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2016年09月09日

第345回 新発田






文●ツルシカズヒコ




 大杉が野枝と魔子を伴い新潟県の新発田を訪れたのは、一九二一(大正十)年七月十三日だった。

『改造』十月号から大杉の「自叙伝」連載が始まるのだが、その取材のためだった。

「雲がくれの記」(『東京毎日新聞』一九二一年八月十四、十五、十七、十八日/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』/日本図書センター『大杉栄全集 第14巻』)によれば、「うまく東京で、僕の尾行二人と女房の尾行一人、都合三人の尾行を一ぺんにまいて了つた」。

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 大杉栄は一八八五(明治十八)年一月十七日に香川県丸亀町で生まれた。

 父・東(あずま)が丸亀十二連隊少尉だったのである。

 母・豊(とよ)は丸亀十二連隊大隊長、山田保永の妻・栄(えい)の妹である。

 大杉が生まれた年の六月、父・東が近衛第三連隊に転属になり、大杉一家は東京市麹町区番町に移り住んだ。

 一八八九(明治十八)年五月、父・東(あずま)が新潟県の新発田十六連隊に転任し、大杉一家は新発田に移り住んだ。

 大杉は四歳から十四歳まで新発田で暮らした。

 それは新発田本村尋常小学校、新発田高等小学校を経て北蒲原尋常中学校(現・新発田高校)を中退し、名古屋陸軍地方幼年学校に入学するまでの十年間だった。





 大杉が新発田を訪れるのは、一九〇二(明治三十五)年六月、母・豊の急逝で東京から帰省して以来十九年ぶりだった。

『新潟新聞』が大杉一家の新発田来訪を報じている。

「警察も知らぬ間に来越した大杉栄 流星の如き其去来 伊藤野枝をも同伴して」という見出しである。


 社会主義者として誰知らぬ者なき大杉栄が去る十三日、例の伊藤野枝子及び当年五歳の長女某の三人連れで飄然と新発田町に現はれ新聞記者林俊三、妻キミ、長女マサと偽名して長谷川旅館に投宿……

(『新潟新聞』1921年7月24日/荻野正博『自由な空 大杉栄と明治の新発田』)





 大杉は名古屋陸軍地方幼年学校を素行不良で退校になったのだが、謹慎処分を受け自分は軍人に不向きではないかと悩んでいたころ、新発田で暮らしていた時分を思い出し、こう書いている。


 僕は始めて新発田の自由な空を思つた。

 まだほんの子供の時、学校の先生からも遁れ、父や母の目からも遁れて、終日練兵場で遊び暮した事を思つた。
 
 僕は自由を欲しだしたのだ。


(「自叙伝 四」/『改造』1921年12月号/『自叙伝』・改造社・1923年11月24日/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第三巻』には「幼年学校時代」と改題所収/日本図書センター『大杉栄全集 第12巻』)


『新潟新聞』によれば、七月十四日、大杉は島津ヨシと会った。

 ヨシは母・豊の髪結いをしていた女性で、新発田の大杉家にしょっちゅう出入りしていた。

 この日、大杉一家はヨシを伴い、新発田駅発午後二時三十分の列車で村上に向かい、瀬波温泉の三島屋旅館に宿泊した。

 大杉がヨシに会ったのは取材が目的だが、特に大杉が幼いころの記憶を補うためだった。

 七月十五日、新発田に戻って取材を続け、長谷川旅館に再泊した。

 七月十六日、新発田駅午前八時発の磐越線、福島県の平行きの列車に乗り、帰路についた。

 十七日は常陸の海岸の宿で一泊、十八日に鎌倉の家に帰宅した。





 信越線新発田駅が開業したのは一九一二(大正元)年九月だった。

 十九年ぶりに新発田の地を踏んだ大杉は、鉄道が通じたことにより、新発田が大きく変わっているだろうという期待を持っていたが、「まるで二十年前其儘なのに驚かされた」という。


 停車場の附近が変つてゐることは論はない。

 そして僕はそこを出るとすぐ、また新しい華奢な監獄のやうな製糸場が聳えてゐるのを見て、ここにもやはり産業革命の波が押しよせたなとすぐ感じた。

 しかしそれは嘘だつた。

 其後町のどこを歩いて見ても、その製糸場以外には、工場らしい工場一つ見つけ出す事は出来なかった。

 新発田の町はやはり依然たる兵隊町だった。

 兵隊のお蔭でようやく食つてゐる町だった。

 製糸場は大倉喜八郎個人のもので、大倉製糸場の看板をさげてゐた。

 そしてこれは喜八郎の営利心を満足させるよりも、寧ろ其の虚栄心のためのものであるやうだ。

 喜八郎は新発田に生れた。

 ……あの通りの大富豪になり、殊には男爵になるに及んで、其の郷里に此の製糸場と、其のすぐそばの諏訪神社の境内に自分の銅像を立てたのであつた。

 けれども、ここにもやはり、道徳的にはもう資本主義が漲つて来てゐた。

 喜八郎が自分の銅像を自分で建てる事は喜八郎一人の勝手だ。

 しかし此の喜八郎の肖像が、麗々しく小学校の講堂にまで飾つてあるのだ。


(「自叙伝 四」/『改造』1921年12月号/『自叙伝』・改造社・1923年11月24日/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第三巻』には「幼年学校時代」と改題所収/日本図書センター『大杉栄全集 第12巻』)





 大杉が新発田に来て最初に訪ねたのは、長谷川旅館のすぐそばにある万松堂という本屋だった。

 十歳から十四歳のころ、大杉はこの書店のお得意さんのひとりだった。

 主人の近(こん)保禄は大杉のことを覚えていた。

 大杉は近から昔の友人の行方を聞いたが、近は新発田の中学校を出た者のことをよく知っていた。

 万松堂書店は現在も健在である。

 荻野正博『自由な空 大杉栄と明治の新発田』によれば、この本が出版された一九八八(昭和六十三)年当時の万松堂書店の主人は近進三氏、近保禄のお孫さんである。

 高等小学校のころ、大杉は自宅に仲間を集めて、輪講だの演説だの作文だのの会を開いていたが、その仲間だった杉浦に会ってみた。

『自由な空 大杉栄と明治の新発田』によれば、杉浦とは杉浦慎一郎で大杉より一学年上だったが、新発田中学には大杉と同期入学である。

「自叙伝 二」(『改造』一九二一年十月号/『自叙伝』・改造社/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第三巻』には「少年時代」」と改題所収/日本図書センター『大杉栄全集 第12巻』』)によれば、地主である杉浦が大杉に、こう言ったという。

「ほかではどうか知らないが、少なくとも此の越後では農民運動は決して起りませんよ。地主と小作人とが全く主従関係で、と云ふよりも寧ろ親子の関係で、地主は十分小作人の面倒を見てゐますからね」





『自由な空 大杉栄と明治の新発田』によれば、大杉家は新発田にいた十四年間に十二回も引っ越したという。


 父の家は十幾軒か引越して歩いた。

 そして其の中で三四軒火事で焼けたほかには、殆ど皆な昔の儘で残つてゐた。

 僕は其の家の前を、殆どその引越し順に、一々廻つて見た。


(「自叙伝 一」)


 大杉が言及している「火事」とは、一八九五(明治二十八)年六月二日の夜に発生した新発田大火、通称「与茂七火事」のことで、類焼家屋二千四百余りの被害をもたらした。

 大杉の父・東は日清戦争に出征中だったので、大杉一家は母・豊の指示で練兵場の大銀杏の木の下に避難した。


★『大杉栄全集 第四巻』(大杉栄全集刊行会・1926年9月8日)

★『大杉栄全集 第14巻』(日本図書センター・1995年1月25日)

★荻野正博『自由な空 大杉栄と明治の新発田』(新潟日報事業社出版部・1988年)

★『大杉栄全集 第三巻』(大杉栄全集刊行会・1925年7月15日)

