同時代の作家たち』_P230)





 近藤栄蔵が大杉と初めて対面した編集会議の数日後(一月十五日ころ)、労働運動社は神田区駿河台北甲賀町十二番地の駿台倶楽部内に移った。

「病室から」(『労働運動』二次一号/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』/日本図書センター『大杉栄全集 第14巻』)によれば、有楽町の事務所では狭い部屋の中で五、六人の社員がそれぞれの机で仕事をしている、他に五、六人の連中が遊びに来る、部屋の隅っこの寝台に寝ている大杉は堪ったものじゃなかった。

 湿布では追いつかなくなり、氷嚢で胸を冷やすような始末になったので、労働運動社の事務所を移転したのである。

 近藤憲二『一無政府主義者の回想』、『近藤栄蔵自伝』、大杉豊『日録・大杉栄伝』によれば、駿台倶楽部はかつてニコライ堂に付属する女子神学校の寄宿舎として使用されていたが、それが貸事務所(アパート)になったもので、高い石塀と鉄門に囲まれた広い構内に建つ日本式平屋だった。

 南側に幅広い廊下があり、その外は芝生の庭で、そこからは神田、麹町一円が眼下に見渡された。

 労働運動社はこの駿台倶楽部に、八畳(『一無政府主義者の回想』では八畳だが『近藤栄蔵自伝』では十畳)二室を借りた。

 一室はテーブルや椅子を並べた編集室で、夜は机と机の間に近藤憲二、和田久太郎、近藤栄蔵、寺田鼎などが寝泊まりした。

 もう一室は食堂兼クラブで、来客が多いので自炊を手伝ってくれる来客もいた。

 駿台倶楽部内に望月桂の東京同人図案社があり、望月の斡旋でここに決めたのだった。

 大杉個人には三名の尾行がつき、四名の私服が昼夜交替で労働運動社を監視していた。



★大杉豊『日録・大杉栄伝』(社会評論社・2009年9月16日)

★広津和郎『同時代の作家たち』(文藝春秋新社 ・1951年)

★広津和郎『新編 同時代の作家たち』(岩波文庫・1992年10月16日)

★『大杉栄全集 第四巻』(大杉栄全集刊行会・1926年9月8日)

★『大杉栄全集 第14巻』(日本図書センター・1995年1月25日)

★近藤憲二『一無政府主義者の回想』(平凡社・1965年6月30日)

★『近藤栄蔵自伝』(ひえい書房・1970年)







●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 11:49| 本文

第325回 週刊『労働運動』






文●ツルシカズヒコ


 大杉豊『日録・大杉栄伝』によれば、一九二一(大正十)年一月八日、大杉は神田の多賀羅亭で開催されたコスモ倶楽部の懇親会で講演した。

 一月十一日、大杉が借りた有楽町の病室兼仮事務所で、週刊『労働運動』(第二次)の編集方針の協議が行なわれた(『日録・大杉栄伝』)。

近藤栄蔵自伝』によれば、栄蔵は靴店の仕事を妻に任せ上京した。

 事務所は有楽町の数寄屋橋と省線ガードとの中ほど、日本劇場の筋向かいに建つ木造四階建てビルの三階にあり、二室を借りていた。

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 栄蔵が大部屋に入って行くと、中央に大きなテーブルが置いてあり、それを囲んで四、五人の青年が編集か校正かの仕事に忙しそうだった。

 どてらを着た大杉は奥の部屋にいた。

「ヤア!」

 大杉の歓迎の挨拶はただそれだけだったが、彼の大目玉が嬉しそうに光っていた。

 近藤憲二、村木源次郎、和田久太郎、岩佐作太郎、中村還一らが集まっていた。

 野枝もいた。

 一同が集った部屋は表通りに面したバルコニーつき十畳敷きほどの洋間で、ソファーやストーブあり、栄蔵には「相当贅沢(社会主義者仲間では)」に見えた。

 熱のある大杉はダブルベッドに横になったままで、会議が始まった。





 栄蔵には大杉の肺結核がかなり進んでいるように見えた。

 会議といっても四角張ったものではなく、アナキストの集まりにふさわしい雑談混じりの意見交換だったが、アナ・ボル共同戦線の週刊新聞の編集方針を決定する最重要なものだった。

 大杉の発言は吃るがゆえに可能なかぎり言葉少なく簡潔で、要点だけを摘出するそつのなさがあり、まるでピカソの絵のような彼の会話に、栄蔵は心地よさを感じた。

 栄蔵は大杉の会議のリードの仕方にも感心した。

 大杉は同志の発言を黙って辛抱強く聞いていた。

 自分の意見を主張する必要のない場合は、相談するように、暗示するような話し方をした。

 大杉が命令的に自分の意見を押しつけるというケースを、栄蔵はその後も見たことがなかった。





 それにも拘らず彼の主張は、いつも大概通る。

 彼は結果において独裁者であるが、その独裁の過程は、ほとんど女性的とさえいえる柔らかい言葉と、思いやりのある仕草で包装されていた。

 この点彼はまさに天才的であった。

 栄蔵は大杉と識りあってから僅かに一年ばかりで、主義上敵の地位にまわって、心ならずも彼を裏切り、彼から「ゴマの蠅」と罵られるにいたったが、それでも栄蔵は少しも彼に反感を抱きえないばかりか、罵られて却って嬉しい気がするほど彼には男惚れしている。

 栄蔵が識った日本の全ての社会運動家のうち、大杉に匹敵する人物は、残念ながら、一人もいない。

 彼が甘粕に殺され仇討ちを、死を期して敢行せんとした同志が三人も現われたという事実だけでも、彼の人格を物語って余りある。

 こんなエピソードは、近代日本の社会運動史上、他にどこにもない。


(『近藤栄蔵自伝』_P143)





 四角張らない会議だったが、決めるべきことはサクサクと決まっていった。

 四六版、四倍版、十〜八頁の週刊紙は、当時、かなりの資金を要する大胆な冒険だった。

 金の出どころについては、栄蔵は山川からおおよそのことは聞いていた。

 紙面の分担については、大杉主幹が毎号社説と政治面、和田久太郎が労働組合方面のレポート、農民運動は岩佐作太郎、社会記事が中村還一、編集主任が近藤憲二とアナ側の人材という担当が決まった。

 大杉は栄蔵に、毎号全一頁を任せるからなんでも勝手にロシア革命について書けと言った。

 近藤憲二『一無政府主義者の回想』によれば、資金については二千円で足りるはずがなく、足りない分は大杉が工面した。



★大杉豊『日録・大杉栄伝』(社会評論社・2009年9月16日)

★『近藤栄蔵自伝』(ひえい書房・1970年)

★★近藤憲二『一無政府主義者の回想』(平凡社・1965年6月30日)



