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2016年09月03日

第340回 赤瀾会(一)






文●ツルシカズヒコ




 一九二一(大正十)年四月十八日、神田区美土代(みとしろ)町の東京基督教青年会館で、暁民会主催の文芸思想講演会が開催されたが、小川未明、江口渙、エロシェンコらに交じり、野枝も「文芸至上主義に就いて」という演題で講演した(大杉豊『日録・大杉栄伝』)。

 目的は資金稼ぎだったが、聴衆約千二百人の大盛況だった。

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 四月三十日、近藤栄蔵が東京を発ち上海に向かった。

 コミンテルン(第三インターナショナル)の密使・李増林が来日して大杉と面会、コミンテルンとしては日本支部を創設したいわけだが、アナである大杉は自分がその話に乗るわけにはいかず、大杉は近藤栄蔵を代わりに上海に使いに遣ったのである(『日本脱出記』)。

 もっとも、近藤栄蔵は大杉には内密に山川と堺に相談をしていたが、大杉も薄々それには気づきながら、大杉にもコミンテルンからの金の流れを確保したい意向があった(『近藤栄蔵自伝』「日本脱出記」)。





 日本初の社会主義婦人団体、赤瀾会が発会したのは四月二十四日だった。

 近藤真柄『わたしの回想(下)』によれば、綱領は「私どもは私ども兄弟姉妹を無知と窮乏と隷属に沈淪せしめたる一切の圧政に対し断固として反対するものであります」。

 治安警察法第五条によって婦人の政治結社加入を禁止されていたため、日本社会主義同盟に加入できなかったゆえの結成だった。

 発起人(世話人)は秋月静枝、九津見房子、堺真柄、橋浦はる子で、会員は約四十名、山川菊栄と野枝が顧問格として参加した。

「赤瀾(赤いさざなみ)」の命名者は九津見房子だった。

 三十銭の会費すらなかなか集まらず運営は厳しかったが、「伊藤野枝さんが、どうしたはずみかに五円くらい寄付して下さって息をつくようなことでした」(『わたしの回想(下)』)。





 五月一日、東京と大阪でメーデーが開催された。

 東京は第二回メーデーであり、大阪は第一回メーデーである。

 東京の会場は芝浦埋立地だったが、参加者はそこから上野公園まで大行進をした。

 近藤憲二『一無政府主義者の回想』によれば、労働運動社は前日から警官に包囲されているので、近藤憲二は予備検束を逃れるために前日に姿を消し、当日は海苔舟を雇い、芝浦の埋立地に裏から乗り込んだ。

 その日の参加者は前回よりもはるかに多く、引っこ抜きの戦いもすごかった。

 新橋付近で赤瀾会の女性軍二十人ほどが、黒地に赤くRW(レッド・ウェーブ)の旗を掲げて飛び込み、デモ隊にいっそうの気勢をそえた。

 宮城付近を通過するときには「千代田の森に黒旗たてて……」が高々と歌われた。





 あちこちに警官隊の伏兵は起こる、騎馬巡査のサーベルが鳴る。

「密集! 密集! 旗を守れ! 突撃しろ!」の怒号に対して、「旗を奪え! 女子軍を捕らえろ! 戦闘分子を引っこ抜け!」の騒ぎだ。

 小川町でも松住町でも戦いの連続、上野池の端へ出たときはまさに白熱化した。

 好天に恵まれて、たいへんな人出、どの料理屋も満員、それがメーデーを見物しようと二階の窓へ鈴なりになったところへ、行列からバラバラと小石を投げはじめたのだからたまらない。

 お客はくもの子を散らしたように逃げだす騒ぎ。

 赤瀾会の九津見房子、仲宗根貞代、堺真柄らが総検束されたのは山下から上野東照宮下付近だ。

 橋浦はる子さんがあご紐をかけた警官にかこまれながら、毅然として検束されて行くさまは『写真近代女性史』にも載っているが、当日の語りぐさであった。


(近藤憲二『一無政府主義者の回想』_p224)





 『わたしの回想(下)』によれば、赤瀾会の会員は新橋の高等理容店「樹神(こだま)」に集結し、午後一時ごろに新橋に到着することになっていたデモ隊を待っていた。

「樹神(こだま)」は九津見房子の知り合いの理容店だった。

 午前十時ごろから赤瀾会会員は集まり出し、「樹神」の二階で待機していた。


 当時着物の袖丈は普通一尺七寸位でしたから、元禄に縫いこんだり、裾を短目に着るなどしていた。

 ……早目のおひるをと、そばを食べかけた折から、早くも行列の近づく気配。

 前々から橋浦はる子さんや中村しげさんなどが工夫してミシンかけした手製の会旗は、黒の綿繻子地に赤いネルで横に「赤瀾会」と縫いつけ、小旗は同じように「R・W」と縫いつけたもので竹竿に紐で結びつけて横にたおし、数人で小脇にかかえておりました。

 やがて印刷工組合や労働運動社の黒旗が翻る行列の近づいたとき、路地から飛び出して行列に入るや、組合の人たちはウワァーという歓声と拍手で、十数人の女の一団を包み込むように迎えくれました。


(近藤真柄『わたしの回想(下)』)





 途中検束する関所が桜田本郷町、日比谷、松住町、上野山下などだったが、赤瀾会会員はなんとか引き抜かれずに進んだ。

 堺真柄の母・堺為子、叔母・堀保子など年輩者は、アンパンの包みを手渡してくれたり、電車で先回りしてサイダーの栓を抜いて待っていてくれたりした。

 デモ隊が池の端を通るとき、料亭の二階から客がデモ隊を見下ろしていたが、どこからともなく小石が飛んだ。

 続いてバラバラと窓めがけて石が飛び、それが合図かのように、巡査が割り込んできて、大混乱になった。

 革命歌「森も林も武装せよ、石よなにゆえ飛ばざるか」を実践したようなこの光景が、デモ隊の士気をいっそう燃え上がらせた。

 デモ隊は上野東照宮下で解散するはずだったが、さらに石段を登ろうとする一団と巡査の争いが一段と激しくなり、赤瀾会の会員たちはもみくちゃにされた。

 高津正道の妻、高津多代子は生後間もない子をおぶって、巡査にしがみついていた。

 赤瀾会の会員はほんどが検束された。

 仲宗根貞代は巡査が「女のくせに何だ!」と嘲ったので、「無産者のくせに何だ! 資本家の手先になって、そのザマは何だ!」と言い返した。

 翌日の『読売新聞』にあごひもをかけたふたりの巡査に挟まれて、キリッとして歩く堂々たる橋浦はる子の写真が載った。

『読売新聞』のキャプションは「九津見フサ子」としているが、これは間違いなのであろう。



赤瀾会@「馬込文学マラソン」



★大杉豊『日録・大杉栄伝』(社会評論社・2009年9月16日)

★『近藤栄蔵自伝』(ひえい書房・1970年)

★近藤真柄『わたしの回想(下)』(ドメス出版・1981年11月)

★近藤憲二『一無政府主義者の回想』(平凡社・1965年6月30日)





●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 13:44| 本文

2016年09月01日

第339回 ミシン






文●ツルシカズヒコ




 そして、野枝は話題をミシンに転じる。


 今日もまたいゝお天気。

 今日は朝の間すこし必要な仕事をしました。

 それからミシンもすこし動かしました。

 機械と云ふものは面白いものですね。

 私は機械がする仕事はきまりきつてゐて、本当に面白くないつまらないと思ひますが、しかし、その機械を働かせる仕組みは実におもしろいと思ひます。

 私は、機械についての知識と云ふものはまるで持ちません。

 興味を起した事もそんなにありません。

 ミシンを買ふた事もたゞあの重宝さが必要だつたのですけれど、私は此の頃、あれでものを縫ふことよりは、機械の組み立てに対する面白さが、楽しみになつて来ました。


(「『或る』妻から良人へーー囚はれた夫婦関係よりの解放」/『改造』1921年4月号・第3巻第4号/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』_p254)