★『大杉栄全集 第12巻』(日本図書センター・1995年1月25日)



●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 12:20| 本文

2016年09月08日

第344回 百円札






文●ツルシカズヒコ




 野枝は『労働運動』二次十二号(一九二一年六月四日)の外国時事欄に「英国炭坑罷業形勢一転す」を書いた。

 一九二一(大正十)年六月十一日、神田区美土代(みとしろ)町の東京基督教青年会館で、赤瀾会主催の婦人問題講演会が開催された。

堺真柄嬢演壇に立ち 警官の眼物凄い 久津見秋田石川氏の演説に 目を瞑つてゐた官憲も」という見出しで、 『読売新聞』が報じている。

 講演会は午後一時から始まったが、聴衆は学生が主で婦人は七百名ほど、満場立錐の余地もないほどの盛況だった。

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 久津見房子嬢先づ開会の辞を述べ、藤森成吉氏の演説に次いで堺真柄嬢が『旗持(はたもち)の役』と題して旗持をして難関の先駆(せんく)をやると云つただけで拍手を浴びる、

 曽根貞代子は中止を喰つたので平林初之輔君が起(た)つ頃から聴衆が弥次戦をやり喧騒を極め始めた

 伊藤野枝子は『婦人問題の難関』で手際よく終り

 守田有秋の後に起(た)つた山川菊栄女史は『各国資本家はロシアに資金を送り革命を一層盛んに勃発させんとした』と迄話を進めた時中止を命ぜられ警官横暴の叫びと万歳の声の中に四時五十分無事閉会した


(『読売新聞』1921年6月12日)


「曽根貞代子」は「仲宗根貞代」の誤記だろうか。





 六月二十二日、中国基督教青年会館でコスモ倶楽部主催の留日学生を対象にした講演会が開催され、野枝も講演をした(大杉豊『日録・大杉栄伝』)。

 六月二十五日、第二次『労働運動』が十三号をもって終刊になった。

 大杉の代わりに上海に行った近藤栄蔵が帰途、下関で警官に捕まる失態を演じ、かつ堺と山川らは大杉に内密でコミンテルンと接触し始めたことが判明、加えて『労働運動』の発行・編集人である近藤憲二が入獄したからである。

 これによりアナ・ボルの共同戦線は崩壊した。

 近藤憲二『一無政府主義者の回想』によれば、近藤は第二回メーデーで槍のついた旗竿で巡査の目を突いたという、デタラメの言いがかりでまず市ヶ谷監獄に引っ張られ、傷害罪は不起訴になったが、そのかわりにチラシまきの出版法違反で起訴された。

 近藤は五月九日に保釈になったが、六月二十六日に保釈が取り消され、東京監獄に入獄した。

 禁固三ヶ月だった。





 大杉が週刊(第二次)『労働運動』を出していたころの思い出を、加藤一夫が書いている。

 当時、加藤一家は小田原在の網一色に住んでいた。

 大杉一家は鎌倉に住んでいたが、大杉と野枝が魔子と辻一(まこと)を連れて、加藤の家に遊びに来たことがあったという。

 加藤は一(まこと)のことを「まあちゃん」と書いている。

 仕事を離れた大杉は、まったく人の好いお父さんだったという。


 僕等は僕のあばら家の二階で、(しかしそれは素敵に見晴しのいゝ、気持のいゝ二階だつた)サイダアやビールを飲みながら話し合つた。

 大杉君はサイダア、僕と野枝さんと僕の妻はビール、そして子供達には花火をあてがつておいた。

 僕は東京の家を若い主義者達にあらされたこと、大杉君は労運の事務所をさうした人々に襲撃されて弁当代だけでも並大抵でない、それはまだよいとして、泊り込まれるのが一番閉口だと云つたやうなことを話し合つたことくらいが思ひ出される。


(加藤一夫「大杉も知らずに死んだこと」/『自由と祖国』1925年9月号)





 当時、大杉と野枝は景気がよかった。

 ふたりとも売れっ子の物書きだったのである。

 小田原駅から加藤の家まで自動車でやって来て、帰りも自動車で帰って行った。

 大杉が自動車賃を払うのに百円札を出したというようなことが、新聞に載り、湘南地方の人々にも大杉と野枝はなかなかの有名人だったようだ。

 加藤の尾行も「大杉君はずいぶん金まわりがいいんですね」と感心していたという。

 加藤にはいつか大杉に会ったら話して聞かせようと思っていたことがあったが、それを果たす前に大杉は虐殺されてしまった。


 それは、後から僕の専属になつた尾行の一人が、その時、自動車の運転手になりすまして、ナポレオン帽みた様な帽子を被つて運転台に乗り込んで、ひそかに大杉夫妻の談話を盗みぎゝして居たことだ。

 それは僕も知らなかつたのだ、後からその尾行からきいた話だ。

『あのとき運転台に背の高い男が居たでせう、あれが私でした』と彼は云つた。

 大杉君も恐らくそれには気がつかなかつたらう。


(加藤一夫「大杉も知らずに死んだこと」/『自由と祖国』1925年9月号)





 野枝は『中央法律新報』七月号の「婦人の法律観」アンケートに回答している。


 私は法律と云ふものにまるで信用をおきません。

 したがつてあなたの方のお尋ねに対してはお答えするものを持ちません。


(「婦人の法律観」/『中央法律新報』1921年7月1日・第1年第11号/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』_p295)


『改造』夏期臨時号(一九二一年七月十五日・第三巻第八号)は「社会講談」特集だったが、野枝は「火つけ彦七」を寄稿した。



★大杉豊『日録・大杉栄伝』(社会評論社・2009年9月16日)

★近藤憲二『一無政府主義者の回想』(平凡社・1965年6月30日)

★『定本 伊藤野枝全集 第三巻』(學藝書林・2000年9月30日)



●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 21:29| 本文

2016年09月05日

第343回 花札






文●ツルシカズヒコ



「男女品行問題号」である『女の世界』六月号は、アンケートへの回答も掲載した。

「良人が不品行をした場合、妻は如何なる態度を採るべきでせうか? その場合妻も亦良人と共に不品行をする事を許されるでせうか?」という質問を葉書で出し、その回答を求めたのである。

 四十七名が回答を寄せているが、野枝も回答している。

 野枝の肩書きは「社会主義者 大杉栄氏同棲者」である。

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 不品行といふのが、どんな事をさすのか知りませんが、一緒にゐる人間が自分の気に入らない不愉快な行為をし、それがどうしても我まんが出来なければ、早速別れることです。

 いろんな事情で別れる事が出来なければ、我まんする事です。

 その二つより他にしかたはないようですね。

 こんな問題の返事をハガキで取るなどは大間違ひです。


(「良人がもし不品行をしたなら……?」/『女の世界』1921年6月号・第7巻第6号/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』p_275)


 野枝は『女の世界』(実業之世界社)編集部の安易な「葉書アンケート」を叱責しているが、同誌の名編集者だった安成二郎は二年ほど前に実業之世界社を退社し、読売新聞社に転じていた。





