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2016年09月12日
第347回 バートランド・ラッセル(一)
文●ツルシカズヒコ
バートランド・ラッセルが、営口丸で神戸に到着したのは一九二一(大正十)年七月十七日だった。
ラッセルは前年十月に二番目の妻となるドーラ・ブラックとともに中国を訪問、この年の七月まで北京大学客員教授を務めていたが、イギリスへの帰途、改造社の招待に応じて来日したのだった。
七月二十六日、午前十一時から帝国ホテルでラッセルと日本の思想家、学者、ジャーナリストらとの懇親会が催された。
『東京朝日新聞』が報じている。
定刻前から青い壁紙(へきし)と竹や蘭に飾られた涼し気な広間に明るい露台(バルコニー)を背にし乍(なが)ら麻の背広を着込んだラッセル氏は
白絹の下着に支那模様の黒チョッキを羽織つたブラック嬢と深い弾椅子に坐つて話しつゝ客を待つてゐると、
……ドヤドヤと大杉栄、堺利彦、昇曙夢諸氏がやつて来た
大杉氏に紹介されたラッセル氏は満面に愉快そうな笑みを湛へて強い/\握手をした
「君はゴルドマンやベルグマンを知つてゐますか」とのラッセル氏の問ひに大杉氏は独特の可愛いゝ羞(はにか)みをしながら「えゝ、人としては知らぬが彼の獄中記なぞを読んで知つてゐます」
「私はロシアで逢つて来ました」
「彼等米国の無政府主義者は過激派だからどんな待遇を受けてゐますか」
「個人としては仲々優遇をされてゐるやうですね、しかしゴルドマンは主義としてはボルシエビズムに慊(あきた)らず過激派でも彼等の説に不満を持つてゐるやうです」など追々雑談が深味を加へて行く頃
広間にあちこちに散らばった小綺麗な椅子には…阿部次郎、和辻哲郎……鈴木文治、杉村楚人冠……与謝野晶子…の諸氏が見えた
やがてラッセル氏は大杉氏に「どんな無政府主義者もこの爆裂弾軍にはかなはない」と大笑ひして来朝以来貴族的だと避難されて居るやうな容子は少しも見えず、思想家との会談で心も和らいだのであらう……
(『東京朝日新聞』1921年7月27日)
ラッセルが「爆裂弾軍」と言っているのは、写真撮影のために光るフラッシュのこと、あるいはフラッシュをたくカメラマンたちのことである。
十二時半に昼食になり、食事の後にラッセルのスピーチがあり、二時に散会した。
『東京朝日新聞』二面にはラッセルと大杉のツーショット写真が掲載されている。
この写真について、江口渙はこう書いている。
それを見て暁民会の青年社会主義者川崎悦行が、うれしそうにつぎのようなことをいった。
「いままで日本人と西洋人と名士がならんで写真をとると、きまって日本人の方が貧弱に見えたのが、こんどの写真だけはラッセルより大杉さんの方が段ちがいに堂々としていますね。じつにうれしかったなあ」
川崎のこの言葉には私も心から賛成だった。
とくに写真でさえも彼の風采がそのようにまで堂々として見えるのは、たんに顔や体の形がすぐれていたからではない。
やはり大杉の全身におのずからに湧きあふれている革命家的気魂のたくましさ、人間的魅力の底しれぬ豊かさとおおらかさ、それが写真の上でさえ自然と人を打つのである。
(江口渙『続・わが文学半生記』_p43)
ラッセルと面談した大杉の談話が『改造』九月号に掲載された。
大杉が向かい合ってラッセルと話したのは、五分間ぐらいだった。
大杉は帝国ホテルの建物の中に入るのは初めてだったので、ちょっと面喰らいながら、こわごわ玄関から入って行った。
改造社の関係者が大杉をラッセルのいる部屋に案内した。
大杉はそこで初めて実物のラッセルの顔を見た。
ラッセルは誰か人を紹介されていた。
写真で見たあの通りの顔ですね。
頬と云ふよりは寧ろ、口の両角のすぐ上あたりが、神経質らしく妙に痩せこけてゐるのが、病後のせいか猶目立て見えましたがね。
あれは、あの人の顔の中で一番いやなところですね。
(「苦笑のラッセル」/『改造』1921年9月号/日本図書センター『大杉栄全集 第14巻』_p121)
『ラッセル自叙伝』2巻によれば、ラッセルは中国滞在中に肺炎になり三月下旬に危篤状態に陥った。
大杉が「病後」と言っているのは、そのことである。
ドーラがラッセルの看病に忙殺されていたころ、日本の新聞記者が病院に押しかけ、彼女を困らせたあげく、ラッセル死亡という誤報記事が日本の新聞に載った。
この誤報がアメリカへ流れ、そしてアメリカからイギリスに流れた。
ラッセルは日本の各新聞に誤報訂正記事を掲載することを要求したが、日本の新聞社はこれを拒絶した。
ゆえにラッセルとドーラは、来日当初から日本の新聞記者には好感を持っていなかった。
ラッセルとドーラをさらに怒らせたのは、新聞社のカメラマンが一斉にたくフラッシュライトだった。
フラッシュライトが「爆発」するたびに、妊娠中のドーラはおびえた。
流産するのではないかという、ラッセルの心配がふくらんでいった。
ラッセルとドーラは滞日中、終始不機嫌だった。
大杉がラッセルに紹介される番になった。
「ミスター大杉、え、ジャパニイス、バクーニン……」なんて紹介をされたので、大杉はまた面喰らった。
ラッセルと大杉が向かい合って椅子に座ると、十幾人かの写真屋が代わる代わるポンポンとフラッシュをたいた。
ラッセルは例の口の両角の上に濃いくまを見せて、「堪りませんな」というような意味のことを、そのポンポンのたびに目をつぶっては言った。