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 野枝はこのころミシンを購入し洋服作りを始めていた。

 ちなみに、平塚らいてうが洋服を着るようになったのは前年、一九二〇(大正九)年七月からだった。

 らいてうが断髪したのは、一九二三(大正十二)年である。

 ミシンを買った当初、野枝は派遣教師に来てもらい、ミシンの仕組みに関する知識を教えてもらおうと思ったが、その教師が何も知らなかったので教師に頼ることをやめた。

 野枝はミシンについてきた小さな書物で勉強しようとしたが、それには本当に必要なことが何も書いていなかった。

 野枝は自分の頭で考えるしかないと思った。






 それから私はひま/\に、機械のあらゆる部分をいろ/\に動かすことを初めました。

 どん小さな部分にでも、充分注意して、その部分が何の為めにつくられて居り、何処にその働きが及ぶのかと云ふような事を一つ/\ほぐしては観究(みきわ)めてゆきました。

 或る時は、あの下糸をまく為めの附属機械が全部バラバラに弾いて離れてしまつてどうにもならなくなりました。

 けれど、そのお蔭で、すつかりもとのやうに組み立てゝしまつた時には、その部分には、もう何んにも私に隠されてゐる秘密はなくなりました。

 その代りに、私はその時は二時間近くも辛抱づよく一つ処をいぢつてゐたのです。


(「『或る』妻から良人へーー囚はれた夫婦関係よりの解放」/『改造』1921年4月号・第3巻第4号/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』_p254~255)





 機械は合理的にできていて、ムダなものはひとつもない、そして微細なものでも驚くほどの重要な微妙な働きをし、あるパーツのちょっとしたゆるみでも全体に差し支えるーー機械のこういうところが、野枝はすごく気持ちがよいと感じた。


 複雑な微妙な機械をいぢつてゐますと、私は、複雑である微妙を要する事程、特に『中心』と云ふものが必要だと云ふ理屈は通らないのが本当のように思はれます。

 みんな、それ/″\の部分が一つ/\の個性を持ち、使命をもつて働いてゐます。

 そしてお互いに部分々々で働きかけ合つてはゐますが、必要な連絡の範囲を超してまで他の部分に働きかける事は決して許されてありません。

 そして、お互ひの正直な働きが連絡が、或る完全な働きになつて現はれて来るのです。

 人間の集団に対する理想も、私はやはり、其処にゆかねばならぬものだと思ひます。

 けれども、現在では此の理想は許されないのですね。

 しかし、機械の部分々々のお互ひの接触には、私達は学ぶべきことがあると思ひます。

 私達は日常の生活に、もつと自分々々をよりよく守つて、他人の上にもつとインデイフアレントであるようにならねばならぬと思ひます。


(「『或る』妻から良人へーー囚はれた夫婦関係よりの解放」/『改造』1921年4月号・第3巻第4号/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』_p255)





 逆に言えば、現実の人間関係はその関係が親密であるほど、このインデイフアレント(不関与)でいることが困難であり、たとえば親の子供に対する越権、夫の妻に対する越権がまかり通っていると、野枝は自省を込めて書いている。


 自分に対する親の越権を憤慨し、反抗した人達が、自分の子供達に一体どんな態度でのぞんでゐるでせう。

 ……どう育つてゆくか分らない子供の将来に、いろいろ自分勝手な空想を描いたり、希望をもつたりして、其の自分勝手な理想を基礎に教育を授けて、其の理想を幾分かでも実現させようと楽しんでゐはしないでせうか。

 ……子供が小さいからと云ふだけの理由で子に対する親の越権でないとどうして云へるでせう。

 それから、夫婦関係です。

 ……従来とはすつかり変つて来たとは云ふものゝ、お互ひの生活を『理解』すると云ふ口実の下に、お互ひに、どれ程その生活に自分の意志を注ぎ込まうとしてゐることでせう。

 そして或る人々は『理解』では満足せずに『同化』を強ひます。

 Better halfと云ふ言葉が、どれ程ありがたがられてゐることでせう。

 愛し合つて夢中になつてゐ時には、お互ひに出来るだけ相手の越権を許してよろこんでゐます。

 けれども、次第にそれが許せなくなつて来て、結婚生活が暗くなつて来ます。

 若しも大して暗くならないならば大抵の場合に、その一方のどつちかゞ自分の生活を失つてしまつてゐるのですね。

 そして、その歩の悪い役まはりをつとめるのは女なんです。

 そしてその自分の生活を失くした事を『同化』したと云つてお互ひによろこんでゐます。

 そんなのは本当にいゝ、Better halfなのでせうけれど、飛んだまちがひなのですね。

 私の機械から受けた教訓によると……良人は妻の上によけいな侵略的態度に出るので、自分ひとりが軽々と普通に動かないし、妻は能力を奪われて動くことが出来ないのです。

 要するに、他人との生活の交渉には、もつとお互ひに自分本位になる事。

 他人の生活に必要以上に立ち入らぬようにすることが何よりも大切な事ですね。

 しかし、それがまたなか/\出来ない事ですね。

 けれど、斯うして、別にゐて、のんきに日向ぼつこでもしながら、ひとりきりの生活をしてゐますと、書いてゐる通りな『お利口さん』になつてゐるのですよ。

 別居と云ふものは、本当にいゝものですね。


(「『或る』妻から良人へーー囚はれた夫婦関係よりの解放」/『改造』1921年4月号・第3巻第4号/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』_p256~257)





 大杉はいざとなれば危険を顧みず、直接行動に出るアナキストである。

 野枝はそういう夫を持った妻としての不安も、隠さずに書いている。


 私は一体自分自身の生活と云ふ事を始終気にして、相応にそれを把持してゆかうと考へてゐるくせに、一方にはそんな事には一切無頓着に、たゞ家庭生活の中に溺れ切つてそれを享楽しようとする気持も可なり沢山持つてゐます。

 ですから、一方には、私達の生活に対して充分理知的な考へをしてゐながら一方には、世間並みの平凡な妻君が、家庭の安全を祈り、良人の無事をねがふのとちつとも違はない気持で、実際には少しも普通の家庭のやうに安定を持つ事を許されない家庭の安全をいのり、あなたの無事を祈りたくなるのです。

 其処で、私はやはり一方では非常によく理解もし信ずる事も出来るあなたのいつもの所謂無茶を、無理解な人達と一緒に恐がるのです。

 そしてそのあなたの無茶のみでなく、私達の生活のすべてが、理知的には、ちゃんとした、何時どんな重大事件が私達の周囲に降らうが湧かうが動じないと云ふ『覚悟』になつてゐますけれど、一方ではそれが覚悟までは進み得ずに、或る『不安』になつてしよつ中よわい、『妻君』の私をいぢめます。

 けれど斯うして別にゐますと、その『不安』にいぢめられる事からは確かにまぬがれます。

 ひとりでゐれば、何時でも私は真面目ですし冷静です。

 そして此の時が、真にあなたにとつていいBetter halfなのですね。

 ちがひますか。


(「『或る』妻から良人へーー囚はれた夫婦関係よりの解放」/『改造』1921年4月号・第3巻第4号/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』_p257)





 野枝はこの原稿を「今日もまた、終日例のように、縁側の椅子で日向ぼつこをしながら、ぼんやりと暮してしまひました」と書き出しているが、原稿末尾にも天気について触れている。


 どうしてこんなに毎日、いゝお天気がつゞくのでせう。

 かう云ふ風に晴れ切つて風も何もなくて暖かい日には、あんな瓦斯ストオヴなんかで暖めた室なんかゐないで、此方にゐらつしやればいゝし、田甫(たんぼ)もいゝ気持ですよ。

 あの軽い乗心地のよささうな馬車で、こんな日に逗子から長者ヶ崎の方、もつと先きの秋谷辺までも散歩に行つたらどんなにいゝでせう。

 金沢だつてよござんすね。


(「『或る』妻から良人へーー囚はれた夫婦関係よりの解放」/『改造』1921年4月号・第3巻第4号/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』_p257~258)


 文面からすると、野枝がこの原稿を書いたのは、大杉が麹町区有楽町の露国興信所(ロシア人経営の貸しアパート)の「病室」にいて、野枝と別居していたころだ。

 野枝は原稿末尾に「馬車で、こんな日に逗子から長者ヶ崎の方、もつと先きの秋谷辺までも散歩に行つたらどんなにいゝでせう」と書いているが、実際に大杉一家と和田久太郎が馬車で金沢(現・横浜市金沢区)に出かけたのは二月十日だったので、野枝がこの原稿を脱稿したのはそのころと推測できる。


インデイフアレント(不関与) ※大正時代のミシン


★『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』(大杉栄全集刊行会・1925年12月8日)

★『定本 伊藤野枝全集 第三巻』(學藝書林・2000年9月30日)



●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 13:23| 本文

第338回 Confidence






文●ツルシカズヒコ




 野枝は『改造』四月号に「『或る』妻から良人へーー囚はれた夫婦関係よりの解放」を書いた。

「性の解放・性的道徳の建設」欄の一文で、野枝の他にミス・ブラック、帆足理一郎江口渙が執筆。

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 野枝は冒頭で「もう随分ながく、私は自分の友達を持ちません。そして友達を欲しいと思つたこともありません」と書いている。