♬わたしゃ水草 風吹くままに

♪流れ流れて 果て知らず

♩昼は旅して 夜は夜で踊り

♫末はいずくで 果てるやら


 これは北原白秋・作詞、中山晋平・作曲、『さすらいの唄』の四番の歌詞だが、矢野寛治『伊藤野枝と代準介』によれば、野枝はよくこの歌詞を口ずさんでいたという。

 一九一七(大正六)年、島村抱月の芸術座がトルストイ『生ける屍』を上演したが、『さすらいの唄』はヒロインを演じた松井須磨子が歌った劇中歌だった。

『さすらいの唄』はレコード化されヒットした。





 大杉一家が鎌倉に住んでいたころのある思い出を、近藤憲二が書き記している。

 大杉と野枝は夫婦仲がよかった。

 いつも、オシドリのように一緒だったが、たまには喧嘩もした。

 喧嘩になるきっかけは、たいてい根も葉もないつまらぬことだった。

 ある日のことだった。

 そのときは、みんなで花札を引いていた。


「あら、あなた、いま菊をうつ手はないでしょう」

「いいじゃないか」

「いいじゃあじゃ(ママ/筆者註/「いいじゃないかじゃ」の誤記であろう)ありません。あちらにができかかっているんですよ」

「知ってるよ」

「知っててうてる訳ないじゃありませんか」

「いいんだよ。それッ! あッ、しくじった! 僕にも野心があったんだがなア……」

「あなたはいつでも、そんな無茶ばかりする」

「無茶じゃないよ、計画がはずれただけさ。そこがおもしろいんだ」

「おもしろいもないもんだ。第一そんなルールってありゃしない」

「ルールもヘチマもあるもんか」

「あなたはエゴイストだ」

 なおも二こと三ことを言い争っていたが、

「じゃやめりゃいいだろう」といって、大杉が花札を片づけてしまった。

 まあこういった、つまらないきっかけからだ。


(近藤憲二『一無政府主義者の回想』_p122~123)





 喧嘩になると、ふたりとも口をきかなくなった。


 一日でも、ときには二日でも三日でも口をきかない。

 食事のときなど、二人ともほかの者とは普通に話すが、お互いは黙っている。

 大杉が野枝さんをからかい半分に、私たちにわざと面白おかしい話をする。

 野枝さんは笑いたくも、じっと我慢して、一層むずかしい顔をする。

 結局、二日目か三日目には大杉の方が負けて、先に口をきく。

 そういう点では野枝さんの方がねばった(おかしな話をして、ご免なさい)。


(近藤憲二『一無政府主義者の回想』_p123)


「おかしな話をして、ご免なさい」と近藤は書いているが、喧嘩をして口をきかなくなるなんて、まるで子供みたいで、なんとも微笑ましい逸話ではないか。

 おそらく花札の才は野枝の方が大杉より数段上だったのであろう。

 高い手を仕込んでいた野枝さんは、大杉の「場を読めない」下手さにカッとなったのであろう。


★『定本 伊藤野枝全集 第三巻』(學藝書林・2000年9月30日)

★矢野寛治『伊藤野枝と代準介』(弦書房・2012年10月30日)

★近藤憲二『一無政府主義者の回想』(平凡社・1965年6月30日)


●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 20:13| 本文

第342回 男女品行問題号






文●ツルシカズヒコ




 一九二一(大正十)年五月九日、神田区美土代(みとしろ)町の東京基督教青年会館で、日本社会主義同盟の第二回大会が開催された。

 五月十日『東京朝日新聞』によれば、官憲の厳重な警戒の中、午後五時半に開場、場内は三千の聴衆で埋まった。

 午後六時、司会の高津正道が二言三言口にすると、錦町署長から中止解散命令が発せられ、検束者は四十名を超えた。

 神田区北甲賀町の駿台倶楽部内の労働運動社は、官憲に厳重に警戒され、大杉、和田久太郎、中名生幸力(なかのみょう-こうりょく)らは、社会主義同盟第二回大会に駆けつけることができないでいた。

 大杉の「主義のために勇ましく繰り出せ」のひと声で強行突破を図ったが、すぐに警官に包囲され西神田署に検束された。

 鎌田慧『大杉榮 自由への疾走』(岩波現代文庫_p384)によれば、二年後に「虎ノ門事件」を起こす難波大助が、この日本社会主義同盟第二回大会を傍聴、警官たちの横暴に「憤慨の絶頂に達し」たという。

 五月十九日、大杉は宮嶋資夫宛てに手紙を書いているが、その中に「先日岩田富美夫と云ふ人が訪ねて来た。どう云ふ人か君知らないか。神近を知つてゐるやうな口ぶりであつた」という一文がある。

 『大杉栄 伊藤野枝選集 第十四巻 大杉栄書簡集』によれば、岩田は北一輝が創立した猶存(ゆうぞん)社同人、同社解散後には大化会を主宰したが、大杉の葬儀の際に遺骨を奪ったのは大化会の岩田の配下の者だった。

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『女の世界』六月号は「男女品行問題号」だったが、野枝は「貞操観念の変遷と経済的価値」(『定本 伊藤野枝全集 第三巻』)を寄稿した。

〈二〉以下はシャルル・ルトゥルノー『男女関係の進化』引用をもとに論が進められている。

 シャルル・ルトゥルノー『男女関係の進化』は、大杉が翻訳し一九一六年十一月に春陽堂から刊行されたが、日蔭茶屋事件の直後の出版だったので訳者は「社会学研究会」となっている(大杉豊『日録・大杉栄伝』)。

 以下、抜粋要約。


〈一〉

 ●なぜ貞操が婦人の根本道徳なのか? 誰にでもすぐ答えられそうでなかなか答えられないのです。

 ●婦人の貞操が神聖なものだと朝から晩まで教えている人たちでも、結婚の一大資格であり、結婚後は夫に対する重大義務であるとしか答えられないのです。

 ●たとえば、貞操というものそれ自体にはなんの神聖な意味はないという主張に対しても、彼らは明確な反対意見を述べることはできないのです。

 ●結婚は女にとって一生の生活の保証を得ることですが、貞操はその結婚という経済的契約に第一に問題にされます。

 ●かつて女は男の一財産でしたが、現在までに発達してきた財産私有制の経済も、やはり女という財産を管理するのに抜け目のない仕組みになっているのです。

 ●女が財産として取り扱われてきた歴史的な証拠はたくさんあり、現在もなおその習慣が残されていますが、それが現在でも顕著に残されている野蛮人の例を挙げて実証してみたいと思います。






〈二〉

 ●シャルル・ルトゥルノー『男女関係の進化』は、蒙昧(もうまい)人も文明人も一様に持っている男女関係のさまざまな風習を集め、興味深い事実をたくさん紹介しています。

 ●婦人が財産視された最も適切な例、原始社会の掠奪結婚から始めて服役結婚、売買結婚についても多くの事実を挙げています。

 ※野枝は『男女関係の進化』からその実例を引用している。


〈三〉

 ●これらのむき出しな事実に対して、現代の教養ある婦人たちはあり得ないことと考え、眉をひそめることでしょう。

 ●しかし、今日ですら、私たちの眼前で行なわれている結婚の中にどれほど多くの売買結婚があるでしょう。

 ●結納というのは何を意味するのでしょうか?

 ※野枝は『男女関係の進化』を引用し、一夫多妻は階級社会になると富者と権力者の特権になるーーなどの分析を紹介している。





〈四〉

 ●夫婦関係の様式は、蒙昧野蛮な一夫多妻から法律や宗教で認められた一夫多妻になり、さらに進んで一夫一婦制になりましたが、女の地位は低いままです。

 ●一夫一婦制になるまでには、蒙昧人の間のような家畜と同じような扱いではなくなり、少しは自由になりましたが、女が自活できずに結婚によって一生の生活の保証を得なければならない間は、結婚は経済的取り引きなのです。

 ●淫売は女の体が経済的物品であることの露骨な証拠です。

 ●教養ある上中流婦人たちは淫売婦を賎しみ憐れみますが、しかし、多くの夫ある婦人たちと淫売婦との差異は五十歩百歩なのではないでしょうか。

 ●誰が教養ある貴婦人になり、誰が淫売婦になるのでしょう? ただ不平等な境遇の差異のみではないでしょうか。





〈五〉

 ●人類の文明が進むにつれ、平等だった人間と人間の間に階級ができ、権力が生まれ、道徳ができ、法律ができ、宗教が生まれて、風俗や習慣に大きな変動が起きました。

 ●社会が規則立てられ、第一に規則立てられたのは財産に対する権利、所有権です。男の所有物である女も所有権の対象になりました。

 ●姦通は所有者の許可を得ずに女という物を使用する窃盗、すなわち泥棒ですが、姦通罪は盗まれた物である女にだけ科せられた、社会的な強者である男に都合の好いだけのまことにおかしな刑罰です。

