2016年09月12日
第346回 赤瀾会講習会
文●ツルシカズヒコ
一九二一(大正十)年七月十八日から五日間、麹町区元園町の旧社会主義同盟本部で、赤瀾会夏期講習会が開催された。
岩佐作太郎、堺利彦、守田有秋、山川菊栄らの講師陣に交じり、野枝と大杉も講演した。
野枝は七月十九日、第二夜の講師を務めた。
大杉豊『日録・大杉栄伝』によれば、演題は「職業婦人について」。
「女房としては実にけしからぬ」と云はれても、立派な女房である野枝氏が矯羞を含んだ調子で、産業革命後に於ける女性の地位と、婦人運動の現状に及び、透徹した頭で新婦人協会や、母権論者の一派は有つても無くてもよい小ブルジヨアの空望だと論駁したが青鞜時代の想痕がどこかに見られた。
何かの都合で中途でよしたのは残念であつた。
(雑誌『社会主義』1921年9月号)
大杉は七月二十一日、第四夜の講師を務めたが、大杉が講師だというので臨監(りんかん)があり、制服の警官が出入るする人の住所や氏名や職業をチェックするという警戒態勢だった。
大杉豊『日録・大杉栄伝』によれば、演題は「社会主義運動に参加したる婦人に対する不平」で、運動に関わる女性に対する注文のようなものだった。
大杉氏は一語々々噛み出すやうな例の調子で、曾つて此の運動に入つて来た女は、その中の誰かを目的にしてゐる傾きがあつた。
恋が得られゝば妻君業に甘んじ、得られなければそれつきり姿を隠して了ふ。
恋するのは不思議もないことだが、それを得た得ないでこの運動をやるやらぬを決定されるやうでは困る。
其の人は飽くまで其の人であつて欲しいと「苦い」註文。
余りアツケないといふので再び立つて「同志としても、友人としてもよい人が女房になると、どうも自分で運動しないのみか夫の運動の妨げをする。これは単に自分の場合のみではないと思ふが、これは何とかなるまいか、一つ堺君に答へて貰ひ度い」と野枝氏を前に氏一流の「正々堂々」たる提案。
堺氏は唯物史観の城塞から「個人だけがそうよくなるものではないが社会組織の進化と共に段々よくなる」事実を応答したが、「それでは愈々妻君業になつて行くと云ふのだらう」で物別れとなつた。
(雑誌『社会主義』1921年9月号)
七月下旬ころ、大杉は上海から帰国した近藤栄蔵から見舞金を受け取った。
コミンテルンの上海での会合に出席した栄蔵が帰国したのは、五月十三日だった。
『近藤栄蔵自伝』によれば、船で下関に上陸した栄蔵は上り列車に乗り遅れ、料理屋で酒を飲んでいるうちに夕方の列車にも乗り遅れた。
私服刑事が改札口で二等急行寝台券を破り捨てた栄蔵を怪しみ、その晩、芸者と寝ていたところを検挙された。
このとき栄蔵はコミンテルンから支給された六千五百円の大金を所持していた。
使途内訳は運動資金として五千円、栄蔵個人に千円、大杉の見舞金として五百円だった。
ちなみに栄蔵がコミンテルンから支給された金は六千二百円で、大杉の見舞い金は二百円だったという説もあり、大杉豊『日録・大杉栄伝』はこの説を支持している。
ともかく、大金を所持していた栄蔵は背後の犯罪を疑われ、下関署に二十九日間留置され、山口監獄に入獄、さらに市ヶ谷監獄に送られたが、当時の法律では処罰できず、七月二十五日に釈放された。
「日本脱出記」によれば、このとき大杉は栄蔵とは直接会っておらず、山川と会い見舞い金二百円を受け取ったとある。
『近藤栄蔵自伝』では、栄蔵は大杉に直接会い五百円を手渡したとあるので、「日本脱出記」と『近藤栄蔵自伝』では齟齬がある。
★大杉豊『日録・大杉栄伝』(社会評論社・2009年9月16日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
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