●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 11:26| 本文

2016年08月16日

第324回 露国興信所






文●ツルシカズヒコ




 一九二〇(大正九)年十二月十二日の夕方、近藤栄蔵が近藤憲二に案内されて鎌倉の大杉宅にやって来た。

 近藤栄蔵は日本社会主義同盟の大会に出席するために、神戸から上京していた。

 高津正道『旗を守りて』によれば、ロシア共産党の極東責任者のヴォイチンスキーから二千円を受け取っていた大杉は、この金を元にアナ・ボル共同戦線の週刊新聞の発刊を計画していた。

 大杉が堺と山川に相談すると、ふたりは承諾しなかったが、コミンテルンの在上海機関からの金なので、大杉もそのまま引き下がるわけにはいかず、

「それでは誰か適当な人を推薦してもらいたい。僕はアナで、ボルのことは知らないんだから」

 と堺と山川に頼んだ。

 そしてふたりが大杉に推薦したのが、近藤栄蔵と高津正道だった。

 近藤栄蔵と大杉は初対面だったが、近藤栄蔵はこの大杉との初対面をこう書いている。

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 (大杉の目玉は)ちょっと見たところでは怖ろしい眼であるが、深くみると、懐しみのある、すこぶる魅惑的な眼である。

 日本人には珍しい表情の眼で、栄蔵はロシアへ渡ってから、トロツキーの眼が有名で、彼にじっと見詰められると、女は気が遠くなるという話をきかされたが、大杉の眼は多少トロツキーのものに似ていた。

 大杉が女で騒動をおこし、危うく殺されかけたのも無理はなかったと思う。

 ……鎌倉で大杉の顔を見るまでは、労運社の運動に参加するかどうか、ぜんぜん決めていなかった。

 いろいろ大杉の計画や周囲の事情を調べてから、おもむろに決意するつもりでいた。

 ところが初対面のわずか二、三分の間に、そして何も仕事の話がでないうちに、栄蔵の肚はきまってしまった。

 この男なら一緒に仕事ができる、と彼は直覚的に知ったのである。

 大杉の方でも栄蔵が彼の運動に参加するかどうかを、あらたまった形で訊ねようとしなかった。

 それは問わずとも知れた既定の事実であるかのような素振りであった。

 大杉から話が切り出されないから、栄蔵もそれには一言もふれなかった。

 まったく以心伝心で事は決してしまったのである。


(『近藤栄蔵自伝』_p141)





『日録・大杉栄伝』によれば、十二月二十五日、大杉は有楽町の露国興信所の一室を病室兼事務所として借り、翌日、鎌倉からひとりだけでそこに移った。

 英字新聞『ジャパン・アドバタイザー』の貸室広告で探したのだが、露国興信所はしかつめらしい名称だが、実はロシア人の営む下宿屋である。

 麹町区有楽町三丁目一番の松本貿易会社の三階を借り切った一室で、翌年から発行する週刊『労働運動』(第二次)の臨時編集室も兼ねていた。

 警視庁はその三階の一室を正面から監視することができる、中央自動車の二階を借り受けて監視を始めた。

 大杉だけが鎌倉の家を出たのは、彼の体調がすぐれなかったからだ。

「病室から」(『労働運動』1921年1月・2次1号/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』/『大杉栄全集 第14巻』)と伊藤野枝「大杉栄の死を救ふ」によれば、前年の暮れからこの年の三月にかけての豊多摩監獄での入獄が、大杉の健康を害したようだ。

 大杉は夏に引いた風邪がなかなか抜けなかった。

 秋になって、十年来のかかりつけの医師、奥山伸の診察を受けた大杉は、肺患再発の兆候があると診断された。

 鎌倉にいては三田の奥山医院に通うのに不便であり、日本室では室温を高く保てないという奥山のアドバイスに従った結果が、この大杉の「ひとり引っ越し」だった。

 奥山は大杉に、ストーブで室温を充分に暖めることができる西洋室の「病室」での絶対安静を厳命し、さもなくば、命の保証はできないと嚇(おど)かした。





 ……おしつまつてから、奥山氏の勧告どほりに東京で病室を造つて寝てゐる事になりました。

 そして夜や非常に寒い日は絶対に外出せず、昼間もなるべく出ないで寝てゐることと云ふ注意にも出来るだけ従つてゐたやうです。

 もつとも室は大抵ストオヴで夜も昼も七十度以上の温度を保つてゐましたから、外には寒くて出られなかつたやうです。

 一週に一度か二度、鎌倉に帰つて来ましても昼間縁側で日向ぼつこが出来る間はいゝのですが暮れかゝると頻りにさむがつて、大抵は、朝来て夕方かへるやうにしてゐた位です。

 それなしでは一刻もゐられなかつた大好きな煙草も、有楽町の病室へ移つた日からフツツリと止めてしまひました。

 そして、丁度始めたばかりの『週刊労働運動』の仕事の為めに、兎角(とかく)に安静が保てないのが、よほど疲れさせてゐました。


(伊藤野枝「大杉栄の死を救ふ」/『野依雑誌』1921年6月号・第1巻第2号/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』_P276〜277)


「七十度」は華氏、摂氏二十一度である。

 煙草好きの大杉は葉巻、金口(きんぐち)、ネヴィカットを好んで吸っていた(近藤憲二『一無政府主義者の回想』)。





 大杉が借りた露国興信所の一室の下宿代を負担したのは東京毎日新聞社の社長・藤田勇だったが(近藤憲二『一無政府主義者の回想』)、『日録・大杉栄伝』によれば、このころ大杉は『東京毎日新聞』の客員記者になった。

 社としては宣伝を狙い、大杉は「捨扶持」をもらう利を取った。

 一九二二(大正十一)年の元日から『東京毎日新聞』一面の年始挨拶に名を連ね、二月六日まで「無政府主義の父ーーミシェル・バクウニンの生涯」を連載した。

 大杉が『東京毎日新聞』客員記者を離籍したのは、一九二三(大正十二)年七月である。

『日録・大杉栄伝』によれば、この年の秋ごろ、部落問題に取り組んでいた阪本清一郎が大杉宅を来訪した。

 阪本は西光万吉とともに社会主義同盟に加盟し、奈良県から上京すると、山川と大杉を訪問し部落問題に関する意見交換をしていた。


★『近藤栄蔵自伝』(ひえい書房・1970年1月)

★大杉豊『日録・大杉栄伝』(社会評論社・2009年9月16日)

★『大杉栄全集 第四巻』(大杉栄全集刊行会・1926年9月8日)

★『大杉栄全集 第14巻』(日本図書センター・1995年1月25日)

★『定本 伊藤野枝全集 第三巻』(學藝書林・2000年9月30日)

★近藤憲二『一無政府主義者の回想』(平凡社・1965年6月30日)



●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 16:35| 本文

2016年08月15日

第323回 日本社会主義同盟






文●ツルシカズヒコ



 日本社会主義同盟の発会式が開催されたのは一九二〇(大正九)年十二月十日だったが、前日の十二月九日、鎌倉の大杉宅で発会式に出席する四十余名の各府県代表者歓迎会が開かれた。

