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2016年09月16日

第352回 新興芸術






文●ツルシカズヒコ




 原敬の暗殺を報じる号外を読み終えた佐藤春夫と大杉は、佐藤の部屋に入り対座した。

 佐藤が大杉が執筆している自叙伝について聞いた。

「どうだ、書けた?」

「いや、何もしやしない」

「自分のことを書くのは難しいだろうね。どんな点が難しい?」

 大杉はこう答えた。


「何でもない事だがね、なるべく嘘を少くしようと思ふからね。ところで書くだけの事が本当でも、書くべき事を書かないでしまつたのではやはり嘘になる。折角書いた本当までそのためにみんな嘘になる。ところが、事実といふものは何事でもこんがらがつてゐるから、それを一つ一つ辿つてゐると、どこからどこまでを書く可きかその判断と選択とが厄介なのだ」

(「吾が回想する大杉栄」/『中央公論』1923年11月号/『佐藤春夫全集 第十一巻』_p319)

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「なるほど……」

 佐藤は半ば賛成して続けた。

「だが結局は、そう神経質にならず、思うことを平気に書きなぐるしかあるまいね。それで他人を傷つけたら、書いた当人が浅ましさを暴露するのだから、何にしても人間、自分以上のことはできっこはないのだから」

 そんな話題になり、「セント・オウガスチンジャンジャック・ルッソーも結局本当の告白はしなかった」というアナトオル・フランスの言葉やら、問わず語りということもあるなどの話になった。

 なにかのはずみで、大杉が近ごろ小説というものがつまらなく退屈なものになったと言い出した。

 そのかわり、自然科学の書物などを読むと、以前、小説の好きなころに小説を読んで覚えたのとまったく同じ種類、いやそれ以上の面白さを感じると、大杉は言った。





「うむ。就中、僕の小説などは君にとつて最も退屈だらうな。第一読んでくれた事があるかい?」

「読んだことはあるよ。君のなどはさう退屈ぢやない方だ」

 私は冗談のつもりで言つたのに、大杉は案外真面目な返答だつたので私は少しテレてしまつた。

「それぢや一たいどんな小説が最も退屈なのだい」

「それがね。本当の話、所謂左傾した作家という連中のが一番退屈だよ。第一、まああの仲間はどうしてああまづいのだらうなーー(ここで、三四の作家の名を挙げて)まるでまづいのばかりが左傾したやうなものぢやないか。ハ、ハ、ハ」

 大杉が数へた作家といふのは、新しい名ではなかつた。

 既成作家的の左傾したものであつた。

 所謂新興芸術なるものに彼は一顧をも拂つてゐなかつたやうである。


(「吾が回想する大杉栄」/『中央公論』1923年11月号/『佐藤春夫全集 第十一巻』_p320)





 翌日、十一月六日の晩にも、大杉は佐藤の部屋に遊びに来た。

 ふたりは二時間ばかり、雑談に耽った。

 佐藤はふと思い出して、世上で取り沙汰している堺利彦の婿選びのことを、大杉に聞いてみた。

 堺が娘の真柄が年ごろになって、その婿の適任者に煩悩しているという噂が流れていたのである。

 このとき真柄は十八歳である。

 危険人物視される同志で、いわんや素寒貧書生では困る、だからと言って堺が侮辱しているブルジョアの手合いを婿にするわけにはいかない、手ごろな学士かなにかで学者ふうな同志はいないものかと、堺が目をつけているーーという井戸端会議的な噂があったが、それが根も葉もないものかどうか、佐藤は大杉に聞いてみた。

「さあ、僕もよくは知らないが。そんなこともないとは限らないね。だが、若い奴は気が利いているよ。娘の方でどんどん自覚して、今になんでも好きなことをするだろうよ」

 そういうと、大杉は例のように笑った。

 まったくからりとした、なんの底意味もないいい笑顔だった。

 社会主義思想家が過激な実行運動をするとき、妻子を思い志が鈍ることはないかと、佐藤は質問してみた。

 大杉はこんな旨のことを語った。





 妻のことはともかく、子供のことはずいぶん心を悩ます。

 早い話が、収監されたときにでも、夕方などに自分の家庭のことを思って、今ごろ何をしているだろうと考えて、ふと子供の様子などがありありと目に浮かんでくると、もういけない。

 涙が出て女々しい自分をたしなめてみても、涙が止まらない。

 そこへいくと、妻の方はなんでもない。

 が、それでも収監中、家に残してきた女が出入りの青年などとふざけているような夢を見る。

 そして次の日には一日考えこまされる。

 大杉はさらに続けた。


「もう女の方は卒業したが、子供だよ心配なのは。子供といふものは全く可愛いい。だから、さつきの堺の話だつても……子供が一人前の娘になるころには、おやぢだつて年も取るだらうし、気が弱くなつて、娘の婿などで若い奴らに笑はれないとも限らないね」

 そこで大杉はまた例のやうに笑つた。

 何しろよく笑ふ男であつた。

 全くからりとした何の底意味もないいい笑であつた。


(「吾が回想する大杉栄」/『中央公論』1923年11月号/『佐藤春夫全集 第十一巻』_p321)



★『佐藤春夫全集 第十一巻』(講談社・1969年5月30日)



●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 22:12| 本文
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1955年生まれ。早稲田大学法学部卒業。『週刊SPA!』などの編集をへてフリーランスに。著書は『「週刊SPA!」黄金伝説 1988〜1995 おたくの時代を作った男』(朝日新聞出版)『秩父事件再発見』(新日本出版社)など。
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