 ●合理的な一夫一婦制が一般的になった社会では、露骨に女を財産視することはなくなりましたが、やはり妻に盗難の手がおよばないうような企てを男は怠らなかったのです。

 ●男は輿論と法律を味方にしました。

 ●女に守らせる道徳を作り、それに無上の権威を持たせたのが輿論です。そしてそれを宗教が味方します。

 ●こうした男が身勝手に構築した制度に何も不満を言わず屈従するのが、女の大事な道徳なのです。

 ●そして、これが貞操の正体なのです。

 ●男にとって大切な女に守らせなければならない道徳が貞操であり、女にとっては男の保護を得るためには、ぜひ守らなければならない道徳なのです。





〈六〉

 ●私は人間社会のあらゆる人為的な差別が撤廃され、人間の持つあらゆる奴隷根性が根こそぎにされなければならないという理想を持っています。

 ●婦人たちの心から、貞操という奴隷根性を引き抜かねばならぬと主張する者です。

 ●もう野蛮な時代ではなくなりました。進化は休みなく歩み続けています。

 ●私たち先祖の野蛮な習慣や風俗は、現在の法律や道徳に痕跡を残していますが、進歩した理知や感情は不合理を残すところなく駆逐しようと努力し、私たちの生活は一日一日向上しています。

 ●少数の勇敢な婦人たちは、女の隷属的地位から逃れようと努力しています。

 ●世界の文明国の婦人たちは、ほぼ男子と同等の地位にまで近づいて来ました。

 ●結婚も奴隷契約ではありませんし、娘たちの選択もだいぶ自由になってきました。

 ●貞操は必要ないと私が主張するのは、結婚は当人同士の自由合意のものだということを前提にしているからです。

 ●貞操という道徳がなぜ生まれたのか、それがどんな役目を果たしてきたのか。それを理解するならば、私のこの主張は当然のことなのです。

 ●貞操という規範がなくなっても、男が不自由するわけでもなく、女が放縦になるわけでもありません。

 ●私のこの主張に憤慨する人は、守銭奴が金を大事にしまっておくように、女をしっかりとしまっておきたい人です。





〈七〉

 ●世界の文明国では多数の婦人が男子と同様に働いて自分を養っています。しかし、彼女たちのどれほどが「完全にひとりの力」で暮らしているでしょう?

 ●そしてその職業婦人が世界中の妻君の何割りに当たるでしょう?

 ●男の庇護の下に一生の保証を得るのが、さしあたっての利巧な方法だということに帰結します。

 ●たまたま親や男の庇護を受けることのできない娘たちが、働こうすれば、ちょうど蒙昧人が家畜のように姉妹をひと束にして買ったように、資本家によって牝牛一匹の半値くらいで買い取られるのです。

 ●文明も進歩も、弱者にはなんの変化ももたらしませんでした。

 ●どれほど立派な技量を持った職業婦人でも、男の気紛れを峻拒する気概を持った人には充分な報酬は与えられないのです。

 ●人類は蒙昧時代から現在の恐るべき文明まで、非常な進歩発展をしてきました。女の地位もそれにつれて向上はしてきましたが、男が女に対して持つ力にはなんの変わりもないのです。

 ●そして女は思想の向上から、思想と現実の矛盾に悩みます。最も苦しむのは自覚した職業婦人です。

 ●すべての婦人が男の庇護を受けず、自分の正しい働きによって生きることができるようになるには、どうすればよいのでしょう?

 ●私の答えはひとつしかありません。

 ●少数の人々が多数の人間の労力を絞りとって財産を作る、そしてその財産の独占が権力を築くという不当な事実がある間は、男にも女にも自由は来ません。





〈八〉

 ●繰り返して言います。道徳も法律も宗教もない混沌とした蒙昧野蛮な時代から、男が主人で女は奴隷でした。

 ●男が所有主で女は財産でした。

 ●今日の文明でも、女は従属的、屈辱的な地位であることに変わりはありません。

 ●今でも女は体を提供して、男からの生活の保証を得るより生きる道はないのです。ひとりの男に一生を捧げるか、そうではないかの差異はありますが。

 ●文明国の法律や道徳や宗教や哲学などが、女の地位を弁護していることは事実です。

 ●しかし、政治、法律、道徳、宗教、哲学、その他のあらゆる知識がすべて資本主義のために働き、それに都合のいい基礎を作り上げたのです。

 ●この仕組みを根底から変えなければ、人間の真の解放はあり得ません。


★鎌田慧『大杉榮 自由への疾走』(岩波現代文庫・2003年3月14日)

★『大杉栄 伊藤野枝選集 第十四巻 大杉栄書簡集』(黒色戦線社・1989年5月10日)

★大杉豊『日録・大杉栄伝』(社会評論社・2009年9月16日)

★『定本 伊藤野枝全集 第三巻』(學藝書林・2000年9月30日)



●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



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2016年09月03日

第341回 赤瀾会(二)






文●ツルシカズヒコ




『改造』一九二一年六月号に「赤瀾会の真相」が掲載されたが、山川菊栄「社会主義婦人運動と赤瀾会」とともに、野枝も「赤瀾会について」を寄稿している。

 大杉豊『日録・大杉栄伝』によれば、『改造』同号には「赤瀾会の人々」という紹介記事も掲載されたが、五月一日のメーデーに初めて婦人団体として参加した赤瀾会が一躍注目を浴びたからである。

 三千字ぐらいの原稿のうち、三分の二ぐらいが当局の検閲によって削除され伏せ字にされている。

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 赤瀾会は現在五十人たらずの婦人達を擁する小さなグルウプです。

 本年のメエデーは、赤瀾会によつて最初の婦人参加者を得ました。

 しかし此の少数の婦人達は、日本の婦人団体としては前例のない圧迫を被(こうむ)りました。

 そして警察の檻房に打ち込まれ、二人の同志の婦人は東京監獄に拘禁されまでしました。

 赤瀾会員の大部分は、現在の日本の社会運動の実際運動にたづさわつてゐる人々の家族であり、縁故の深い人々です。

 従つて何よりも、みんなは、其の思想の上でよりも、先づ或る深い家庭的友情で結びつけられて居ります。

 又その周囲の雰囲気が永い間に大きな訓練をみんなに与へて居ります。

 或る人は、赤瀾会には思想がないと云ふ非難をしたさうです。

 それは或は事実かも知れません。

 一寸(ちよつと)指を屈して見ても、机の前に座つて本をよむ事の好きな人、或はさういふ事を楽しむといふ人は非常に少いやうです。

 それが非難さるべきものだとすれば、赤瀾会員は多分よろこんで此の非難に屈するでせう。

 しかし、本の上で覚えた理屈をこめる事を『思想的背景』があると云ふのなら、赤瀾会員は……彼女達は、いろ/\な立派な理屈を知つてゐ、云つてゐ、書いてゐながら、それを自分のものにして生活することを知らない卑怯者の尊大な誇りは持ちません。


(「赤瀾会について」/『改造』1921年6月号・第3巻第6号/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』_p259~260)





 大杉豊『日録・大杉栄伝』によれば、「前例のない圧迫」とはメーデーに参加した赤瀾会会員が全員検挙されたことで、「二人の同志の婦人は東京監獄に拘禁」は、山川菊栄が書いた「婦人に檄す」というメーデー参加を呼びかけるビラを配った秋月静枝と中名生(なかのみょう)いね子が、出版法違反で検挙され、それぞれ罰金三十円に処せられたこと。

「赤瀾会員の大部分は、現在の日本の社会運動の実際運動にたづさわつてゐる人々の家族であり、縁故の深い人々」は、例えば堺真柄は堺利彦の長女、橋浦はる子は橋浦時雄の妹、秋月静枝は中名生幸力(こうりき)の伴侶、仲宗根貞代は仲宗根源和の伴侶。