 大阪、山梨、名古屋、岩手、富山、兵庫、堺、横浜、東京からの出席者たちで、東京からは高津正道、久板卯之助、吉田一、大阪からは武田伝次郎などが出席していた。

『東京朝日新聞』(十二月十日)が「鎌倉では示威運動で十三名検挙 大杉氏歓迎招待の四十名」という見出しで報じている。

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 正午に大杉の挨拶で開会した歓迎会は、まもなく官憲の中止解散命令によって散会させられた。

 一同は鎌倉見物と称して鶴ヶ岡八幡宮から雪の下通りを練り歩き、示威運動を試み、午後二時半に再び大杉宅に集会した。

 四十余名の巡査が大杉宅を包囲し、鎌倉署が一同を検束、十三名を残し放還されたが、午後五時半ごろ放還された同志が革命歌を合唱しつつ鎌倉署に押し寄せ「検束者を放還するか、全員を検挙せよ!」と叫んだ。

 野枝は新橋で倒れて妊娠中の体を痛め、前夜には医師の往診を受けるなど安静にしていた(大杉豊『日録・大杉栄伝』)。

 この騒擾により、大別荘連(鎌倉に大きな別荘を持っている有力者たち)の間に、大杉一家が鎌倉に居住することは鎌倉の安寧を害するという話が持ち上がり、それが警察に伝わり、大家を巻き込んだ立ち退き要求につながっていく。

 大杉はこの騒擾について、こう書いている。





 四五十人の仲間が、三度も警察へ押しかけて、怒鳴る、歌ふ。

 中にはいつてゐる仲間もそれに応じる。

 そして其の四五十人が先頭になつて百人あまりの群集が、バケツで音頭をとつて、町の大通りを練り歩いた。

 此の群集の中の、あとの四五十人は、勿論町の人達だ。

 皆んなは、東京から来た本職と同じやうに、よく歌う。

 それから二三日して、家にゐる村木が町のお湯屋へ行つて見たら、そこではまだ、其の晩の話で持ち切つてゐたさうだ。

 そして七十余りになる一老人が『あの勢いぢや、もう一度、御維新が見られべえ』と喜んでゐたさうだ。


(「鎌倉の若衆」/『労働運動』1921年2月・2次2号/『大杉栄全集 第四巻』/『大杉栄全集 第14巻』)





 翌十二月十日、神田区美土代(みとしろ)町の東京基督教青年会館で開催された、日本社会主義同盟の創立報告会は荒れに荒れた。

『東京朝日新聞』(十二月十一日)によれば、午後一時の開場と同時に四、五百の聴衆が会場になだれ込んだ。

 植田好太郎が「大会を中止して演説会を開く」旨を述べると、官憲から解散を命じられ、場内騒然。

 午後六時から改めて講演会を催すことになったが、館内外が人で埋まり、一時は電車も停まるほどの大盛況だった。

 神田錦署の巡査が続々と応援に駆けつける中、午後六時、大庭柯公が開会宣言をすると、即座に錦署署長から中止解散を命じられた。

「横暴! 警官横暴! なにゆえの解散ぞ!」

 聴衆から怒号が浴びせられた。

 錦署署長は「今夜の会合は警視庁でも錦署でも認めていない。治警法第八条に基づいて解散を命じた」とコメントしている。





 武田伝次郎「大杉君と僕」(『自由と祖国』一九二五年九月号)によれば、この日、大杉は風邪で熱があり床についていたが、我慢ができなくなり、武田と一緒に大会会場に出かけた。

 マフラーを頭からかぶり覆面をしたようになった大杉が会場に着くと、「大杉だ、大杉だ」と叫び、すぐに検束された。

 堺や水沼辰夫なども錦署に検束され、大杉は警視庁に送られ夜遅くに釈放された。

 この夜、鎌倉に帰る汽車がなくなった大杉は、迎えに来た近藤憲二と、赤松克麿らが起居している本郷森川町の新人会の合宿所に泊まった。(『日録・大杉栄伝』)

 近藤は大会会場の神田に行く前に日比谷の服部浜次宅に寄り、そこで日比谷署の巡査に検束されそうになり、外出することができなかったのだ。


★大杉豊『日録・大杉栄伝』(社会評論社・2009年9月16日)

★『大杉栄全集 第四巻』(大杉栄全集刊行会・1926年9月8日)

★『大杉栄全集 第14巻』(日本図書センター・1995年1月25日)






●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



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2016年08月14日

第322回 暁民会






文●ツルシカズヒコ




 大杉豊『日録・大杉栄伝』によれば、一九二〇(大正九)年十二月四日、横浜市在住の吉田只次宅で開催された同志集会に、大杉と野枝が出席した。

 欧州から帰国した石川三四郎が講演したが、大杉と石川は七年半ぶりの再会だった。

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『日録・大杉栄伝』によれば、牛込区山吹町・八千代倶楽部で、暁民会主催の講演会が開催されたのは十二月五日だった。

 聴衆約四百人、大杉も講演者として参加していたが警察の解散命令が出て講演会は混乱。

 大杉の発声で「社会主義万歳」を連呼しながら、一同は第二会場の早大グラウンド前の広場へ向かった。

 このとき十九歳、中央大学の学生だった岡本潤は初めて見た大杉の姿を、半世紀後にこう回想している。





 ぼくが大杉という人物をはじめて見たのは……高津正道らの暁民会が戸塚が原で野外演説会をひらいたときのことである。

 ……出る弁士は片っぱしから臨検の中止を食い、何人目かに大杉が現われた。

 筒っぽのきものの上にレインコートを着て、頭にはトルコ帽、フランス風のあごひげをはやした大杉は、特徴のある大きな目玉をギョロッと光らし、うまれつきのドモリで何かひとこと言ったかと思うと、臨監がたちまち「弁士中止!」と叫んだ。

「バ、バ、バカヤロー、おれは、おれはまだ、なにも言っとらんぞ!」と、大杉はどなりかえした。

 その勢いに圧倒されながら、臨監が虚勢を張って肩をいからし、「検束!」と叫ぶ。

 数人の警察官がサーベルをガチャつかせて、大杉の身辺へ駆けよった。

「警官横暴!」「弾圧やめろ!」という声が主催者や聴衆のなかからわき起って、あたりには険悪な空気がみなぎっていた。

「おい、車を呼べ、車を。キサマらがおれにこいと言わなくても、おれのほうから警視総監に言論弾圧の抗議をしに行ってやるんだ。さア、はやく車を呼ばんか。そうしないと、おれはここを動かんぞ!」

 そう言ってどっかり坐りこむと、おちつきはらって煙草を吹かしはじめた。

 不敵とイタズラ気と謀叛気のかたまりのような大杉の本領を発揮した行動だろうが、まるで千両役者の演技でも見るように、集まった聴衆のなかから拍手喝采がおこった。

 始末にこまった臨監は巡査に命じて、人力車を一台つれてこさせた。

 大杉はニヤッと笑って、

「やア、ご苦労。じゃ諸君、ぼくは警視総監に抗議に行ってくるからね。かまわずに演説会をつづけてくれたまえ。」

 聴衆に向かって手を振りながら、警官につきそわれて悠然と車に乗って行った。

 ぼくがはじめて見た、こういう人を食った大杉栄の姿は、いまもぼくの網膜にやきついている。


(『詩人の運命 岡本潤自伝』)