『青鞜』時代に親しく交わった小林哥津、野上弥生子との友情を、野枝はときどき懐かしく思い出し、大杉にも話して聞かせていた。

 とりわけ七、八年前、辻潤と染井に住んでいたころ、タスキ掛けでカラタチの生け垣越しに会話をした、弥生子のことを思い出すという。

 そのころ弥生子は『ソフィア・コヴアレフスキイの自伝』を翻訳していたが、弥生子はこの書物から得た感銘をよく野枝に話して聞かせた。

 お互いに読んでいる書物の批評をしたり、共通の知り合いの噂をしたり、自分たちの生活に対する切実な反省や計画を話したりーー野枝にとって弥生子は年上の特別な友人だった。

 しかし、あんなに親しく交わった仲でも、ほんのわずかな理解の隔(へだ)たりによって、まったくの赤の他人よりも冷たい関係になってしまうことを思うと、野枝は嫌な気持ちになり、他人には何も期待してはいけないという考えを強く持つようになった。





 野枝にとって大杉は、自分のすべてが話せる、そして自分を理解してもらえる特別な他人だった。

 だから、野枝は大杉以外の友達の必要をまったく感じなかった。

 しかし、野枝は大杉がベストな友人であることにも気づいていなかった。

 野枝がそれに気づいたのは、大杉が豊多摩監獄に入獄したときだった。

 本郷区駒込曙町の家には、同志たちが集い『労働運動』(第一次)を発刊していた時期だったので、野枝はひとりだったわけではない。


 けれども、私は『信じ合ふ』と云ふ普通に使はれてゐる言葉以上に信じる事のできる人々にもなおゆるすことの出来ない、或る、ほんとうに深いConfidenceを投げかける事の出来る話相手が、私には必要だつたのだと云ふ事がはじめてその時にしみじみ分つたのでした。

 そして、それが、たつた一人のあなただと云ふ事がわかつたのでした。

 それはあの時に、獄中へさし上げた手紙にも、たしか書いたと思ひます。

 何んと云ふ迂愚な私だつたのでせう。


(「『或る』妻から良人へーー囚はれた夫婦関係よりの解放」/『改造』1921年4月号・第3巻第4号/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』_p251)





 野枝と大杉はお互いの生活については、余すところなく知り合っていた。

 大事な仕事のためには、お互いできるだけよい同志でありたいと願い、そう努めてきた。

 ふたりの結合の意味は、夫婦であるというよりも、ひとつの道を歩く、ひとつの仕事をする、最も信頼することのできる同志になることーーそれもお互い、最初から知っていた。

 けれどもーーと、野枝は自省している。

 同志がいて仕事の話をする場合などはそうではないが、大杉とふたりきりになった「家庭」の雰囲気の生活では、ありきたりの型にはまった「妻」の思考に陥ってしまうと野枝は書いている。

 ともすると、大事な仕事に臨む場合にすら「良人(おっと)の仕事に理解を持つ事の出来る聡明な妻」と云ふ因習的な自負に負けてしまうと。

 野枝にこの間違った自負を気づかせてくれたのも、大杉の豊多摩監獄入獄だった。

 この間違った自負はなぜ生じたのか?

 野枝は大杉に不満を感じていた。


 本当なら一緒になつて、ムキにならねばならぬ仕事なのに、あなたがあんまり夢中になるといやでした。

 一日中外を歩きまはつて帰り、帰ると御飯を食べる間もオチ/\話をせずに机に向つて坐つたり、お茶を出しても、お菓子を出しても半ば夢中で雑誌の編輯になぞ熱中されると不満でたまりませんでした。

 出先きが分らなかつたり、折角骨折つた夕食の御馳走がムダになつたりすると無暗(むやみ)に腹がたちました。


(「『或る』妻から良人へーー囚はれた夫婦関係よりの解放」/『改造』1921年4月号・第3巻第4号/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』_p252)





 野枝はその不満が自分の我がままだと思い、自分を責めてみたこともあったが、不満は解消されなかった。

 野枝はこう自省している。

 自分がいわゆる「いい妻」として振る舞い、大杉にも「いい夫」として対してほしいという馬鹿な考えにとらわれていたと。

 大杉が入獄して留守の間、野枝は妻としての義務がなくなり、野枝の生活は自分ひとりのものになった。

 その間、野枝は医者から絶対安静と言い渡されていたので、頭の中でいろいろ考えた。

 野枝は考えたことを話す相手がいないことに寂寥(せきりょう)を感じ、その話し相手は理解の行き届いた友人である大杉以外に存在しないことを知った。

 野枝は大杉が自分にとって得がたい対象であることを知ったが、それは男女の恋愛を超えた力強いものだった。

 これは自分と大杉との関係に特有なものというより、男女の強い結合とは本来そういうものなのかもしれないと、野枝は思った。





 大杉が入獄している間にひとりになって思考した野枝は、自分が常に大杉と一緒に住んでいることが、自分にとってよくないことであることにも気がついた。

 大杉との「家庭」生活を楽しむことに気が取られると、野枝は大杉の一挙手一投足が気になり出すのだった。

 馬鹿げたことだとわかっていても、気に病むのだった。

 大杉と一緒に住んでいると、彼がわずかな時間でも外出し自分の知らないところで過ごしていても、誰と何を話しているのだろうと気をもんでしまうのだった。

 しかし、大杉が入獄して離れて住んでみると、大杉が何をしていようと何を考えていようと、そんなことは一切気にせず心を乱されることもないことを、野枝は知った。

 大杉と一緒にいると大杉の一挙手一投足が気になり出すのは、「やはり一緒にいれば『妻』根性を出すからなのですね」と野枝は自己分析している。


★『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』(大杉栄全集刊行会・1925年12月8日)

★『定本 伊藤野枝全集 第三巻』(學藝書林・2000年9月30日)







●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index





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2016年08月30日

第337回 壟断(ろうだん)






文●ツルシカズヒコ




 野枝は『女の世界』一九二一年三月号に「現代婦人と経済的独立の基礎ーー謬られた思想で養われた独立婦人に与ふ」を寄稿した。

 以下、抜粋要約。

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〈一〉

 ●婦人の完全なる解放のためには、婦人の経済的独立がなくてはならないと、女権論者の方は主張しています。

 ●女権論者は自ら働きさえすれば、婦人は親なり夫なりの奴隷の境涯から解放されると考えていますが、主人が代わるだけでやはり奴隷の境涯から抜け出せないことには一向に気づいていません。

〈二〉

 ●彼女たちは婦人が各方面の職業に従事するようになったのは、婦人の経済的独立の自覚によるものだなどと言われています。

 ●確かにそういう側面もあるでしょうが、職業婦人が増えたのは、現在社会の経済の仕組みが多くの婦人に徒食を許さなくなってきたからです。

 ●知識や教養ある婦人がその才能を発揮するため、あるいは結婚によって衣食住の保証を得るよりは独力で生活を営むことに対する誇りから、職業に就く婦人たちもいます。

 ●しかし、このような呑気な動機から職業を求めた婦人がどのくらいありましょうか。

 ●近代の経済の仕組みは、少数の資本家の利益壟断(ろうだん)を生みましたが、資本家たちはその下で使役される賃金奴隷の範囲を大人から子供へ、男から女へと拡大してきました。

 ●資本家が使用人に払う賃金では、今や一家を支えていくだけの余裕がなくなりました。

 ●生活程度が低くなればなるほど、女でも幼い子供でも徒食は許されなくなった、というのが現在の経済の仕組みなのです。

 ●大資本家が小資本家を飲み込み、徐々に中産階級の存在をも許さなくなってきています。

 ●中産階級も大資本家の使用人として賃金をアテにせざるを得なくなった。どうかすれば、子女の助けを必要とするようになった。

 ●多くの青年が、自分ひとりの生活を維持していくための収入を得ることが困難になってきました。

 ●世間に出て働くに充分な準備を授けて貰うことができる青年たちですら、両親から容易に独立することができないのです。

 ●彼らは結婚を急ぐような幸福な場所には置かれません。

 ●妻子を養う収入を得るには、どんなに辛い仕事をしなけらばならないかを知っているからです。

 ●利口な青年たちは、そんなことをしてまで女に徒食をさせることの馬鹿馬鹿しさを知っています。

 ●娘たちの親は、娘をかかえて求婚者を待つような境遇にいることを許されなくなります。

 ●娘もその保護者である父や兄から、独立することを強いられるようになってきました。

 ●いわゆる職業婦人ですが、職業を求める動機は労働者階級と少しもかわりません。そして、雇主に隷属させられている境遇も同じです。

 ●女権論者たちが、どれほど声を大にして婦人の経済的独立を祝福、主張しても、現在の職業婦人の大部分が自分の境遇を幸福と感じることができない間は、経済的独立が婦人解放問題にいい解決を与えるとは思えません。