 当局の検閲によって原稿が大幅に削除され伏せ字にされた件に関して、野枝は『改造』次号七月号に「親愛なる読者よ」を寄稿。

「……編輯締切後に於て其筋より抹殺されたものであります、どうか読者もかくの如き事情でありますから御許しを願ひます」と事情を説明している。





 野枝は『労働運動』二次十二号に「婦人の反抗」を寄稿したが、これは第二回メーデーに参加した赤瀾会への応援歌であり、『労働運動』同号の一面トップに掲載された。

 野枝はまず五月二日の『読売新聞』の記事に触れている。

『読売新聞』はアドバタイザー社の婦人記者、ビリー女史が上野精養軒裏で目撃した官憲の赤瀾会会員への暴行に関するコメントを載せている。


「日本の警官は何んと云ふ非道い事をするのでせう、あんな繊弱(かよわ)い婦人を捉へて打つたり蹴つたりするとはーー又、群集は婦人が侮蔑されてるのに傍観してゐるとは何んと云ふ事でせうーー私迄が大なる辱めしめを受けてゐるように感じます。

 日本は野蛮な国です、野蛮国です


(『読売新聞』1921年5月2日)


 野枝はこのビリー女史(野枝は「ビズレー女史」と表記)の上から目線のコメントに対しては、チクリとひと刺ししている。


 私は此の話を外国への恥だなどと問題にするのでない。

 警官が民衆を打つたり蹴つたりするのが日本ばかりだとは思ひもせず、又、ビズレー女史のようにアメリカやヨオロツパの文明国でそんな事が決してない等とも思はない。

 お互様に何(ど)の国の政府でもしてゐる事だ位は知つてゐる。


(「婦人の反抗」/『労働運動』1921年6月4日・2次12号/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』_p290)


 そして、赤瀾会の勇気と行動力に賛辞を送っている。


 巡査共に云はせれば『女のくせに余計なところに出しやばるからウンとこらしめておかねば癖になる』と云ふにちがひない。

 しかし、如何に官僚的思想の彼等にしてもそんな暴行や侮辱を加へる事によつて、人間の心の奥底に萌え出した思想の芽をそう容易につみとつてしまへるものと信ずる事は出来ないにちがひない。

 事実赤瀾会の誰一人それにひるんだものはない。

 しかし、若い婦人が群集の面前で、髪を乱し、衣紋(えもん)をくづして巡査に引きづられると云ふ事が、どれ程痛ましい恥辱を与へるであらう?

 弱い精神の持主では到底忍べる事ではない。


(「婦人の反抗」/『労働運動』1921年6月4日・2次12号/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』_p291)





 赤瀾会に対する野枝と大杉の反応を、安谷寛一は四十四年後にこう回想している。


 大杉は乗り気のようだったが野枝さんは一向気がすすまなかった。

『ネ、君い、セキランカイとか何とかって、ご婦人連中えらそうなこと云うが、女なんて新しくたって古くたって皆んなコレだよ!』と、大杉は右手でつまらない形を作って見せた。

 野枝さんは険しい目で大杉をにらんだ。

 だが大杉の男女関係観は決して怪しいものではなかった。

 女は生殖器である。

 その働きは排泄作用である。

 男女平等では男はひどく不平等だし女はそれ以上不幸だ、と思っていた。

 不思議な大自然の摂理、大調和、大杉はそんな方面を考えること、ファブルの本能論に魅せられた彼の思いは、ミミっちい社会運動とは異なった世界に進もうともしつつあった。


(安谷寛一「晩年の大杉栄」/『展望』1965年9月・10月号)


「野枝さんは一向気がすすまなかった」というのは、どういうことなのか、ちょっと気になる。

 赤瀾会は応援するが、自分がメーデーに参加することには「一向気がすすまなかった」という意味だろうか。



★大杉豊『日録・大杉栄伝』(社会評論社・2009年9月16日)

★『定本 伊藤野枝全集 第三巻』(學藝書林・2000年9月30日)


中名生幸力
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第340回 赤瀾会(一)






文●ツルシカズヒコ




 一九二一(大正十)年四月十八日、神田区美土代(みとしろ)町の東京基督教青年会館で、暁民会主催の文芸思想講演会が開催されたが、小川未明、江口渙、エロシェンコらに交じり、野枝も「文芸至上主義に就いて」という演題で講演した(大杉豊『日録・大杉栄伝』)。

 目的は資金稼ぎだったが、聴衆約千二百人の大盛況だった。

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 四月三十日、近藤栄蔵が東京を発ち上海に向かった。

 コミンテルン(第三インターナショナル)の密使・李増林が来日して大杉と面会、コミンテルンとしては日本支部を創設したいわけだが、アナである大杉は自分がその話に乗るわけにはいかず、大杉は近藤栄蔵を代わりに上海に使いに遣ったのである(『日本脱出記』)。

 もっとも、近藤栄蔵は大杉には内密に山川と堺に相談をしていたが、大杉も薄々それには気づきながら、大杉にもコミンテルンからの金の流れを確保したい意向があった(『近藤栄蔵自伝』「日本脱出記」)。





 日本初の社会主義婦人団体、赤瀾会が発会したのは四月二十四日だった。

 近藤真柄『わたしの回想(下)』によれば、綱領は「私どもは私ども兄弟姉妹を無知と窮乏と隷属に沈淪せしめたる一切の圧政に対し断固として反対するものであります」。

 治安警察法第五条によって婦人の政治結社加入を禁止されていたため、日本社会主義同盟に加入できなかったゆえの結成だった。

 発起人(世話人)は秋月静枝、九津見房子、堺真柄、橋浦はる子で、会員は約四十名、山川菊栄と野枝が顧問格として参加した。

「赤瀾(赤いさざなみ)」の命名者は九津見房子だった。

 三十銭の会費すらなかなか集まらず運営は厳しかったが、「伊藤野枝さんが、どうしたはずみかに五円くらい寄付して下さって息をつくようなことでした」(『わたしの回想(下)』)。





 五月一日、東京と大阪でメーデーが開催された。

 東京は第二回メーデーであり、大阪は第一回メーデーである。

 東京の会場は芝浦埋立地だったが、参加者はそこから上野公園まで大行進をした。

 近藤憲二『一無政府主義者の回想』によれば、労働運動社は前日から警官に包囲されているので、近藤憲二は予備検束を逃れるために前日に姿を消し、当日は海苔舟を雇い、芝浦の埋立地に裏から乗り込んだ。

 その日の参加者は前回よりもはるかに多く、引っこ抜きの戦いもすごかった。

 新橋付近で赤瀾会の女性軍二十人ほどが、黒地に赤くRW(レッド・ウェーブ)の旗を掲げて飛び込み、デモ隊にいっそうの気勢をそえた。

 宮城付近を通過するときには「千代田の森に黒旗たてて……」が高々と歌われた。





 あちこちに警官隊の伏兵は起こる、騎馬巡査のサーベルが鳴る。

「密集! 密集! 旗を守れ! 突撃しろ!」の怒号に対して、「旗を奪え! 女子軍を捕らえろ! 戦闘分子を引っこ抜け!」の騒ぎだ。

 小川町でも松住町でも戦いの連続、上野池の端へ出たときはまさに白熱化した。

 好天に恵まれて、たいへんな人出、どの料理屋も満員、それがメーデーを見物しようと二階の窓へ鈴なりになったところへ、行列からバラバラと小石を投げはじめたのだからたまらない。

 お客はくもの子を散らしたように逃げだす騒ぎ。

 赤瀾会の九津見房子、仲宗根貞代、堺真柄らが総検束されたのは山下から上野東照宮下付近だ。

 橋浦はる子さんがあご紐をかけた警官にかこまれながら、毅然として検束されて行くさまは『写真近代女性史』にも載っているが、当日の語りぐさであった。


(近藤憲二『一無政府主義者の回想』_p224)