 ちなみに、岡本は近藤憲二についてこう書いている。


 大杉のふところ刀といわれたコンケン=近藤憲二は、早大出身の若手で、色白のキリッとひきしまった顔の口もとに傷痕があり、それがいっそうかれに精悍な感じをあたえていた。

 無口で敏捷な近藤は尾行をまく名人でもあったので、スパイなどからはとくに警戒されていた。

 のちにぼくのところへもくるようになった警視庁のアナ系刑事が「コンケンくらい、ぼくらを困らせるやつはいないよ」とコボシていたことがある。

 後年、ぼくは近藤といっしょに平凡社で百科事典の仕事をすることになったが、そのときぼくは、それまで知らなかった近藤の半面に接する思いがした。

 精悍な近藤は半面、じつに細かいところに気をくばる緻密な神経のもちぬしで、それは几帳面ともいえる手ぬかりのない仕事によくあらわれていた。

 その点を社長の下中弥三郎に高く買われていたようである。


(『詩人の運命 岡本潤自伝』)





 吉田一(はじめ)についての記述もある。


 鍛冶工の吉田一(みんなはピンと呼んでいた)は、浅草観音の仁王のようなたくましい体格で、北風会のなかでも、あばれ者の随一とみられていた。

 はえぬきの労働者で、理屈ぎらい、行動一点ばりの男だったが、かれが大杉栄について、こんなふうに言ったことがぼくの耳にのこっている。

「スギ(大杉)は、おれたちにむかって、ああしろとか、こうしろとか、そんなことは一ぺんも言ったことがねえ。だけどな、スギの話を聞いて、あの目玉を見ていると、どういうわけだか知らねえが、ああしなきゃならん、こうしなきゃならんというような気もちが、ひとりでに起ってくるんだ、そこがスギのえらいところじゃねえかなーー」


(『詩人の運命 岡本潤自伝』)



★大杉豊『日録・大杉栄伝』(社会評論社・2009年9月16日)

★『詩人の運命 岡本潤自伝』(立風書房・1974年)



 ●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



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2016年08月13日

第321回 クロポトキンの教育論






文●ツルシカズヒコ




 大杉の著書『クロポトキン研究』アルスから出版されのは、一九二〇(大正九)年十一月五日だったが、売れ行き好調で版を重ねた。

 上記『クロポトキン研究』のリンクは国立国会図書館のデジタルライブラリーだが、奥付けを見ると同書は一九二三(大正十二)年十二月二十日発行、つまり大杉と野枝の死後に発行されている。

 奥付けには「三刷」とあるので、三年間で三十三回も増刷されたことがわかる。

『クロポトキン研究』には、野枝が書いた「田園、工場、職場−−クロポトキンの経済学」(初出は『改造』一九二〇年六月号)と「クロポトキンの教育論−−頭脳労働と筋肉労働の調和」(ふたつとも再録は大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第二巻』/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』)が収録されている。

 野枝の「クロポトキンの教育論−−頭脳労働と筋肉労働の調和」(大杉栄『クロポトキン研究』)は、末尾に「一九二〇年五月」と記されているが、『定本 伊藤野枝全集 第三巻』解題によれば発表誌、発表年月日は不明である。

『労働運動』が一次六号で終刊になったが、同誌一次七号に寄稿する予定だったのかもしれない。

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 以下、抜粋要約。

〈一〉

●現代社会の最大の欠陥は、経済生活の不条理から生じている。

●アダム・スミスは生産を増加させる最良の方法は「分業」だと唱えたが、この「分業」こそが経済生活の不条理を生む根本の原因である。

●分業の行きつく先は、極度の専門化であり、それは例えば人間に一生涯、小さな針の頭だけを造ることを強いる。

●分業を謳歌できるのは、奴隷のような分業労働者を使って富を得る特権階級だけである。

●聡明な社会主義者ですら、その組織を運営するにあたり、分業という思考を棄てられずにいる。





〈二〉

●アダム・スミスは国家の富の総量だけを基準にしているが、それは真の経済学ではないとクロポトキンは言う。

●人間の欲求をその最少限の労力で満たす手段を研究するのが、真の経済学だとクロポトキンは言う。

●国家の生産が増し、それがどんどん金に代わっていっても、その恩恵を享受できるのは特権階級だけで、肉体労働に携る労働者階級はその恩恵に与れないだけでなく、生産過剰になると失業する。