 ●そして、職業婦人たちは自分たちが営むことができない家庭生活に、どれほど憧れているかということも、女権論者たちには知ってもらいたい。





〈三〉

 ●職業婦人の賃金の最初の基準は、女一人が自活できるものではなく、女を養う余裕のなくなった男の経済状態を補う程度のものでした。

 ●仕事に不馴れで能率が悪いことなどが低賃金の理由にされていましたが、今ではこれが虚偽であることが明白です。

 ●資本家にとって婦人を雇うほど得なことはありません。彼女たちはよく働きますが、資本家は報酬をできるだけ安く抑えて、彼女たちの若い精力を絞りつくします。

 ●正直な職業婦人は、男子より劣った賃金で勤務時間中、休む間もなく働きます。

 ●仕事から解放されると、後は疲労を癒すために眠るだけです。

 ●なんのためにそれをしているのかを知ることもなく、ただ間断なく強いられる労働があるだけで、生活に娘らしい色彩も潤いもありません。

 ●若い娘らしい色彩や潤いを求めるなら、彼女ひとりの収入では食べていけなくなります。

 ●そして、誘惑の手がたちまちに襲いかかってきます。

 ●こうして、なんと多くの若い娘たちが恥ずべき職業に就いていくことでしょう。

 ●職業婦人の大半は、できるだけ早く仕事を辞めたいと思っています。

 ●どんなに過酷な雇主に対しても、「もうすぐ辞めるのだから」という理由で抵抗しません。

 ●女を雇うことが得なことを知った雇主は、どんどん女を雇用するので、女の働く範囲は広くなりましたが、それによって男の収入が低減したり、男の働く場が奪われることになりました。

 ●妻が働き出ることによって、夫の賃金が低減したり職場を失ったするので、家族の生活は苦しくなるばかり です。

 ●職業婦人たちの憧れる家庭生活は遠ざかるばかりで、過労と堕落に陥れられるだけです。

 ●彼女たちが資本家と労働者の利害関係に無頓着であるかぎり、彼女たちの境遇は改善されません。

 ●女権論者たちの目には、こういう事実が見えないのでしょうか。

 ●女権論者たちは言うでしょう。

 ●「それは職場婦人としての自覚がないからだ。職業的利害に目覚めて、それを改善すれば仕事はもっと楽になるし、収入も増す。そして婦人も立派に経済的な独立ができる」

 ●しかし、大部分の職業婦人たちが思想的基礎の上に立たず、経済的必要に迫られて職業に就いているのだとすれば、それは無駄な自覚です。

 ●彼女たちは、女権論者たちが最も唾棄すべき、男の保護をどれだけ望んでいることでしょうか。

 ●彼女たちは長くその職場に止まっていても、自分をその境遇から救い出すのは、求婚者であると考えているにちがいありません。

 ●そうして、男に保護されることを屈辱に感じて職を求めて独立したはずの彼女たちは、当初の志を翻せざるを得ないのです。





〈四〉

 ●女権論者の有力な味方になり、自覚ある職業婦人として立つ人々は、ただ男子を相手に競争することに懸命になり、女らしい情緒も色彩も涸らしつくしてしまった、少数の刺々(とげとげ)しい人々です。

 ●その人たちはただ一個の機械と同じです。自分の生活に少しも自由を持ちません。

 ●彼女には天真爛漫さなど少しもありません。いつも眉を寄せ、唇を一文字に結び、青白い顔に冷たい表情を浮かべて人の顔を見据えます。

 ●彼女たちには、洒落や空談はもちろんのこと、およそ人の気を軽くする言葉や表情は一切禁物なのです。

 ●これは決して私の誇張でもなんでもありません。

 ●今日、知識があり教養がある職業婦人として、一般人の尊敬を集めている少数の人は、実にここまでの修養を積んだ人たちなのです。

 ●意地悪な世間の人々に尊敬されるには、このような離れ業をして見せなければならないのです。
 
 ●常識を持った世間の人々は、はたしてこんな婦人たちをたくさん作り出すことを喜ぶでしょうか。これが真の婦人と言えるでしょうか。

 ●今日、どれほど多くの職業婦人が、結婚と同時に職業を投げ出していることでしょう。

 ●既婚者や母親となった婦人が働くことができる設備が、少しも整っていないからだと力説されています。

 ●しかし、かりにその設備が充分だとしても、婦人たちに充分な仕事が与えられるでしょうか。その夫にも父にも兄にも妹にも、すべての人にまんべんなく相当な仕事が与えられるでしょうか。

 ●利口な資本家は熟練した労働者の就職を脅かして、その補助の位置にいるものに、もっと悪い条件で仕事を分け与えるというようなやり方をします。

 ●こうして人間の労働価値はどんどん低下していきます。

 ●資本家はいかに安く労働者を使うかしか考えていません。





〈五〉

 ●婦人が経済的に独立して、親や夫の干渉圧迫を退けただけでは、問題は解決しません。

 ●大多数の婦人労働者が、雇主というタイラントからさらに大きな圧迫暴虐を蒙るのです。

 ●女権論者たちによく考えてもらいたいのは、ここなのです。

 ●どんな人間でも徒食するということはゆるされないことですから、私は婦人の経済的独立に反対するものではなく、むしろ積極的にそれを主張する必要を感じています。

 ●しかし、中産階級に属する女権論者たちの狭い視野からの議論では、婦人の経済的独立や女性の完全なる解放の問題は、根本的な解決にはいたらないのですーー私はそれを明確にし強調したいのです。

 野枝はこの評論をこう結んでいる。


 問題は深く一般の社会問題と交錯してゐます。

 そして今、世界中の大問題になつてゐます。

 経済組織の重要な点にまでふれてゐます。

 すべての婦人達は先づ何よりも現在の重大な社会問題について研究する必要があります。

 その経済組織について考慮を要します。

 此の根本的な問題の解決は必ず、婦人問題にも、根本的に何の不合理も残さない解決を与へるにちがひありません。


(「現代婦人と経済的独立の基礎ーー謬られた思想で養われた独立婦人に与ふ」/『女の世界』1921年3月号・第7巻第3号/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』_p248~249)


★『定本 伊藤野枝全集 第三巻』(學藝書林・2000年9月30日)



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2016年08月29日

第336回 高村光太郎






文●ツルシカズヒコ





 大杉が聖路加病院から退院したのは、一九二一(大正十)年三月二十八日だった。


 聖路加病院に入院中であつた大杉栄氏は

 廿八日午後三時退院して午後四時十六分新橋発の列車で鎌倉雪の下の住居に帰つたが

 伊藤野枝 村木源次郎の両氏が付添つて保護に努めた


(『読売新聞』1921年3月29日)

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「日本脱出記」によれば、大杉が入院したために上海の社会主義者との連絡が絶たれ、ヴォイチンスキー(ロシア共産党の極東責任者)が送ってくるはずだった金も入手できなかったが、「近藤憲二が僕の名で本屋から借金して来て、皆んな一緒になつてよく働いた」。

 近藤栄蔵も大杉が入院中の近藤憲二の奮闘を記している。


『労運』の経営に主役をつとめた近藤憲二の奮闘ぶりは、また実に涙ぐましいものであった。

 とくに大杉が病気で倒れていた間の金策のための彼の活躍は大変なものであった。

 栄蔵はこれらの同志のなかに交って、歳こそ上だが運動経験においては遥か後輩として、気持よく起臥をともにし、机を向い合せて、仲よく仕事をしたものである。


(同志社大学人文科学研究所編『近藤栄蔵自伝』)


『近藤栄蔵自伝』によれば、労働運動社に対する警察官憲の警戒は厳重で、大杉個人に三名の尾行がつき、労働運動社そのものにも昼夜交代で四人の私服が、朝七時から夜十一時まで目を光らせていた。

 私服は目新しい訪問者に姓名、住所、用件を訊ねて手帖にひかえた。

 社員が仕事を終えて夜の散歩にでも出る際には、石塀の暗い陰にやもりか蝙蝠のようにペタリと平たく身を寄せて様子をうかがい、外出者の人数に応じてひとりかふたりが尾行してきた。