 『わたしの回想(下)』によれば、赤瀾会の会員は新橋の高等理容店「樹神(こだま)」に集結し、午後一時ごろに新橋に到着することになっていたデモ隊を待っていた。

「樹神(こだま)」は九津見房子の知り合いの理容店だった。

 午前十時ごろから赤瀾会会員は集まり出し、「樹神」の二階で待機していた。


 当時着物の袖丈は普通一尺七寸位でしたから、元禄に縫いこんだり、裾を短目に着るなどしていた。

 ……早目のおひるをと、そばを食べかけた折から、早くも行列の近づく気配。

 前々から橋浦はる子さんや中村しげさんなどが工夫してミシンかけした手製の会旗は、黒の綿繻子地に赤いネルで横に「赤瀾会」と縫いつけ、小旗は同じように「R・W」と縫いつけたもので竹竿に紐で結びつけて横にたおし、数人で小脇にかかえておりました。

 やがて印刷工組合や労働運動社の黒旗が翻る行列の近づいたとき、路地から飛び出して行列に入るや、組合の人たちはウワァーという歓声と拍手で、十数人の女の一団を包み込むように迎えくれました。


(近藤真柄『わたしの回想(下)』_p21~22)





 途中検束する関所が桜田本郷町、日比谷、松住町、上野山下などだったが、赤瀾会会員はなんとか引き抜かれずに進んだ。

 堺真柄の母・堺為子、叔母・堀保子など年輩者は、アンパンの包みを手渡してくれたり、電車で先回りしてサイダーの栓を抜いて待っていてくれたりした。

 デモ隊が池の端を通るとき、料亭の二階から客がデモ隊を見下ろしていたが、どこからともなく小石が飛んだ。

 続いてバラバラと窓めがけて石が飛び、それが合図かのように、巡査が割り込んできて、大混乱になった。

 革命歌「森も林も武装せよ、石よなにゆえ飛ばざるか」を実践したようなこの光景が、デモ隊の士気をいっそう燃え上がらせた。

 デモ隊は上野東照宮下で解散するはずだったが、さらに石段を登ろうとする一団と巡査の争いが一段と激しくなり、赤瀾会の会員たちはもみくちゃにされた。

 高津正道の妻、高津多代子は生後間もない子をおぶって、巡査にしがみついていた。

 赤瀾会の会員はほんどが検束された。

 仲宗根貞代は巡査が「女のくせに何だ!」と嘲ったので、「無産者のくせに何だ! 資本家の手先になって、そのザマは何だ!」と言い返した。

 翌日の『読売新聞』にあごひもをかけたふたりの巡査に挟まれて、キリッとして歩く堂々たる橋浦はる子の写真が載った。

『読売新聞』のキャプションは「九津見フサ子」としているが、これは間違いなのであろう。



赤瀾会@「馬込文学マラソン」



★大杉豊『日録・大杉栄伝』(社会評論社・2009年9月16日)

★『近藤栄蔵自伝』(ひえい書房・1970年)

★近藤真柄『わたしの回想(下)』(ドメス出版・1981年11月25日)

★近藤憲二『一無政府主義者の回想』(平凡社・1965年6月30日)





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2016年09月01日

第339回 ミシン






文●ツルシカズヒコ




 そして、野枝は話題をミシンに転じる。


 今日もまたいゝお天気。

 今日は朝の間すこし必要な仕事をしました。

 それからミシンもすこし動かしました。

 機械と云ふものは面白いものですね。

 私は機械がする仕事はきまりきつてゐて、本当に面白くないつまらないと思ひますが、しかし、その機械を働かせる仕組みは実におもしろいと思ひます。

 私は、機械についての知識と云ふものはまるで持ちません。

 興味を起した事もそんなにありません。

 ミシンを買ふた事もたゞあの重宝さが必要だつたのですけれど、私は此の頃、あれでものを縫ふことよりは、機械の組み立てに対する面白さが、楽しみになつて来ました。


(「『或る』妻から良人へーー囚はれた夫婦関係よりの解放」/『改造』1921年4月号・第3巻第4号/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』_p254)

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 野枝はこのころミシンを購入し洋服作りを始めていた。

 ちなみに、平塚らいてうが洋服を着るようになったのは前年、一九二〇(大正九)年七月からだった。

 らいてうが断髪したのは、一九二三(大正十二)年である。

 ミシンを買った当初、野枝は派遣教師に来てもらい、ミシンの仕組みに関する知識を教えてもらおうと思ったが、その教師が何も知らなかったので教師に頼ることをやめた。

 野枝はミシンについてきた小さな書物で勉強しようとしたが、それには本当に必要なことが何も書いていなかった。

 野枝は自分の頭で考えるしかないと思った。






 それから私はひま/\に、機械のあらゆる部分をいろ/\に動かすことを初めました。

 どん小さな部分にでも、充分注意して、その部分が何の為めにつくられて居り、何処にその働きが及ぶのかと云ふような事を一つ/\ほぐしては観究(みきわ)めてゆきました。

 或る時は、あの下糸をまく為めの附属機械が全部バラバラに弾いて離れてしまつてどうにもならなくなりました。

 けれど、そのお蔭で、すつかりもとのやうに組み立てゝしまつた時には、その部分には、もう何んにも私に隠されてゐる秘密はなくなりました。

 その代りに、私はその時は二時間近くも辛抱づよく一つ処をいぢつてゐたのです。


(「『或る』妻から良人へーー囚はれた夫婦関係よりの解放」/『改造』1921年4月号・第3巻第4号/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』_p254~255)





 機械は合理的にできていて、ムダなものはひとつもない、そして微細なものでも驚くほどの重要な微妙な働きをし、あるパーツのちょっとしたゆるみでも全体に差し支えるーー機械のこういうところが、野枝はすごく気持ちがよいと感じた。


 複雑な微妙な機械をいぢつてゐますと、私は、複雑である微妙を要する事程、特に『中心』と云ふものが必要だと云ふ理屈は通らないのが本当のように思はれます。

 みんな、それ/″\の部分が一つ/\の個性を持ち、使命をもつて働いてゐます。

 そしてお互いに部分々々で働きかけ合つてはゐますが、必要な連絡の範囲を超してまで他の部分に働きかける事は決して許されてありません。

 そして、お互ひの正直な働きが連絡が、或る完全な働きになつて現はれて来るのです。

 人間の集団に対する理想も、私はやはり、其処にゆかねばならぬものだと思ひます。

 けれども、現在では此の理想は許されないのですね。

 しかし、機械の部分々々のお互ひの接触には、私達は学ぶべきことがあると思ひます。

 私達は日常の生活に、もつと自分々々をよりよく守つて、他人の上にもつとインデイフアレントであるようにならねばならぬと思ひます。


(「『或る』妻から良人へーー囚はれた夫婦関係よりの解放」/『改造』1921年4月号・第3巻第4号/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』_p255)





 逆に言えば、現実の人間関係はその関係が親密であるほど、このインデイフアレント(不関与)でいることが困難であり、たとえば親の子供に対する越権、夫の妻に対する越権がまかり通っていると、野枝は自省を込めて書いている。


 自分に対する親の越権を憤慨し、反抗した人達が、自分の子供達に一体どんな態度でのぞんでゐるでせう。

 ……どう育つてゆくか分らない子供の将来に、いろいろ自分勝手な空想を描いたり、希望をもつたりして、其の自分勝手な理想を基礎に教育を授けて、其の理想を幾分かでも実現させようと楽しんでゐはしないでせうか。