●生産者階級と名付けられる労働者は、自分で生産したものを自分のために用いることもできず、特権階級に生活を蹂躙さている。

●しかし、労働者はようやく自分の置かれている地位の不合理さに気づき、特権階級と戦い始めた。これは正しい成り行きである。

●この労働者と特権階級との戦いが、労働者の勝利に終わったとき、現在の経済学は根底から覆されてしまうだろう。

●そして、消費者階級と生産者階級という区別もなくなる。

●誰もが必要に応じて労働し、同時に趣味に応じて学問や技芸の研究に耽る時間を持つことが可能になるのである。

●労働は現在のように不愉快極まるものではなくなるであろう。

●分業の結果として生産者階級と消費者階級が截然と分かれた。

●すなわち頭脳労働と筋肉労働が切り離されたが、すべての人はこのふたつのものを並び持たなければならないと、クロポトキンは指摘している。

●そのために有効な具体的な手段としてクロポトキンが注目しているのは、現在の教育の改善である。





〈三〉

●かつての職工は科学を習得する機会はなかったが、工場の種々の仕事に従事していたので、必要に応じた総合的な知識を持っていた。

●最近百年ほどの間に産業上の革命を起こした機械の発明や改良は、学者や専門の機械師ではなく、総合的な知識を持っていた職工によってなし遂げられた。

●科学者が自然の方則を発見し、機械師がそれを応用して模型を造り、労働者が鋼鉄や木材や石で実際の機械を造り、労働者は自分が造った機械で単調な労働を強いられる。

●これは間違っている。

●最近の工業発展に貢献したのは、科学者でもなくただの機械師でもなく労働者でもなく、それらのすべての能力を併せ持っている現制度では少数の例外者である。

●科学的教育と工場での実際の仕事が結合されることによって、そういう人材が生まれる。

●すなわち、筋肉労働者であると同時に知識的研究に耽る頭脳労働者を、教育によって生み出すことが必要である。

●クロポトキンは具体例として、モスコウの工芸学校の教育について言及している。

●モスコウの工芸学校では、十四、五歳の子供がまず五、六年の間、高等数学や物理学や科学などの知識を学び、それから社会に出て実際の工場で熟練した技術を習得する。

●つまり、学校で習得した科学の知識を実際に応用することを学ぶのである。

●この教育により、分業によって生じた科学者、機械師、労働者という階級が消滅するのである。

●クロポトキンは、人類を幸福にしない分業を廃滅すべきだと繰り返し言う。

●この教育方針は農業においても同様である。

●現在の農業は土地の善悪、気候の寒暖、空気の乾湿に左右されなくなった。

●土地は有限だというマルサスの人口論は根底から覆されてしまった。

●科学的な集約農法がより発展すれば、人間の最少限の労力で必要に応じた食物を生産することが可能になるだろう。

●人類は長い間、食物を得るために奴隷のように働かなくてはならなかったが、それは遠い過去のことになるだろう。

●そうした多くの実例を引用して書かれたのが、クロポトキンの『田園、工場、製造所』(※「製造所」は単行本目次では「職場」)である。





〈四〉

●学者はその知識を大学で学生に講義する。そして本を書く。

●しかし、その知識を世人の日常生活に応用するには、大工と一緒になって自分の考案を具体化したり、機械工場で油染みた職工と一緒に働かなければならないこともあるだろう。

●自ら土地を耕し百姓仕事をしなければならないこともあるだろう。

●しかし、現在、そういう学者は希有だ。

●近代文明の一特徴である工業は、十七世紀の末から十九世紀の初期にかけて非常な速度で発達したが、それに貢献したのは科学者ではなかった。書斎から出ない専門の科学者は、みな無能だった。

●蒸気機関を発明したワットは機器製造人だったし、蒸気機関車のスチーブンソンは炭鉱で縦坑の巻上げギアを制御する「制動手」だった。

●クロポトキンは学者について、こう語っている。

●学者たちは批判されると、こう言うだろう。「我々は自然の法則を発見する。それを応用するのは他の仕事だ。それが分業の簡単さだ」と。

●しかし、熱力学の理論は蒸気機関の発明の前にはなく、蒸気機関の発明に追随して生まれたものなのだ。

ジュールによって発見されたジュールの法則を、科学者たちは非科学的だと書いた。

●科学の応用が発明を生む例はまれで、むしろ発明によって学説が生まれるのである。

●頭脳労働しかできない学者と筋肉労働しかできない労働者を分割し、ときどき出現する例外者を待って文明の進歩発達を願うよりも、すべての人がその例外者になって、進歩発達の機会をより多く持つ方がいいことではないだろうか。

●現在の学者の一番悪いところは、学問を俗衆のおよばない高いところに祭り上げていることだ。

●彼らは開祖たちの本当の偉さを知らない。開祖たちは少しも労働を軽蔑しなかった。





〈五〉

●学校教育において教える方も教わる方も、まずもって苦労するのは数学や語学だが、それらの学科が複雑だからというよりは、教授の方法が間違っているのではないだろうか。

●教師が教えすぎるのがいけないのである。教師が説明しすぎるから、生徒は自分で考えることをしなくなる。ただ教師の説明する言葉を生徒は覚えるだけで、本当に理解することはできない。

●クロポトキンは言う。

●幾何などは暗記させようとするから、子供は定理に頼ることができない。理解せずに丸暗記したものはすぐに忘れる。

●本当に理解させるには、教師が定理に解釈をつけず、それを問題として生徒自身にその解釈をつけさすように導くことである。

●生徒に紙の上で問題を解かせたら、すぐに運動場で棒や糸で実際の形を見せてそれを解かせたり、細工場でその知識を応用させねばならない。

●眼と手を通して頭へ−−これが教授法の時間経済の原則である。

●しかし、現実は知識をむやみに頭の中に詰め込まされ、そして子供の研究心はへし折られる。

●こういう教育法は、クロに言わせると「我々の心に服従的な惰性を持たせる、鸚鵡のように繰り返しばかりやらせる皮相な教育」なのだ。

●教育はまず、大量に堆積した知識を覚え込ませることをやめて、生徒を知識から解放すべきなのだ。

●人間が朝から晩まで、自分が何をしているのかも満足に考えることができずに、機械のように働いて一生を終えることに、なんの意味があるのだろう。

●自分の生活の必要のために必要な時間だけ自分で働き、労働以外の時間はその人の好みによって学問や芸術をしたり、自由に時間を使うことができたら、どんなにか愉快だろう。

●自分たちの口に贅沢な食物を運ぶために、他人を虐げることもなくなるだろう。





『実業之世界』十二月号は「当代名流の安心する所=を問ひたるに対する回答」を掲載した。

 五百枚の往復葉書を出して、百二十一名からの回答を得たという。

 野枝も回答を寄せた。


 私は自分をゴマカして生きて居る事の出来ない性分ですから、世間からは、随分悪るく云はれる代りに、自分の生活にビクつくやうなことのないことを、ひそかに誇として居ます。

 経済界がどうあらうと、思想界がどうあらうと、我に何んの不安も動揺もありません。

 世間に悪るがられやうと、お上に睨まれやうと、監獄にブチ込まれやうと、新聞でコキ下されやうと平気なものです。

 同様に火事に遇おうと、泥棒にはいられやうと平気であります。

 いまでも私の家では夜明けぱなしで寝て居ますが、之れは何んにも取られて、惜しいものが無いからです。

 同様に私は他から突つかれてグラ/\する様なヤクザな、自分を持ち合はせませんから安心です。


(「当代名流の安心する所=を問ひたるに対する回答」/『実業之世界』12月号・第17巻第12号/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』_p227)


 野枝と同頁には伊藤Y子花柳はるみ澤モリノ上司小剣、生田長江などの名がある(『定本 伊藤野枝全集 第三巻』解題)。


★『大杉栄全集 第三巻』(大杉栄全集刊行会・1925年7月15日)

★『定本 伊藤野枝全集 第三巻』(學藝書林・2000年9月30日)



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2016年08月10日

第320回 コミンテルン(三)






文●ツルシカズヒコ




 大杉が上海に着いたのは一九二〇(大正九)年十月二十五日ごろだったが、その翌日、ヴォイチンスキー(ロシア共産党の極東責任者)、陳独秀(中国共産党初代総書記)、呂運亨(大韓民国臨時政府外交次長)ら六、七人が一品香旅館にやって来た。

 それから二、三日おきに陳独秀の家で会議を開いた。

 支那の同志も朝鮮の同志もヴォイチンスキーの意向にほぼ賛成しているようだったが、大杉はそういうわけにもいかず、会議はいつも大杉とヴォイチンスキーの議論で終始した。

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 ……僕は、当時日本の社会主義者同盟に加わっていた事実の通り、無政府主義者と共産主義者の提携の可能を信じ、またその必要をも感じていたが、各々の異なった主義者の思想や行動の自由は十分に尊重しなければならないと思っていた。

 で、無政府主義者としての僕は、極東共産党同盟に加わることもできずまた国際共産党同盟の第三インタナショナルに加わることもできなかった。


(大杉栄「日本脱出記」/『改造』1923年7月号/『日本脱出記』・アルス・1923年10月/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第三巻』/日本図書センター『大杉栄全集 第13巻』)





