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2016年08月23日

第331回 聖路加病院(一)






文●ツルシカズヒコ




 一九二一(大正十)年二月十三日の正午、野枝は福岡から上京した叔父・代準介の乗った列車を横浜駅で迎え、すぐに「病室」に戻った。

 村木には魔子を連れて鎌倉に帰ってもらった。

 大杉の熱は少しも下がらなかった。

 大杉は体が非常にだるいと訴えたが、元気はいつもどおりで、平常どおりに話し、妊娠中の野枝の体の心配までしてくれた。

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 二月十四日、大杉の入院が決定した。

『労働運動』の仕事、生活費、入院費……二ヶ月やそこら入院することを想定し、その間に滞りのないように、大杉はたいぶ頭を働かせた。

 大杉と野枝は入院についてもかなり迷った。

 ふたりは奥山を信頼し、看護婦を雇って、このままの状態がいいとも思った。

 ふたりは不備な病室に入れられ、奥山の治療も受けられなくなることを危惧した。

 しかし、一間だけの狭い部屋では、なにもかもが不便だらけだった。

 できるだけ設備のいい病院を探すことに決めた後も、野枝は奥山の手を離れることに大きな不安を覚えた。

 大杉は日ごろ、奥山のおかげで自分は生命を保って来た、彼がいればどんな病気にとりつかれても大丈夫だと言い、奥山に絶対の信頼を置いていた。

 うまく望みどおりの病院に入れるかも問題だった。

 ふたりは有楽町から近い、なるべく設備のいい病院を望んでいた。





 二月十五日、大杉は聖路加病院に入院した。

 心配したわりには容易に聖路加病院に入院できたので、ふたりはひと安心した。

 京橋区築地にある聖路加病院はふたりの第一希望だった。

 本院に空き室はなく、まだ新しくて設備が本院のようには完備していない分院への入院だったが、野枝は病室が新しく広い純西洋室だと聞いて安心した。

 西洋室みたいなところに畳を敷いた病室や、狭い窮屈な部屋、廊下をバタバタ駆けられたり……とりあえず、野枝はそんな不愉快をせずにすむと思った。

 聖路加病院の分院は、あるドイツ人の住居を改築したものだった。


 ……実際に落ちついてみると、気持ちがようございました。

 Oも、室に運びこまれて、寝台の上に横になると直ぐに室を見まはして、いい室だなどゝ云つてゐました。

 それにまだ新しいので、私達のゐた室も、私達が最初のはいり手なのでした。

 大きなストオブや、東南に向いた大きな高い張り出しの窓やが、それから室の広さやが、少しも、幾つも小さなおなじ室のならんだ、他の病院の建物にあるやうな事務的な不親切な感を起させないのでした。

 それから病院付の看護婦たちも、他の上草履を引きずつて歩く種類の人たちとは大分ちがつて確(し)つかりした人達でした。


(「大杉栄の死を救う」/『野依雑誌』1921年6月号・第1巻第2号/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』_p280~281)





 二月十六日、有楽町の「病室」の後かたづけをして来た野枝が、聖路加病院に戻ると、大杉はすっかり安心しきったような表情で眠っていた。

 折よく九州から叔母の坂口モトが来たので(「大杉栄の死を救う」解題)、野枝は鎌倉の家の留守をモトに頼み、村木にもしばらく休んでもらうことにした。

 出産間近になったので、野枝がモトに家事の助っ人を依頼し、代準介がモトを連れて来たと推測される。

 野枝が看護婦とふたりで大杉の完全看護体制に入ったのは二月十八日だったが、二月十九日の朝から大杉の容態が悪化し始めた。

 熱に苦しみ始めて一週間目だった。

 食欲がない大杉は、終始鬱々としていた。

 まだ病名ははっきりしていなかったが、チブスの兆候が徐々に出始めていた。

 そうだとしたらーー奥山から聞いていたチブスに関する話がいちいち、野枝を不安にした。

 奥山によれば、今日の医術ではチブスに対する積極的な治療方法はないという。

 経過を看視すること、余病を防止すること、食餌の注意しかないという。

 しかも、大杉は肺結核という大病も患っていて、奥山は大杉の肋骨にも異常を認めていた。





 では、これで死ぬのだらうか?

 私にはとてもそんな事は考へられませんでした。

 私はどうかして此の難関を切りぬけなければならない、とおもひました。

 医者や看護婦の、事務的な無関心から起る手落ちに基く危険が若しあれば、私の看護は、Oを其の危機にさらさぬ為めにされなければならない、そして其の危険は、可なり有り得ると、私は考へたのでした。

 そして、その時に私に最も不安だったのは、病気に対する知識がまるでない事でした。

 それはたゞ医者によるより仕方がなかつたのでした。

 けれど、私は病院の医者からはOの病気については、何んにも聞くことができませんでした。

 たゞ重態だといふことのみしか話して貰へなかつたのです。


(「大杉栄の死を救う」/『野依雑誌』1921年6月号・第1巻第2号/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』_p281)





 野枝は知りたかった。

 どの程度に重体なのか、どいう場合に危険が来るのか、どういう点に注意して看護しなければならないのか。

 野枝は奥山を頼るしかなかった。

 奥山は本当にすべての指図をしてくれた。

 奥山は二月のまだ寒い時期に、かつ奥山自身が万全の健康体でもないのに、三田にある奥山病院から築地まで毎晩来てくれた。

 毎晩、奥山に大杉の容態を話してもらわないうちは、野枝は不安でたまらなかった。

 野枝は聖路加病院の「医者や看護婦の、事務的な無関心から起る手落ちに基く危険」に言及しているが、大杉が社会主義者だから「ぞんざい」に扱われる可能性があると言いたいようにも読み取れる。


聖路加病院



★『定本 伊藤野枝全集 第三巻』(學藝書林・2000年9月30日)



●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 17:22| 本文
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1955年生まれ。早稲田大学法学部卒業。『週刊SPA!』などの編集をへてフリーランスに。著書は『「週刊SPA!」黄金伝説 1988〜1995 おたくの時代を作った男』(朝日新聞出版)『秩父事件再発見』(新日本出版社)など。
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