 近所の風呂に行く際にも尾行がついた。





 近藤憲二は金にまつわる、あるエピソードを記している。

 二月か三月の寒い日であった。

 神田区駿河台北甲賀町一二番地の駿台倶楽部内の労働運動社で仕事をしていると、隣りの部屋に人が来た気配がした。

 声をかけても返事がない。

 襖を開けると、部屋の真ん中に袴をはいたインバネスの男が立っていた。

「どなたですか?」

 近藤が声をかけたが、その男は答えず無表情のまま近藤のそばへ来て、

「僕、高村光太郎です」

 とだけモソモソと言って、持ってきた風呂敷包みをとき、机の上に『手』のブロンズを置いた。

「これをあなたたちにあげます。金に代えて使ってもいいですよ」

 それだけ言って、その男は牛のようにヌーッとしていた。

 近藤はむろん高村の名は知っていたが、初対面であり、あまりに出し抜けな話なので面喰らった。





 ブロンズは、親指を少しそらし、小指をややまげたもの、そのときは知らなかったが、氏の代表作になっている『』と同じ形、もっともそれが代表作そのものであったか、そのころ、ああいうのを幾つか作られたのか、その辺はわからない。

 しかし彫刻がわかりもしない私たちがそれを貰う資格はないし、金にかえてもいいといったところで適当なところを知らないし、魂をこめて作られたものを金になりさえすればというわけにもいかぬ。

 私はそういう理由を述べて、「せっかくのご厚意ですが、お断わりするのがいちばんいいと思います」といった。

 氏は遠慮するなともいわず、別に話すでもなく、やはり無表情で、風呂敷に包んで帰られた。

 話はそれだけ、氏の三十七、八歳のときだった。

 その後逢う機会は遂になかったが、その日の氏の牛のような感じを今も思い起こす。

 そういえば氏にはたしか『鈍牛の言葉』という詩があり、その中に

 おれはのろまな牛(べここ)だが

 じりじりまっすぐにやるばかりだ

 の一節があったと記憶する。



(近藤憲二『一無政府主義者の回想』_p231)



★同志社大学人文科学研究所編『近藤栄蔵自伝』(ひえい書房・1970年1月)

★近藤憲二『一無政府主義者の回想』(平凡社・1965年6月30日)



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2016年08月27日

第335回 聖路加病院(五)






文●ツルシカズヒコ





『東京日日新聞』社会部記者の宮崎光男は、日蔭茶屋事件の際にも逗子の千葉病院に駆けつけたが、このときにも病床の大杉に面会に来た。

 宮崎はまあ大丈夫だろうと思い、見舞いにも行かないでいた。

 ところが、社の早出し版(東京市外版)を見ると、大杉はもはや死人扱いで、堺利彦や堀保子のおくやみ話まで載っていた。

 あわてて車で聖路加病院に駆けつけた宮崎は、大杉を病気で死なせるのは惜しいと思い、できるなら早出し版の記事を市内版ではひっくり返してやりたいものだと念じていた。

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 宮崎は広くて、人影がなく、電燈が薄暗い聖路加病院分院の中を歩きながら、革命家の終焉を彩るにはあまりに淋しいその雰囲気に涙が流れた。

 しかし、病室のドアに近づいて、そっと中を覗いた次の瞬間、宮崎は明るい微笑を浮かべた。

 ベッドの上に仰向きになって、額に氷嚢をあてがったまま、目をつぶって静臥していた大杉が、ほんの一瞬ではあるが、逗子の病院で見たときのあの底光りする生気のある目を、じろりと天井に向かって見開いたからである。


 上からぶら下がつた暗い電燈の光りに映えた凄いその目に、僕は『これだ。この目だ』と自分の心につぶやきながら、枕頭にしよんぼりと立つてゐる野枝さんに、目で挨拶するや否や、急いで社にひきかえして、悲観記事の撤回を迫つたばかりか、彼の容態が必ず快方に向かひつゝあることを記述した。

(宮崎光男「反逆者の片影ーー大杉君を偲ぶーー」/『文藝春秋』1923年11月号)


 一九二一(大正十)年二月二十一日から一週間ほどして、大杉の熱は下がり始めた。

 しかし、肺炎は峠を越したが、今度は心臓が弱ってきた。

 奥山は野枝に油断は禁物だと、注意を促した。





 三月一日、随筆集『悪戯』(アルス)が発行された。

 大杉、野枝、荒畑寒村、和田久太郎、山崎今朝弥の共著で「発禁や監視など主として警察・司法との攻防を綴った軽妙な随筆をまとめた」(大杉豊『日録・大杉栄』)のである。

 野枝の作品は以下の五タイトルが収録されている。

●「獄中へ」(『文明批評』1918年4月号・第1巻第3号/大杉栄らの共著『悪戯』・アルス・1921年3月1日/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』「消息(伊藤)」【大正七年三月七日・東京監獄内大杉栄宛】/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』)

●「化の皮」(初出紙誌は不明だが1919年1月ごろの執筆と推測される/大杉栄らの共著『悪戯』・アルス・1921年3月1日/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』)

●「男に蹤〈つ〉かれるの記」(「夢に男に蹤〈つ〉かれるの記」の表題で『夢の世界』1919年3月号・第2巻第3号/「男に蹤〈つ〉かれるの記」の表題で大杉栄らの共著『悪戯』・アルス・1921年3月1日/「男に蹤〈つ〉かれるの記」の表題で大杉栄全集刊行会『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』に収録/「夢に男に蹤〈つ〉かれるの記」の表題で『定本 伊藤野枝全集 第三巻』)

●「拘禁されるまで」(「拘禁される日の前後」の表題で『新小説』1919年9月号・第24年第9号/「拘禁されるまで」の表題で大杉栄全集刊行会『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』/「拘禁される日の前後」の表題で『定本 伊藤野枝全集 第三巻』)

●「アナキストの悪戯」(「悪戯」の表題で『ニコニコ』1920年2月号・第104号/「アナキストの悪戯」の表題で大杉栄全集刊行会『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』/「悪戯」の表題で『定本 伊藤野枝全集 第三巻』)





 三月初旬になり、大杉の危険期は過ぎ、容態は快復に向かった。

 日蔭茶屋事件と今回の入院で二度「死にそこなった」大杉は、「死にそこないの記」にこの入院、闘病についてこう書いている。


 病院にはいるまでは、熱も四十度も越していたんだが、気はたしかだった。

 からだはまだ少しは動けた。

 自動車に乗るのに、「なあに下までぐらい、自分で歩いて行けるよ。」なんて、三階で威張っていたほどだった。

 それで病院のベッドの上に横たわったほとんどその瞬間から、二週間ほどは、まるで夢うつつの間に過ごした。

 ほとんど何にも覚えがない。

 そしてこの間に死にそこなってしまったんだ。

 ……生きるということは実に面白いね。

 僕は葉山の時に初めて、本当にこの面白味を味わった。

 そして今度また、再びその味を貪りなめた。

 こんども意識がすっかり目ざめた時には、もうこの生の力がからだ中に充ち充ちていた。

 毎日何かの能力が一つずつ目ざめて来る。

 動けなかった手足が動いて来る。

 寝返りができるようになる。

 きのうはまだ一人で立つことができなかったのに、きょうはもうそれができる。

 あすはひと足ふた足歩ける。

 そしてあさってはもう室の中をあちこちとよちよちしながら歩く。

 ふだんこのいろんな能力を十分に働かして行ったら、できるだけ自分の思う通りの、我がままな生活をして行ったら、生の歓楽を貪って行ったら、いつ、どこにどうして死んだって、大して不足もあるまいじゃないか。


(「死にそこないの記」/『野依雑誌』1921年6月号・第1巻第2号/『大杉栄全集 第14巻』_p107~109)





 聖路加病院で大杉の主治医を務めたのが、板橋鴻だった。

「私にエスペラントをすすめた大杉栄」によれば、板橋は新聞記者には「肺結核兼腸チフス」と発表したが、チフスのみに注目されて「大杉がチフスで死にそうだ」と喧伝されたという。