 ある日、ヴォイチンスキーはふたりで会いたいと言って、大杉を自宅に招いた。

 金の話だった。

 どんな計画があり、それにはどれくらいの金が必要なのかと問われた大杉は、週刊新聞を出したいが一万円あれば半年は支えられるだろうと答えた。

 当時の一円を今の六百円として換算すれば、当時の一万円は今の六百万円ということになる。

 金は貰えることになったが、ヴォイチンスキーは大杉と幾度も会っているうちに、新聞の内容について細かいお節介を出し始めた。

 大杉は自分が上海に来たのは金をもらうためではなく、東洋各国の同志の連絡を謀るためであり、それができさえすれば各国は各国で勝手に運動をやればよい、これまでも日本は日本でやってきたし、これからもそうしていくつもりだ、条件つきの金など不要だとヴォイチンスキーに伝えた。

 ヴォイチンスキーと大杉は英語で話していたが、大杉はこの話のときは特に紙に書いてヴォイチンスキーに自分の意志を明確に伝えた。

 ヴォイチンスキーは承諾し、一般の運動の上で必要な金があればいつでも送ると約束し、大杉がいよいよ帰国する際に二千円を大杉に渡した。





 上海滞在中、大杉は三、四軒のホテルに十日ほどずつ泊まった。

 同じホテルに長くいると危ないからである。

 ホテルが代わるたびに、大杉は支那人の変名を使ったが、その漢字を支那音でどう発音するかわからなかったので、戸惑ったようだ。

 ホテルのボーイとの必要最少限のコミュニケーションは、英語で誤魔化した。

 近藤憲二『一無政府主義者の回想』によれば、中国国民党の要職にあった張継が、大杉が滞在している上海のホテルを訪問、ふたりは十数年ぶりの再会を果たしている。

 張は日本に留学中、無政府主義に傾倒し大杉と親交を結んでいた。





 大杉が行方不明になっている間、日本ではいろいろなデマが飛び交った。


 北信の温泉へ原稿書きに行っているとか、いや上州の温泉だとかといううちは罪がなかったが、それがシベリアになり、ロシアになり、お伽噺はさらに進んで、ロシアから時価十五万円のプラチナの延棒をもってきて十二万円で売ろうとしているとの噂まで飛んだ。

 そのうち大杉が有楽町の電車通りに面した「露国興信所」の看板のかかった家、実はロシア人の下宿屋へ越したから、それ見ろ、やっぱりということになったのである。


(近藤憲二『一無政府主義者の回想』_p226)





 矢野寛治『伊藤野枝と代準介』によれば、大杉が鎌倉の家を留守にしている間、野枝は魔子を連れて福岡に帰省した。


 戻ればいつものごとく、今宿の実家と従姉千代子宅と代準介・キチの家を行き来している。

 ……今津湾の潮風で英気を養う。

 当然、刑事たちは見張っており、村の防犯にも結果役立っている。


(矢野寛治『伊藤野枝と代準介』_p144)


 代準介は大杉一家が引っ越すたびに土産を携えて上京し、野枝の家に顔を出し、その暮らしぶりを心配していた。

 当時は福岡から東京までは丸二日かかった。

 早朝出れば一泊二日だが、遅く出れば二泊三日である。

 博多から門司港へ、そこから関門連絡船に乗り下関へ。

 下関から汽車に乗り、大阪で下車して一泊。

 翌朝、大阪から東京行きの東海道本線に乗るのである。

 野枝は代準介が上京すると、必ず駅まで出迎えていたという。


 野枝は生活に困窮すれば先ず実家よりも叔父叔母を頼る。

 野枝は幼い頃から、実の親よりも叔父叔母に遠慮なくわがままを言って育ってきた。

 上京の叔父をいつも駅まで出迎えていたのは、姪というより、娘としての感情のほうが強かったからであろう。


(矢野寛治『伊藤野枝と代準介』_p145)





 十一月二十三日、第二回黒燿会展覧会が京橋星製薬ビル七階で開催され、主催者の望月桂、堺、大杉、山川菊栄などの作品が展示されたが、警視庁の検閲が入り作品撤回問題が起きた(『日録・大杉栄伝』)。

『日録・大杉栄伝』によれば、大杉が上海から自宅に戻ったのは十一月二十九日の夜だった。

 翌日、鎌倉署から警官が臨検に来たが、彼らの目的のものは何も発見されなかった。

 帰国した大杉は上海での顛末を堺と山川に報告した。

 
 帰るとすぐ、僕は上海での此の顛末を、先ず堺に話しした。

 そして堺から山川に話しして、更に三人で其相談をする事にきめた。

 そして僕は、近くロシアへ行く約束をして来たから、週刊新聞も若し彼等の手でやるなら任してもいゝ、又上海での仕事は共産主義者の彼等の方が都合がいいのだから、彼等の方でやつて欲しい、と附け加へて置いた。

 が、それには、堺からも山川からも直接の返事はなくて、或る同志を通じて、僕の相談には殆んど乗らないと云ふ返事だつた。


(大杉栄「日本脱出記」/『改造』1923年7月号/『日本脱出記』・アルス・1923年10月/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第三巻』/日本図書センター『大杉栄全集 第13巻』)



★『大杉栄全集 第三巻』(大杉栄全集刊行会・1925年7月15日)

★『大杉栄全集 第13巻』(日本図書センター・1995年1月25日)

★近藤憲二『一無政府主義者の回想』(平凡社・1965年6月30日)

★矢野寛治『伊藤野枝と代準介』(弦書房・2012年10月30日)

★大杉豊『日録・大杉栄伝』(社会評論社・2009年9月16日)



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第319回 コミンテルン(二)






文●ツルシカズヒコ



 上海で開かれるコミンテルン極東社会主義者会議に出席するために、大杉が鎌倉の家を出たのは、一九二〇(大正九)年十月二十日の夜だった(大杉豊『日録・大杉栄伝』)。

 近藤憲二『一無政府主義者の回想』によれば、この日、近藤は大杉と上海行きの打ち合わせをすることになっていた。

 鎌倉の大杉の家に行くために新橋駅のホームで列車を待っていると、信友会の桑原錬太郎と遭遇した。

 桑原も大杉に会いに行くという。

 正進会が十五新聞社のストライキを敢行し、惨敗したばかりだったが、その経過報告書を大杉に書いてもらうためだった。

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 近藤は困ったことになったと思った。

 この夜、大杉は鎌倉の家から極秘に抜け出すことになっていたからである。

 近藤が桑原と鎌倉の大杉の家に行くと、大杉は早い夕食をすませて、トランクに手まわり品を詰めていた。

「どこかへ行くんですか?」

 桑原は困ったような顔をした。

「何か用だったかね」

「ええ、争議の報告書を書いてもらおうと思ってきたんですが……」

 近藤はこんなときに大杉がなんというか、興味深くふたりの会話を聞いていた。





 ところがどうだ、大杉は言下に答えた。

「よし、では手っとりばやく内容をいってくれ」

 私はいささかあきれた。

 いま出発しょうとするまぎわに、面倒な報告を書こうというのだ。

 大杉はひと通り聞き終わってから書斎へひっこみ一時間あまりして出てきた。

「これでいいか読んでみてくれ」

 そういって、また書斎へひっこみ、こんど出てきたときには、いちばんの特徴である山羊ひげをそり落としていた。

 もっとも簡単な変装をしたのである。


(近藤憲二『一無政府主義者の回想』)