 ……子供が小さいからと云ふだけの理由で子に対する親の越権でないとどうして云へるでせう。

 それから、夫婦関係です。

 ……従来とはすつかり変つて来たとは云ふものゝ、お互ひの生活を『理解』すると云ふ口実の下に、お互ひに、どれ程その生活に自分の意志を注ぎ込まうとしてゐることでせう。

 そして或る人々は『理解』では満足せずに『同化』を強ひます。

 Better halfと云ふ言葉が、どれ程ありがたがられてゐることでせう。

 愛し合つて夢中になつてゐ時には、お互ひに出来るだけ相手の越権を許してよろこんでゐます。

 けれども、次第にそれが許せなくなつて来て、結婚生活が暗くなつて来ます。

 若しも大して暗くならないならば大抵の場合に、その一方のどつちかゞ自分の生活を失つてしまつてゐるのですね。

 そして、その歩の悪い役まはりをつとめるのは女なんです。

 そしてその自分の生活を失くした事を『同化』したと云つてお互ひによろこんでゐます。

 そんなのは本当にいゝ、Better halfなのでせうけれど、飛んだまちがひなのですね。

 私の機械から受けた教訓によると……良人は妻の上によけいな侵略的態度に出るので、自分ひとりが軽々と普通に動かないし、妻は能力を奪われて動くことが出来ないのです。

 要するに、他人との生活の交渉には、もつとお互ひに自分本位になる事。

 他人の生活に必要以上に立ち入らぬようにすることが何よりも大切な事ですね。

 しかし、それがまたなか/\出来ない事ですね。

 けれど、斯うして、別にゐて、のんきに日向ぼつこでもしながら、ひとりきりの生活をしてゐますと、書いてゐる通りな『お利口さん』になつてゐるのですよ。

 別居と云ふものは、本当にいゝものですね。


(「『或る』妻から良人へーー囚はれた夫婦関係よりの解放」/『改造』1921年4月号・第3巻第4号/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』_p256~257)





 大杉はいざとなれば危険を顧みず、直接行動に出るアナキストである。

 野枝はそういう夫を持った妻としての不安も、隠さずに書いている。


 私は一体自分自身の生活と云ふ事を始終気にして、相応にそれを把持してゆかうと考へてゐるくせに、一方にはそんな事には一切無頓着に、たゞ家庭生活の中に溺れ切つてそれを享楽しようとする気持も可なり沢山持つてゐます。

 ですから、一方には、私達の生活に対して充分理知的な考へをしてゐながら一方には、世間並みの平凡な妻君が、家庭の安全を祈り、良人の無事をねがふのとちつとも違はない気持で、実際には少しも普通の家庭のやうに安定を持つ事を許されない家庭の安全をいのり、あなたの無事を祈りたくなるのです。

 其処で、私はやはり一方では非常によく理解もし信ずる事も出来るあなたのいつもの所謂無茶を、無理解な人達と一緒に恐がるのです。

 そしてそのあなたの無茶のみでなく、私達の生活のすべてが、理知的には、ちゃんとした、何時どんな重大事件が私達の周囲に降らうが湧かうが動じないと云ふ『覚悟』になつてゐますけれど、一方ではそれが覚悟までは進み得ずに、或る『不安』になつてしよつ中よわい、『妻君』の私をいぢめます。

 けれど斯うして別にゐますと、その『不安』にいぢめられる事からは確かにまぬがれます。

 ひとりでゐれば、何時でも私は真面目ですし冷静です。

 そして此の時が、真にあなたにとつていいBetter halfなのですね。

 ちがひますか。


(「『或る』妻から良人へーー囚はれた夫婦関係よりの解放」/『改造』1921年4月号・第3巻第4号/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』_p257)





 野枝はこの原稿を「今日もまた、終日例のように、縁側の椅子で日向ぼつこをしながら、ぼんやりと暮してしまひました」と書き出しているが、原稿末尾にも天気について触れている。


 どうしてこんなに毎日、いゝお天気がつゞくのでせう。

 かう云ふ風に晴れ切つて風も何もなくて暖かい日には、あんな瓦斯ストオヴなんかで暖めた室なんかゐないで、此方にゐらつしやればいゝし、田甫(たんぼ)もいゝ気持ですよ。

 あの軽い乗心地のよささうな馬車で、こんな日に逗子から長者ヶ崎の方、もつと先きの秋谷辺までも散歩に行つたらどんなにいゝでせう。

 金沢だつてよござんすね。


(「『或る』妻から良人へーー囚はれた夫婦関係よりの解放」/『改造』1921年4月号・第3巻第4号/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』_p257~258)


 文面からすると、野枝がこの原稿を書いたのは、大杉が麹町区有楽町の露国興信所(ロシア人経営の貸しアパート)の「病室」にいて、野枝と別居していたころだ。

 野枝は原稿末尾に「馬車で、こんな日に逗子から長者ヶ崎の方、もつと先きの秋谷辺までも散歩に行つたらどんなにいゝでせう」と書いているが、実際に大杉一家と和田久太郎が馬車で金沢(現・横浜市金沢区)に出かけたのは二月十日だったので、野枝がこの原稿を脱稿したのはそのころと推測できる。


インデイフアレント(不関与) ※大正時代のミシン


★『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』(大杉栄全集刊行会・1925年12月8日)

★『定本 伊藤野枝全集 第三巻』(學藝書林・2000年9月30日)



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第338回 Confidence






文●ツルシカズヒコ




 野枝は『改造』四月号に「『或る』妻から良人へーー囚はれた夫婦関係よりの解放」を書いた。

「性の解放・性的道徳の建設」欄の一文で、野枝の他にミス・ブラック、帆足理一郎江口渙が執筆。

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 野枝は冒頭で「もう随分ながく、私は自分の友達を持ちません。そして友達を欲しいと思つたこともありません」と書いている。

『青鞜』時代に親しく交わった小林哥津、野上弥生子との友情を、野枝はときどき懐かしく思い出し、大杉にも話して聞かせていた。

 とりわけ七、八年前、辻潤と染井に住んでいたころ、タスキ掛けでカラタチの生け垣越しに会話をした、弥生子のことを思い出すという。

 そのころ弥生子は『ソフィア・コヴアレフスキイの自伝』を翻訳していたが、弥生子はこの書物から得た感銘をよく野枝に話して聞かせた。

 お互いに読んでいる書物の批評をしたり、共通の知り合いの噂をしたり、自分たちの生活に対する切実な反省や計画を話したりーー野枝にとって弥生子は年上の特別な友人だった。

 しかし、あんなに親しく交わった仲でも、ほんのわずかな理解の隔(へだ)たりによって、まったくの赤の他人よりも冷たい関係になってしまうことを思うと、野枝は嫌な気持ちになり、他人には何も期待してはいけないという考えを強く持つようになった。





 野枝にとって大杉は、自分のすべてが話せる、そして自分を理解してもらえる特別な他人だった。

 だから、野枝は大杉以外の友達の必要をまったく感じなかった。

 しかし、野枝は大杉がベストな友人であることにも気づいていなかった。

 野枝がそれに気づいたのは、大杉が豊多摩監獄に入獄したときだった。

 本郷区駒込曙町の家には、同志たちが集い『労働運動』(第一次)を発刊していた時期だったので、野枝はひとりだったわけではない。


 けれども、私は『信じ合ふ』と云ふ普通に使はれてゐる言葉以上に信じる事のできる人々にもなおゆるすことの出来ない、或る、ほんとうに深いConfidenceを投げかける事の出来る話相手が、私には必要だつたのだと云ふ事がはじめてその時にしみじみ分つたのでした。

 そして、それが、たつた一人のあなただと云ふ事がわかつたのでした。

 それはあの時に、獄中へさし上げた手紙にも、たしか書いたと思ひます。

 何んと云ふ迂愚な私だつたのでせう。


(「『或る』妻から良人へーー囚はれた夫婦関係よりの解放」/『改造』1921年4月号・第3巻第4号/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』_p251)





 野枝と大杉はお互いの生活については、余すところなく知り合っていた。

 大事な仕事のためには、お互いできるだけよい同志でありたいと願い、そう努めてきた。

 ふたりの結合の意味は、夫婦であるというよりも、ひとつの道を歩く、ひとつの仕事をする、最も信頼することのできる同志になることーーそれもお互い、最初から知っていた。

 けれどもーーと、野枝は自省している。

 同志がいて仕事の話をする場合などはそうではないが、大杉とふたりきりになった「家庭」の雰囲気の生活では、ありきたりの型にはまった「妻」の思考に陥ってしまうと野枝は書いている。

 ともすると、大事な仕事に臨む場合にすら「良人(おっと)の仕事に理解を持つ事の出来る聡明な妻」と云ふ因習的な自負に負けてしまうと。

 野枝にこの間違った自負を気づかせてくれたのも、大杉の豊多摩監獄入獄だった。

 この間違った自負はなぜ生じたのか?