 板橋は大杉の入院後、血液やその他の培養においてチフスの可能性をチェックしたが、チフス菌は発見できなかったと書いている。

 大杉が危篤になったのは、肺結核のシュープ(新しい病巣を作って広がっていくこと)と見るのが至当のようだ。


 患者としての大杉氏はよく医師や看護婦の言ふ事を聞く人であつた。

 看護婦達は異口同音に「恐ろしい思想を持つた人のやうにはチツトも見えないわね」と言ひ合つて居つた。

 夫人の伊藤野枝氏は大きな腹を抱へて看護して居つた。

 大杉氏が快復する、野枝氏がお産をするといふ順序であつた。

 病院の同じ食堂で同じ食事をしたこともあるが、野枝氏は色の浅黒い小柄なやさしい口のきき方をする女であつた。

 しよつちう来て看護に当つてゐたのは村木源次郎氏であつた。

 何時も刑事が二人病院の近所にブラブラして居つた。

 時には小使室に入り込んで居ることもあつた。

 そして折々医者や看護婦をつかまへては大杉氏の様子を尋ねる。

 村木源次郎氏は……実にまめまめしく看護婦のやうな仕事をしたり走りづかひをしたりしていた。


(板橋鴻「私にエスペラントをすすめた大杉栄」/『ラ・レヴオ・オリエンタ』1936年6月号)


 回復期になった大杉が、科学的研究はみなエスペラントで発表されるような時代が今にも来るようなことを板橋に言ったので、板橋は村木が買ってきてくれた『エスペラント全程』を、試験前の学生のような気持ちで読み耽ったという。

 板橋は聖路加病院勤務時代を「朝に夕に大島通ひの汽船のボーを聞きながら暮らしたあの時分」と回想しているので、野枝も大杉を看病しながら朝に夕に汽笛の音を聞いていたことだろう。





 野枝が三女を出産したのは三月十三日だった。


 危険期が過ぎると、病気はだん/\打ちまかされて行きました。

 そして、全く何の点からも危険がなくなつた処で、始終周囲の人の心配の種だつた、私のお産の時が来たのでした。


(「大杉栄の死を救う」/『野依雑誌』一九二一年六月号・第一巻第二号/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』_p289)


 特にそのことに触れている資料はないが、野枝は聖路加病院の産婦人科で三女を出産したと考えてよいのだろう。

 次女のエマを中国・天津在住の牧野田彦松、松枝(大杉の三妹)夫妻の養女(牧野田幸子、結婚後は菅沼幸子)にしたので、野枝は三女に再び「エマ」(のちに伊藤笑子に改名、結婚後は野澤笑子、歌人名は野澤恵美子)と命名した。

 三女・エマの戸籍上の出生は二月十三日である(『定本 伊藤野枝全集 第四巻』「伊藤野枝年譜」)



新発田を訪れた菅沼幸子、野澤笑子

大杉栄、伊藤野枝、橘宗一の墓前祭に参加する菅沼幸子、野澤笑子


★大杉豊『日録・大杉栄伝』(社会評論社・2009年9月16日)

★『定本 伊藤野枝全集 第三巻』(學藝書林・2000年9月30日)

★『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』(大杉栄全集刊行会・1925年12月8日)

★『大杉栄全集 第14巻』(日本図書センター・1995年1月25日)

★『定本 伊藤野枝全集 第四巻』(學藝書林・2000年12月15日)


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第334回 聖路加病院(四)






文●ツルシカズヒコ




「ああしてあのベッドの上で死んでいくのだろうか?」

 野枝の頭の中は不安でいっぱいになった。

 しかし、やがて彼女の気持ちは不思議なほど澄んできた。

 二、三日前からいろいろな見舞いの葉書が届いていた。

 その中にはまったく見も知らぬ人からの、心からの祈りが記された見舞い状もあった。

 そして、野枝の脳裏に今までの大杉の生き様が浮かんできた。

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 野枝は大杉と暮らすようになってから接してきた、彼の友人たちや同志のことがいちいち脳裏に浮かんだ。

「これ限りの生命なのなら、今までの人生でも十分だけれどーー」

 野枝はとめどもなく考えた。

 もし彼が生き延びることができるとすれば、それこそ彼が一命を賭けてもやりたいような生き甲斐のある仕事も待ち受けているかもしれないのにーー。

「でもやっぱし、このまま死んでいくのだろうか?」

 残された自分や魔子のさびしさや心もとのなさが、重く立ちふさがるだろう。

「あんなに可愛がっていた魔子とも、十八日に会ったのが最後だったのかもしれない」

 野枝の眼から涙があふれ出てきた。

「だけれども、生命というものはなんという不思議なものなのだろう?」

 野枝は考え続けた。





 丈夫な人の生命が、たゞ一寸偶然の出来事で一瞬のうちに絶たれてしまふ事があるかと思へば、今にも死にさうに脅かされつゞけてゐながら、細く/\いつまでも続くと云ふような事がある。

 Oだつて、どの瞬間にあの呼吸が止まるか分らない。

 十分あとでか一時間あとでか或は今夜中もつても明日死ぬか、或は又全然たすかる事も出来るのだ。

 けれども、誰がそれを本当に知り得ることが出来ようか?


(「大杉栄の死を救う」/『野依雑誌』1921年6月号・第1巻第2号/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』_p287)


 しかし、大杉が眼を覚ますと同時に、野枝はそんな考えは棄てた。

 野枝が大杉にうがいをさせてそばに腰を下ろすと、大杉は彼女に少し話しかけた。

 野枝は絶望するのはまだ早いと思った。

 医者が見放しても、最後の最後までできるだけの看護はつくそう、それが大杉の奇跡的は快復につながるかもしれないし、死ぬ運命にあるとしてもそれがせめての思いやりであり、あきらめもつくーー野枝はそう思った。





 しかし、一九二一(大正十)年二月二十一日、その夜、聖路加病院を訪れた奥山の顔は前夜にもまして曇っていた。

 大杉はその日の夕方から、ほとんど口もきかなくなった。

 唇はすっかり干からびて、うがいくらいではおっつかなくなっていた。

 奥山が声をひそめて言った。

「非常に危険ですね、重態ですね、もうお知らせになるところには、お知らせになりましたか?」

 野枝は一瞬、体中の血が逆上するような感じがした。

 信頼している奥山のこの言葉は、野枝からすべての希望を追い出してしまった。

 しかし、我に返った野枝は不思議にも、反抗心にも似た闘争心が湧き上がってきた。

「絶対にこの重態から大杉を救い出してみせる!」

 奥山もまだ完全に諦めているようではなく、細かないいろいろな注意をしてから、

「今夜と、もうあと二、三日をどうにか切り抜けられればいいのです。ぜひ切り抜けたいものですね」

 と言い残し、十一時ごろに帰っていった。

「今夜とあと二、三日」という言葉がいっそう、野枝に不思議に力強い自信を抱かせた。

 野枝はその不思議な澄んだ気持ちを抱きながら、しばらくストオブの前に腰を下ろし、火を見つめていた。





『今夜は、どんな事があっても、私はあのいのちをつなぎとめておかねばならない。そして、明日も明後日もーー』

 突然、私は自分をふりかへつて見る機会を与えられたのでした。

 私は、とにかく一生懸命に今まで看病をして来ました。

 が、私の意志は、今日まで何をぼんやりしてゐたのでせう?

 Oは……損はれかけた意識の下にゐてさへも……病気に打ち克つ努力をしようとしたのですのに、私の心は、それを聞いても、たゞ涙ぐんだばかりでした。

 今までOの持つてゐたすべてのものは、彼自身に絶対のものであつたと同時に、私にも亦唯一のものではなかつたか?

 Oは今の此のかすかな一脈の呼吸を賭けて、病気と争つてゐるのではないか……。

 私にはたゞ病気を恐がる不安があるばかし……病気にすつかり負けてゐる事ではないだらうか?

 そして医者が負け、私まで負けてどうなるのだ?

 きつときつと病気を私の意志の力で押しかへして見せる!