 大杉の家の前には尾行小屋があり、絶えず尾行が三人で見張っていたが、近藤がこの尾行の注意を引きつけている間に、大杉は桑原にトランクを持たせ家を抜け出た。

「日本脱出記」によれば、ふたりは鎌倉駅ではなく、一里ばかりある大船駅に足早に向かった。


 もう夜更けだつたが、ちよい/\人通りはあつた。

 そして家を出る時に何んだか見つかつたやうな気がしたので、後ろから来るあかりは皆な追手のやうに思われて、二人とも随分びく/\しながら行つた。

 殊に一度、建長寺と円覚寺との間頃で後ろからあかりをつけない自動車が走つて来て、やがて又それらしい自動車が戻つて来た時などは、こんどこそ捕まるものと真面目に覚悟してゐた。


「日本脱出記」/『改造』1923年7月号/『日本脱出記』・アルス・1923年10月/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第三巻』/日本図書センター『大杉栄全集 第13巻』)





 その自動車はただ通り過ぎただけで、ふたりは無事大船駅に着き、桑原は東海道線の上り列車に乗り、大杉は下り列車に乗った。

 大杉は自分がやっていることの真相を桑原に話せないことをすまなく思ったが、桑原は何も聞かず、そしてこの夜のことは誰にも口外しなかった。

 大杉が上海に着くまでは、その筋に知られたくないので、大杉の関係者の間では大杉が病気で寝ていることにした。

 しかし、尾行はすぐに疑いを持ち、三歳の魔子をつかまえて聞き出そうとしたが、魔子もまた尾行を撹乱させる巧者だった。

「パパさんいる?」と尾行が聞くと、魔子は「うん」と頷く。

 今度は尾行が「パパさんいないの?」と聞くと、やっぱり「うん」と頷く。

 おやと思った尾行がまた「パパさんいる?」と聞くと、やっぱりまた「うん」と頷く。

 そして尾行が「パパさんいないの? いるの?」と聞くと、「うんうん」とふたつ頷いて逃げて行った。

 結局、十日ばかりの間、尾行はどっちともはっきりとさせることができなかった。





 大杉は十月二十五日ごろ上海に着いた。

「日本脱出記」には大船から列車に乗った後、上海に到着するまでの記述がないが、おそらく神戸から船に乗ったのだろう。

 大杉は旅券は持っていたのだろうかという疑問が生じるが、戦前、日本人が中国へ渡航する際に旅券は必要なかったのである。

 上海の街では抗日と反帝国主義を掲げる五四運動が高揚している最中であり、「抵制日貨」という日本の商品をボイコットする札がいたるところの壁に貼り付けられていた。

「日本脱出記」と『日録・大杉栄伝』によれば、上海に到着した日、大杉は上海の朝鮮人町で李増林と会い、李東輝大韓民国臨時政府軍務局長)と一時間ほど会談、李増林の案内で前週までバートランド・ラッセルが滞在していた一品香旅館に支那人の名前で投宿した。

 北京大学客員教授として招かれたバートランド・ラッセルは、十月十二日に上海に到着していた。



★大杉豊『日録・大杉栄伝』(社会評論社・2009年9月16日)

★近藤憲二『一無政府主義者の回想』(平凡社・1965年6月30日)

★『大杉栄全集 第三巻』(大杉栄全集刊行会・1925年7月15日)

★『大杉栄全集 第13巻』(日本図書センター・1995年1月25日)



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2016年08月09日

第318回 夜逃げ







文●ツルシカズヒコ




 葉山に住んでいたコズロフが、鎌倉の大杉宅にふとやって来たのは、十月初旬のころだった。

 コズロフはしきりに何かを大杉に訴えていたが要領を得ず、大杉は何を言っているのかわからないまま、大杉がよくやる手でウンウンと頷いてわかったような顔をしていた。

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『分りましたか?』

 云ふだけの事を云つて了つたあとで、コズロフは日本語で云つた。

 僕は顔をあげて彼れの顔を見た。

 すると、不思議な事には、一と言も分らなかつた彼れの話しの意味が、ふいと僕の頭にはいつて来た。

 僕は、コズロフには『分りました』と笑つて答へて置いて、別の部屋にゐた村木を呼んだ。

『先生夜逃げをしたいと云ふらしいんだがね。君一つ、よく話を聞いて、手伝つてやつてくれ給へ。』

 僕は村木にさう頼んで置いて別の部屋へ引き下つた。


(「コズロフを送る」/『東京毎日新聞』1922年7月29日から13回連載/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』/日本図書センター『大杉栄全集 第14巻』)





 英語での会話ができない村木と、ほんの片言の日本語しかしゃべれないコズロフが、しきりに手真似足真似で何かを話していた。

 村木が厄介そうな顔をして大杉の部屋に入って来て言った。

「やっぱり夜逃げなんです。女房と子供はひと足先にもう横浜にやってあるが、今晩そっと荷物を持って逃げたいと言うんで、今からすぐ来てくれって言うんです」

「しょうのない奴だな。しかし、まあ仕方がない。行ってやってくれ」

 大杉もはなはだ厄介だと思ったが、肺を患って大杉の家にゴロゴロしていた村木に、改めて厄介ごとの助っ人を頼んだ。

 大杉がコズロフのいる部屋に行くと、さっきまでの彼の沈んだ顔はどこかへ行き、ふざけすぎるほどの快活さで、

「オスキさん、ヨニゲです、私今晩ヨニゲです」

 などと、村木から教わったばかりの夜逃げという言葉を面白そうに繰り返していた。

 コズロフは前年十月から横浜・山下町の商社にタイピストとして勤務していたが、失業したらしかった(大杉豊『日録・大杉栄伝』)。





 暗くなつたら直ぐに出かけると云つてゐたから、どんなに遅くなつても、十二時前には着くだらうと思つてゐたが、一時になつても二時になつても来なかつた。

 僕等夫婦は村木が途中でへたばつたのぢやないかと心配してゐた。

 そしてとうたう、夜明け頃になつて二人が一台の大きな車を引いて、へと/\になつてやつて来た。

『実際、トンネルのところで一たんはへたばつたのですがね。コズロフが薬をやると云ふから飲んでみたら、ひどい奴で、アルコオルを飲ませやがるんです。それでも薬はたしかに薬で、それで又元気が出ましたよ。』

 と村木は青い顔をして汗をふいてゐた。


(「コズロフを送る」/『東京毎日新聞』1922年7月29日から13回連載/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』/日本図書センター『大杉栄全集 第14巻』)