そして「いくらわれわれがアナーキストだって、こんなに爆裂弾のお見舞いを受けちゃね……」などとふざけながら苦笑いしていた。
「苦笑のラッセル」によれば、大杉はラッセルとの会話の内容や印象について、こう語っている。
「エマ・ゴオルドマンを知つていますか。」
「えゝ、其の著書で。」
「ベルクマンは?」
「え、やはり其の著書で、と云つても『一無政府主義者の獄中生活』しかないやうですがね。」
「さうです。しかし大変面白い本ですね。」
「二人は今ロシアでどうしてゐます?」
「二人とも昨年モスクワで会いましたがね、別にする事がないんで、革命博物館の為めの何かのコレクションをしてゐましたよ。ボルシェヰ゛キ政府からの待遇に就いては、十分満足しているやうでしたが、政府のいろんな施設に対しては勿論大いに議論があるやうでした。」
要するにたゞこれだけの事ですね。
印象と云ふ程のあらう筈がないぢやありませんか。
あの人の社会改造論に就いてゞすか。
さうですね、一言で云へば、一種のアナアキスト・コンミュニストでせうな。
が、あまりにどうもインテレクテュアル過ぎるやうですね。
(「苦笑のラッセル」/『改造』1921年9月号/日本図書センター『大杉栄全集 第14巻』_p122)
★江口渙『続・わが文学半生記』(春陽堂書店/1958年3月1日)
★『大杉栄全集 第14巻』(日本図書センター/1995年1月25日)
★『ラッセル自叙伝』2巻(日高一輝訳/理想社/1971年8月1日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
第346回 赤瀾会講習会
文●ツルシカズヒコ
一九二一(大正十)年七月十八日から五日間、麹町区元園町の旧社会主義同盟本部で、赤瀾会夏期講習会が開催された。
岩佐作太郎、堺利彦、守田有秋、山川菊栄らの講師陣に交じり、野枝と大杉も講演した。
野枝は七月十九日、第二夜の講師を務めた。
大杉豊『日録・大杉栄伝』によれば、演題は「職業婦人について」。
「女房としては実にけしからぬ」と云はれても、立派な女房である野枝氏が矯羞を含んだ調子で、産業革命後に於ける女性の地位と、婦人運動の現状に及び、透徹した頭で新婦人協会や、母権論者の一派は有つても無くてもよい小ブルジヨアの空望だと論駁したが青鞜時代の想痕がどこかに見られた。
何かの都合で中途でよしたのは残念であつた。
(雑誌『社会主義』1921年9月号)
大杉は七月二十一日、第四夜の講師を務めたが、大杉が講師だというので臨監(りんかん)があり、制服の警官が出入るする人の住所や氏名や職業をチェックするという警戒態勢だった。
大杉豊『日録・大杉栄伝』によれば、演題は「社会主義運動に参加したる婦人に対する不平」で、運動に関わる女性に対する注文のようなものだった。
大杉氏は一語々々噛み出すやうな例の調子で、曾つて此の運動に入つて来た女は、その中の誰かを目的にしてゐる傾きがあつた。
恋が得られゝば妻君業に甘んじ、得られなければそれつきり姿を隠して了ふ。
恋するのは不思議もないことだが、それを得た得ないでこの運動をやるやらぬを決定されるやうでは困る。
其の人は飽くまで其の人であつて欲しいと「苦い」註文。
余りアツケないといふので再び立つて「同志としても、友人としてもよい人が女房になると、どうも自分で運動しないのみか夫の運動の妨げをする。これは単に自分の場合のみではないと思ふが、これは何とかなるまいか、一つ堺君に答へて貰ひ度い」と野枝氏を前に氏一流の「正々堂々」たる提案。
堺氏は唯物史観の城塞から「個人だけがそうよくなるものではないが社会組織の進化と共に段々よくなる」事実を応答したが、「それでは愈々妻君業になつて行くと云ふのだらう」で物別れとなつた。
(雑誌『社会主義』1921年9月号)
七月下旬ころ、大杉は上海から帰国した近藤栄蔵から見舞金を受け取った。
コミンテルンの上海での会合に出席した栄蔵が帰国したのは、五月十三日だった。
『近藤栄蔵自伝』によれば、船で下関に上陸した栄蔵は上り列車に乗り遅れ、料理屋で酒を飲んでいるうちに夕方の列車にも乗り遅れた。
私服刑事が改札口で二等急行寝台券を破り捨てた栄蔵を怪しみ、その晩、芸者と寝ていたところを検挙された。
このとき栄蔵はコミンテルンから支給された六千五百円の大金を所持していた。
使途内訳は運動資金として五千円、栄蔵個人に千円、大杉の見舞金として五百円だった。
ちなみに栄蔵がコミンテルンから支給された金は六千二百円で、大杉の見舞い金は二百円だったという説もあり、大杉豊『日録・大杉栄伝』はこの説を支持している。
ともかく、大金を所持していた栄蔵は背後の犯罪を疑われ、下関署に二十九日間留置され、山口監獄に入獄、さらに市ヶ谷監獄に送られたが、当時の法律では処罰できず、七月二十五日に釈放された。
「日本脱出記」によれば、このとき大杉は栄蔵とは直接会っておらず、山川と会い見舞い金二百円を受け取ったとある。
『近藤栄蔵自伝』では、栄蔵は大杉に直接会い五百円を手渡したとあるので、「日本脱出記」と『近藤栄蔵自伝』では齟齬がある。
★大杉豊『日録・大杉栄伝』(社会評論社・2009年9月16日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index