 と私は心に叫びました。

 もう不安はなくなりました。

 そして、彼の死を想像する代りに、恢復のよろこびに遇はうとする努力に熱中しました。

 私は看病の上には一点の手落ちもつくるまいと努力したのでした。


(「大杉栄の死を救う」/『野依雑誌』1921年6月号・第1巻第2号/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』_p288~289)


★『定本 伊藤野枝全集 第三巻』(學藝書林・2000年9月30日)


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2016年08月24日

第333回 聖路加病院(三)






文●ツルシカズヒコ




 二月二十一日『読売新聞』五面に、「大杉栄氏 愈(いよい)よ絶望 聖路加分院で野枝子婦人等に守らる 皮肉なのは厳しい官憲の眼」という見出しの記事が載った。

「愈(いよい)よ重態に陥つた大杉栄氏」というキャプションがついた、大杉のバストアップの写真も掲載されている。

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 宿痾(しゅくあ)の肺患○り去る十五日午後有楽町露国興信所三階の仮室から伊藤野枝子夫人に援(たす)けられて築地聖路加分院第二号室に入院した大杉栄氏は爾後の容態面白からず

 入院以来三十九度乃至四十度一分の発熱と尿便失禁等があつて重態に陥りつつあつたが昨日午後から更に険悪となつて脈拍は九十前後に衰へ意識は混濁して左右両肺の結核症の外腸窒扶斯(ちぶす)を併発

 食欲無く辛じて野枝子夫人の勧める少量の牛乳・果汁・スープなどを摂つて居るが刻々危篤に傾かんとして居る

 医師の云ふ所によれば生死の程は覚つかなく両三日を経過しなければ何とも予測し得ないさうである

 昨日夜来口唇乾燥の為めグリセリンを毛筆に湿めして唇に塗つて居る程で野枝子夫人は一人枕頭に不眠不休で付添ひ看護に努めてゐる 

 因(ちなみ)に氏の容態が極めて険悪である際にも官憲の警戒は依然厳格にして築地署の警官二名乃至三名は始終氏の病室付近に接近して皮肉な警戒に務めている


(『読売新聞』1921年2月21日)





 二月二十一日の朝、大杉は病勢が進んでいたが、やはり野枝に病状を尋ねた。

 見舞いに来た人の名前も尋ねた。

 しかし、日が高くなるにつれて、また徐々に元気がなくなった。

 野枝には聖路加病院の看護婦も医者も、治すことはまったく断念してただ傍観しているように見えた。

 回診に来た医者が「非常に重体だ」「お大事に」という言葉を残して去って行った。

 野枝は悲痛な気持ちで、ジッと大杉の顔を見つめた。

 優れた意志も力も感情も、そこに横たわった大杉の体からは消え去っていた。

 強靭な精神の現われであったその顔の魅力も表情も、すっかり死んでしまっていた。

 ベッドには、ただかろうじて息をしている大杉の体が横たわっているだけだ。





 その朝、野枝は眠っている大杉のそばを離れて、窓辺で新聞を広げていた。

 すると目覚めた大杉が、声をかけた。

「野枝子……」

 野枝が返事をすると、大杉は何をしているのかと聞いた。

「あなたが眠っていらしたから、こっちで新聞を読んでいたのですよ」

「じゃあ、こっちへ来てごらんよ。眠っているときだって、そばを離れるんじゃないよ」

 大杉は微かに笑いながら低い声で冗談を言った。

 野枝も少し気持ちが軽くなり、笑いながらベッドのそばに腰を下ろした。

 その朝も大杉は新聞の主な記事について、野枝に尋ねた。


 で、私は其の頃紙面を賑はしてゐた二つの殺人事件の後報が出てゐると云つて、その事をはなしました。

 処がその二つともOは初耳のやうな顔をしました。

『何だいそれは?』

『おや、きのふも、おとついも話して上げたぢやありませんか。覚えてゐないの?』

『あゝ、覚えてないよ』

『まあ。』


(「大杉栄の死を救う」/『野依雑誌』1921年6月号・第1巻第2号/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』_p285)





 野枝は初めからおさらいするように、そのふたつの事件について話して聞かせた。

「あなたはね、昨日から少し意識が混同するのですよ。ほんのちょっとですけれども。だから、昨日のことなんかやっぱし覚えていられないのですね。あまりいろいろなことを考えてはいけませんよ」

「考えるもんか。そんなことはちゃんと心得てるよ。だが、そんなに混同するのかね。どんなことを言うんだい?」

「ええ、いろんなわからないことを、ちょいちょい言うのですよ」

 野枝はそう言って笑った。

 大杉は黙っていたが、少ししてしみじみとした調子で言った。

「病気って、いやなものだな。もうこんな大きい病気はごめんだ! まったく無力になってしまうのだからなあ。こうして寝ている僕に何が残っているんだい。ただこうして体がころがっているきりじゃないか。普段、大威張りで持っているものは、みんな今の僕にはない。意気地のないものだなあ」

 そして、何を考え出したかのか、こんなことも言った。


『これで、頭が馬鹿にでもなつて生きてはたまらないなあ。』

『本当にさうですね。でも大丈夫よ、若しあなたがそんな事にでもなるようになつたら、そんな生き恥なんかかゝないように私が殺して上げますよ。』

 私は半ば笑ひながら、でもこみ上げてくる涙をどうすることも出来ず半ば泣きながらさう答へました。

『さうだ、是非さうしてくれ。』


(「大杉栄の死を救う」/『野依雑誌』1921年6月号・第1巻第2号/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』_p286)


 もうまったく死相を呈した大杉の顔を見守りながら、野枝の眼にはひとりでに涙が湧いてきた。

 それ以上、大杉の顔を見ていることができなくなった野枝は、そっと立ち上がって窓のそばの低い椅子に深く腰を下ろした。

 ガラス戸ごしに見える庭は、殺風景な荒れ方をしていた。





 ちなみに「其の頃紙面を賑はしてゐた二つの殺人事件」のひとつは、「大杉栄重態」を報じている『読売新聞』五面のトップ記事のことであろう。

 こんな見出しが躍っている


 東海道下り寝台車中 二等客の残殺死体

 被害者は大阪の運送業者阿野徳次郎と判明し

 兇行は箱根通過の際か

 鉄道開通以来の椿事 車中で殺人され得るか

 阿野は国粋会の顔役 酒豪家で荒い気肌の男

 新富町に妾があり月数回 東京大阪間を往復してゐた


(『読売新聞』1921年2月21日)


★『定本 伊藤野枝全集 第三巻』(學藝書林・2000年9月30日)


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第332回 聖路加病院(二)






文●ツルシカズヒコ




「大杉栄の死を救う」によれば、大杉の病名がチブスと決定し、同時に気管支カタルを併発したのは、一九二一(大正十)年二月二十日だった。

「大杉栄の死を救う」には、大杉の容態の推移が詳細に記されている。

 聖路加病院の病室で野枝が一番に気にしていたのは、室温だった。

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 部屋が広いので石炭ストオブに石炭をドンドン入れても、なかなか暖まらなかった。

 左には広い部屋があり人気がなく、右は壁で壁の向こうは便所になっていた。

 向かいの部屋も二階も空き部屋だった。

 暖気がみんな天井や壁に吸われてしまうのだった。

 そして二四方くらいの大きな張り出した窓にはカーテンがついていなかった。
 
 野枝はこの窓の下半分を毛布で覆って少しでも寒さを防ぎ、一生懸命にストオブの火に注意して華氏六十度くらいの室温を保つようにした。

 しかし、室内の空気の乾燥を防ぐ方法がどうもうまくいかず、ずいぶんと気管支の方の心配もした。

 ついうっかり……が命取りになるのだ。

 野枝の緊張感は高まった。





 大杉は二月十八日の午後から、安眠のできない状態になっていた。

 野枝は大杉を安眠させるために、足音ひとつ立てないような注意を払った。

 ストオブに石炭を入れたり、灰を落としたりする際にも音を立てないように細心の注意をした。

 大杉は毎朝、自分の病気がどんな状態なのかを野枝に聞いた。


 そして、自分でもひどく病気に打ちまかされてゐることを意識してゐるように、『斯うして、たゞ病気にまけてばかりゐて長い間黙つて寝てゐるのでは仕様がない。医者に許り頼つてゐないで何んとか病気に抵抗する方法を考へなくつちや』と云ふのでした。

 ……どんな場合に、どんなものに向つても、必ず独特な意志の力で、打ち克たずにはおかないと云ふ精神のあらはれを、私は涙ぐみながら聞いたのででした。

 そして必ず、私の口から、病気の状態をすつかり聞きとるのでした。

 それから、新聞の時事問題、社会記事の主だつたものの要領を話さすのでした。


(「大杉栄の死を救う」/『野依雑誌』1921年6月号・第1巻第2号/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』_p282~283)





 野枝が最初に大杉の意識の混濁に気づいたのは、二月二十日の午後だった。

 二、三回、話の途中に突然意味不明のことを口にしたのだ。

 夕方になると眼がすっかり上ずり、顔の相がまるで変わってしまった。

 口の乾きが激しいので始終うがいをさせていたが、うがいの水を飲み込んでしまわないくらいの意識の確かさはまだあったが、「世の中にこんな気のきいた、気持ちのいいものはない」などと意味不明なことを言いながら微かな笑い顔を見せたりした。