 コズロフは二週間ばかり大杉の家に潜伏し、ある夜、秘かに大杉の家のまわりの厳重な警戒を突破して、脱出に成功した。

 コズロフが脱出した後、大杉は三日ばかりときどきひとりで大声で英語を話し、コズロフがまだ大杉の家にいるかのようにカモフラージュした(「日本脱出記」)。

 コズロフ一家は神戸に滞在することになったが、この夜逃げのおかげで大杉家はコズロフの債権者に攻められ、彼が残していった家賃の一部を払わされた。

 コズロフをお得意にしていた鎌倉の「亀谷」という西洋食品店は、大杉家もよく利用していたが、それ以来、御用を聞きに来なくなった。

 コズロフと親交のある大杉家も危ないと思ったからである。

 その後、大杉と村木はコズロフの話が出るたびに、この夜逃げのことを思い出し、笑って話すのだった。

「……毛唐の夜逃げというのは初めて見たな」



★『大杉栄全集 第四巻』(大杉栄全集刊行会・1926年9月8日)

★『大杉栄全集 第14巻』(日本図書センター・1995年1月25日)

★大杉豊『日録・大杉栄伝』(社会評論社・2009年9月16日)



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2016年08月08日

第317回 有名意識






文●ツルシカズヒコ



 野枝は『改造』九月号(第二巻第九号)に「引越し騒ぎ」(『定本 伊藤野枝全集 第三巻』)、『婦人世界』九月号(第十五巻第九号)に「婦人の不平は意志の欠乏から」(『定本 伊藤野枝全集 第三巻』)を寄稿した。

『定本 伊藤野枝全集 第三巻』解題によれば、「引越し騒ぎ」の目次には「(社会主義者奇譚)引越さはぎ」というコピーがついている。

「婦人の不平は意志の欠乏から」は「現代婦人の不平」特集欄の一文で、他に山田わか、西川文子、厨川蝶子、平塚明子、帆足みゆき林歌子、神近市子など十七名が執筆している。

 以下、抜粋要約。

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 ●不平と愚痴は一切言わないことにしたいと私は思っている。

 ●愚痴や不平ほど見苦しいものはありません。

 ●諦められることは綺麗さっぱりと諦めればいいし、それができないなら不平や愚痴をならべるより、自分の気がすむまでその事実にぶつかっていくことです。

 ●誰でも不平や不満はありますが、それに積極的にぶつかっていく意志のある人は少ないようです。

 ●日本の女たちにもっと強情に、我がままになってほしいと思います。

 ●本当に生きがいのある生活を享受するには、どこまでも積極的な生活をしなければなりません。

 ●強い意志の生活をしなければ、とうてい強い生活をすることはできません。

 ●日本人の生活は非常に消極的であるが、女はより消極的に教育されてきた。

 ●自分ひとりの生活を自分でつくり出すことが、不道徳とされてきた。与えられた生活に満足しないと、不道徳の者と扱われます。

 ●自由に観て考えることを、学校教育は非常にいやがります。

 ●正しい真理探究の知識欲の芽は、現代の学校教育ではできるだけ刈り取られるのが普通です。

 ●婦人の場合は、妻として母としての準備にのみ没頭させて、他人の保護の下に生きることを最大の要件として教育します。

 ●教育者は人生に対する根本的な知識を授けることができません。だから生徒は不屈の意志を養うことができません。

 ●教育者は消極的な生活のみを讃美します。

 ●私は思います。これからの若い娘さんたちが、強い意志を持った人になってくれるといいと。
 
 ●教えこまれることを鵜呑みにせず、自分で判断するだけの知識を持つこと、不必要な教育を拒絶して自分に必要な自己教育をするだけの意志をぜひ持ってほしいものです。

 ●女学校を卒業すると、娘たちの両親は娘の結婚のことばかり気にしています。

 ●しかし、ようやく社会のことがわかり始めのは二十歳をすぎたくらいです。それから四、五年しっかり知識 を身につけてから結婚を考えるのがベストではないかと、私は思います。

 ●現在の婦人たちに一番欠けているのは強い意志です。それは自力で獲得するしかありません。

 ●一身上のことは一切、他人に頼らず、他人から干渉されずに、解決するという覚悟が不可欠です。





 九月八日、大杉は横浜・吉田亭で開かれた社会問題研究会で演説、解散命令により屋外で演説し同志たちと革命歌を歌うなどしたため、大杉ら七名が伊勢佐木署に検束され、大杉は公務執行妨害で送検された(大杉豊『日録・大杉栄伝』)。

 九月のある日、比叡山から下山した宮嶋資夫が帰京途中に鎌倉の大杉宅を訪れた。

 宮嶋資夫「遍歴」によれば、そのとき宮嶋は桧の笠をかぶり太いステッキを持っていたが、それは山の上の生活で自然に身についたものだった。

 それを見た大杉がこう言ったという。

「その格好で東京を歩き廻ったら、じき有名になるよ」

 宮嶋は変なことを言うなと思ったが、そのときはあまり気にかからず、「東京に帰ったら、すぐ帽子くらいは買うよ」と答えた。

 後にいろいろなことを考え合わせてみた宮嶋は、大杉が持っているあるものの見方、考え方にハタと気づいたと書いている。





 つまり葉山で野枝を擲つたのも、比叡山で暮したのも、桧の笠もステッキも、みんな私が有名になるために意識的にやつた事と彼は解釈してゐるようであつた。

 私は呆れてしまった。

 そういう風に彼の眼に映つた私には何かがつがつした所があつたかも知れない。

 が、私は自分の売名のために行動した事は曽てない。

 自体私共のように都会で生れ育つた人間には、有名意識といふものは余りないのである。

 地方の人は風を望んで都会に上り、錦を着て故郷に帰ることを思ふが、都会人には上るべき都もなければ、帰るべき故郷もなく、そして身辺には有名人がうようよゐる。

 閣下も侯爵も同じ電車に乗つてゐるし、一世に名高い芸能人も街頭を歩いてゐる。

そしてそれ等の人に会つて話をして見れば、何も変つたとこのないただの人間である。
 
 従つて、有名になるといふことをそれほど有難い事とも思はないし、お酌が役者の素顔を見たがるように、有名人を見たいとは思はないのである。


(「遍歴」/『宮嶋資夫著作集 第七巻』)



★『定本 伊藤野枝全集 第三巻』(學藝書林・2000年9月30日)

★大杉豊『日録・大杉栄伝』(社会評論社・2009年9月16日)

★『宮嶋資夫著作集 第七巻』(慶友社・1983年11月20日)



●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 17:11| 本文
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1955年生まれ。早稲田大学法学部卒業。『週刊SPA!』などの編集をへてフリーランスに。著書は『「週刊SPA!」黄金伝説 1988〜1995 おたくの時代を作った男』(朝日新聞出版)『秩父事件再発見』(新日本出版社)など。
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