 熱はどうしても三十九度を下まわらない。

 野枝の不安は刻々と増していった。





 夜、野枝が待ちかねていた奥山が来た。

 奥山はチブスの前途は見えてきたが、気管支カタルが肺炎になったので、その対策を講じなければならないと言った。

 大杉の生死はこの肺炎対策次第だという。

 聖路加病院に入院するまで、大杉と野枝は奥山の指示に従い、湿布で間に合わない場合は胸に氷を当てていたが、聖路加病院では氷の手当はしない方針だった。

 奥山も礼儀上、他院の方針に差し出口を挟むことはできないのだが、野枝の強い主張を受け入れて、聖路加病院のふたりの看護婦に言い含めてくれた。

 野枝が奥山の遠慮を受け入れることができなかったのは、大杉の体を動かすことを絶対に避けたかったからだ。

 体を動かすと腸出血の恐れがあった。

 二時間ごとに湿布を取り替えると、その度に多少なりとも体を動かすことになり、腸出血の危険があった。

 野枝は氷を当てるのが最上の手段だと思った。

 もし聖路加病院の医師からとがめられたら、野枝は病人が長い間こうすることを習慣にしているのだと、主張するつもりだった。





 腸チフスが進行すると腸内出血から始まって腸穿孔を起こし死に至るのだが、野枝はそれを恐れていたのだろう。

 ちなみに前年五月、岩野泡鳴は腸チブスを病み、入院中に林檎を食べて腸穿孔を起こし死去した。

 野枝の頭の中には、この泡鳴の例がインプットされていたのではないか。

 結局、湿布と氷嚢の件は、背中には湿布をすることにして、四時間ごとに取り替えることになった。


 胸には左右ともに二つづつ四つの氷嚢をあてました。

 室の空気に湿り気を与へること、吸入、と云ふ風に、一生懸命にその手当をしたのでした。

 しかし、その午後から失禁をはじめてゐましたが、それでも夕方までははづすと直ぐ気味をわるがつてしらせてゐましたのが夕方からは、それもどうやら分らなくなつて来たようでした。

 病勢はただ進んでゆくばかりでした。

 睡眠剤をやつても依然として安眠は出来ないようでした。


(「大杉栄の死を救う」/『野依雑誌』1921年6月号・第1巻第2号/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』_p284)


★『定本 伊藤野枝全集 第三巻』(學藝書林・2000年9月30日)


●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 19:04| 本文

2016年08月23日

第331回 聖路加病院(一)






文●ツルシカズヒコ




 一九二一(大正十)年二月十三日の正午、野枝は福岡から上京した叔父・代準介の乗った列車を横浜駅で迎え、すぐに「病室」に戻った。

 村木には魔子を連れて鎌倉に帰ってもらった。

 大杉の熱は少しも下がらなかった。

 大杉は体が非常にだるいと訴えたが、元気はいつもどおりで、平常どおりに話し、妊娠中の野枝の体の心配までしてくれた。

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 二月十四日、大杉の入院が決定した。

『労働運動』の仕事、生活費、入院費……二ヶ月やそこら入院することを想定し、その間に滞りのないように、大杉はたいぶ頭を働かせた。

 大杉と野枝は入院についてもかなり迷った。

 ふたりは奥山を信頼し、看護婦を雇って、このままの状態がいいとも思った。

 ふたりは不備な病室に入れられ、奥山の治療も受けられなくなることを危惧した。

 しかし、一間だけの狭い部屋では、なにもかもが不便だらけだった。

 できるだけ設備のいい病院を探すことに決めた後も、野枝は奥山の手を離れることに大きな不安を覚えた。

 大杉は日ごろ、奥山のおかげで自分は生命を保って来た、彼がいればどんな病気にとりつかれても大丈夫だと言い、奥山に絶対の信頼を置いていた。

 うまく望みどおりの病院に入れるかも問題だった。

 ふたりは有楽町から近い、なるべく設備のいい病院を望んでいた。





 二月十五日、大杉は聖路加病院に入院した。

 心配したわりには容易に聖路加病院に入院できたので、ふたりはひと安心した。

 京橋区築地にある聖路加病院はふたりの第一希望だった。

 本院に空き室はなく、まだ新しくて設備が本院のようには完備していない分院への入院だったが、野枝は病室が新しく広い純西洋室だと聞いて安心した。

 西洋室みたいなところに畳を敷いた病室や、狭い窮屈な部屋、廊下をバタバタ駆けられたり……とりあえず、野枝はそんな不愉快をせずにすむと思った。

 聖路加病院の分院は、あるドイツ人の住居を改築したものだった。


 ……実際に落ちついてみると、気持ちがようございました。

 Oも、室に運びこまれて、寝台の上に横になると直ぐに室を見まはして、いい室だなどゝ云つてゐました。

 それにまだ新しいので、私達のゐた室も、私達が最初のはいり手なのでした。

 大きなストオブや、東南に向いた大きな高い張り出しの窓やが、それから室の広さやが、少しも、幾つも小さなおなじ室のならんだ、他の病院の建物にあるやうな事務的な不親切な感を起させないのでした。

 それから病院付の看護婦たちも、他の上草履を引きずつて歩く種類の人たちとは大分ちがつて確(し)つかりした人達でした。


(「大杉栄の死を救う」/『野依雑誌』1921年6月号・第1巻第2号/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』_p280~281)





 二月十六日、有楽町の「病室」の後かたづけをして来た野枝が、聖路加病院に戻ると、大杉はすっかり安心しきったような表情で眠っていた。

 折よく九州から叔母の坂口モトが来たので(「大杉栄の死を救う」解題)、野枝は鎌倉の家の留守をモトに頼み、村木にもしばらく休んでもらうことにした。

 出産間近になったので、野枝がモトに家事の助っ人を依頼し、代準介がモトを連れて来たと推測される。

 野枝が看護婦とふたりで大杉の完全看護体制に入ったのは二月十八日だったが、二月十九日の朝から大杉の容態が悪化し始めた。

 熱に苦しみ始めて一週間目だった。

 食欲がない大杉は、終始鬱々としていた。

 まだ病名ははっきりしていなかったが、チブスの兆候が徐々に出始めていた。

 そうだとしたらーー奥山から聞いていたチブスに関する話がいちいち、野枝を不安にした。

 奥山によれば、今日の医術ではチブスに対する積極的な治療方法はないという。

 経過を看視すること、余病を防止すること、食餌の注意しかないという。

 しかも、大杉は肺結核という大病も患っていて、奥山は大杉の肋骨にも異常を認めていた。





 では、これで死ぬのだらうか?

 私にはとてもそんな事は考へられませんでした。

 私はどうかして此の難関を切りぬけなければならない、とおもひました。

 医者や看護婦の、事務的な無関心から起る手落ちに基く危険が若しあれば、私の看護は、Oを其の危機にさらさぬ為めにされなければならない、そして其の危険は、可なり有り得ると、私は考へたのでした。

 そして、その時に私に最も不安だったのは、病気に対する知識がまるでない事でした。

 それはたゞ医者によるより仕方がなかつたのでした。

 けれど、私は病院の医者からはOの病気については、何んにも聞くことができませんでした。

 たゞ重態だといふことのみしか話して貰へなかつたのです。


(「大杉栄の死を救う」/『野依雑誌』1921年6月号・第1巻第2号/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』_p281)





 野枝は知りたかった。

 どの程度に重体なのか、どいう場合に危険が来るのか、どういう点に注意して看護しなければならないのか。

 野枝は奥山を頼るしかなかった。

 奥山は本当にすべての指図をしてくれた。

 奥山は二月のまだ寒い時期に、かつ奥山自身が万全の健康体でもないのに、三田にある奥山病院から築地まで毎晩来てくれた。

 毎晩、奥山に大杉の容態を話してもらわないうちは、野枝は不安でたまらなかった。

 野枝は聖路加病院の「医者や看護婦の、事務的な無関心から起る手落ちに基く危険」に言及しているが、大杉が社会主義者だから「ぞんざい」に扱われる可能性があると言いたいようにも読み取れる。


聖路加病院



★『定本 伊藤野枝全集 第三巻』(學藝書林・2000年9月30日)



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posted by kazuhikotsurushi2 at 17:22| 本文
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1955年生まれ。早稲田大学法学部卒業。『週刊SPA!』などの編集をへてフリーランスに。著書は『「週刊SPA!」黄金伝説 1988〜1995 おたくの時代を作った男』(朝日新聞出版)『秩父事件再発見』(新日本出版社)など。
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