 野枝は大杉に不満を感じていた。


 本当なら一緒になつて、ムキにならねばならぬ仕事なのに、あなたがあんまり夢中になるといやでした。

 一日中外を歩きまはつて帰り、帰ると御飯を食べる間もオチ/\話をせずに机に向つて坐つたり、お茶を出しても、お菓子を出しても半ば夢中で雑誌の編輯になぞ熱中されると不満でたまりませんでした。

 出先きが分らなかつたり、折角骨折つた夕食の御馳走がムダになつたりすると無暗(むやみ)に腹がたちました。


(「『或る』妻から良人へーー囚はれた夫婦関係よりの解放」/『改造』1921年4月号・第3巻第4号/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』_p252)





 野枝はその不満が自分の我がままだと思い、自分を責めてみたこともあったが、不満は解消されなかった。

 野枝はこう自省している。

 自分がいわゆる「いい妻」として振る舞い、大杉にも「いい夫」として対してほしいという馬鹿な考えにとらわれていたと。

 大杉が入獄して留守の間、野枝は妻としての義務がなくなり、野枝の生活は自分ひとりのものになった。

 その間、野枝は医者から絶対安静と言い渡されていたので、頭の中でいろいろ考えた。

 野枝は考えたことを話す相手がいないことに寂寥(せきりょう)を感じ、その話し相手は理解の行き届いた友人である大杉以外に存在しないことを知った。

 野枝は大杉が自分にとって得がたい対象であることを知ったが、それは男女の恋愛を超えた力強いものだった。

 これは自分と大杉との関係に特有なものというより、男女の強い結合とは本来そういうものなのかもしれないと、野枝は思った。





 大杉が入獄している間にひとりになって思考した野枝は、自分が常に大杉と一緒に住んでいることが、自分にとってよくないことであることにも気がついた。

 大杉との「家庭」生活を楽しむことに気が取られると、野枝は大杉の一挙手一投足が気になり出すのだった。

 馬鹿げたことだとわかっていても、気に病むのだった。

 大杉と一緒に住んでいると、彼がわずかな時間でも外出し自分の知らないところで過ごしていても、誰と何を話しているのだろうと気をもんでしまうのだった。

 しかし、大杉が入獄して離れて住んでみると、大杉が何をしていようと何を考えていようと、そんなことは一切気にせず心を乱されることもないことを、野枝は知った。

 大杉と一緒にいると大杉の一挙手一投足が気になり出すのは、「やはり一緒にいれば『妻』根性を出すからなのですね」と野枝は自己分析している。


★『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』(大杉栄全集刊行会・1925年12月8日)

★『定本 伊藤野枝全集 第三巻』(學藝書林・2000年9月30日)







●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index





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2016年08月30日

第337回 壟断(ろうだん)






文●ツルシカズヒコ




 野枝は『女の世界』一九二一年三月号に「現代婦人と経済的独立の基礎ーー謬られた思想で養われた独立婦人に与ふ」を寄稿した。

 以下、抜粋要約。

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〈一〉

 ●婦人の完全なる解放のためには、婦人の経済的独立がなくてはならないと、女権論者の方は主張しています。

 ●女権論者は自ら働きさえすれば、婦人は親なり夫なりの奴隷の境涯から解放されると考えていますが、主人が代わるだけでやはり奴隷の境涯から抜け出せないことには一向に気づいていません。

〈二〉

 ●彼女たちは婦人が各方面の職業に従事するようになったのは、婦人の経済的独立の自覚によるものだなどと言われています。

 ●確かにそういう側面もあるでしょうが、職業婦人が増えたのは、現在社会の経済の仕組みが多くの婦人に徒食を許さなくなってきたからです。

 ●知識や教養ある婦人がその才能を発揮するため、あるいは結婚によって衣食住の保証を得るよりは独力で生活を営むことに対する誇りから、職業に就く婦人たちもいます。

 ●しかし、このような呑気な動機から職業を求めた婦人がどのくらいありましょうか。

 ●近代の経済の仕組みは、少数の資本家の利益壟断(ろうだん)を生みましたが、資本家たちはその下で使役される賃金奴隷の範囲を大人から子供へ、男から女へと拡大してきました。

 ●資本家が使用人に払う賃金では、今や一家を支えていくだけの余裕がなくなりました。

 ●生活程度が低くなればなるほど、女でも幼い子供でも徒食は許されなくなった、というのが現在の経済の仕組みなのです。

 ●大資本家が小資本家を飲み込み、徐々に中産階級の存在をも許さなくなってきています。

 ●中産階級も大資本家の使用人として賃金をアテにせざるを得なくなった。どうかすれば、子女の助けを必要とするようになった。

 ●多くの青年が、自分ひとりの生活を維持していくための収入を得ることが困難になってきました。

 ●世間に出て働くに充分な準備を授けて貰うことができる青年たちですら、両親から容易に独立することができないのです。

 ●彼らは結婚を急ぐような幸福な場所には置かれません。

 ●妻子を養う収入を得るには、どんなに辛い仕事をしなけらばならないかを知っているからです。

 ●利口な青年たちは、そんなことをしてまで女に徒食をさせることの馬鹿馬鹿しさを知っています。

 ●娘たちの親は、娘をかかえて求婚者を待つような境遇にいることを許されなくなります。

 ●娘もその保護者である父や兄から、独立することを強いられるようになってきました。

 ●いわゆる職業婦人ですが、職業を求める動機は労働者階級と少しもかわりません。そして、雇主に隷属させられている境遇も同じです。

 ●女権論者たちが、どれほど声を大にして婦人の経済的独立を祝福、主張しても、現在の職業婦人の大部分が自分の境遇を幸福と感じることができない間は、経済的独立が婦人解放問題にいい解決を与えるとは思えません。

 ●そして、職業婦人たちは自分たちが営むことができない家庭生活に、どれほど憧れているかということも、女権論者たちには知ってもらいたい。





〈三〉

 ●職業婦人の賃金の最初の基準は、女一人が自活できるものではなく、女を養う余裕のなくなった男の経済状態を補う程度のものでした。

 ●仕事に不馴れで能率が悪いことなどが低賃金の理由にされていましたが、今ではこれが虚偽であることが明白です。

 ●資本家にとって婦人を雇うほど得なことはありません。彼女たちはよく働きますが、資本家は報酬をできるだけ安く抑えて、彼女たちの若い精力を絞りつくします。

 ●正直な職業婦人は、男子より劣った賃金で勤務時間中、休む間もなく働きます。

 ●仕事から解放されると、後は疲労を癒すために眠るだけです。

 ●なんのためにそれをしているのかを知ることもなく、ただ間断なく強いられる労働があるだけで、生活に娘らしい色彩も潤いもありません。

 ●若い娘らしい色彩や潤いを求めるなら、彼女ひとりの収入では食べていけなくなります。

 ●そして、誘惑の手がたちまちに襲いかかってきます。

 ●こうして、なんと多くの若い娘たちが恥ずべき職業に就いていくことでしょう。

 ●職業婦人の大半は、できるだけ早く仕事を辞めたいと思っています。

 ●どんなに過酷な雇主に対しても、「もうすぐ辞めるのだから」という理由で抵抗しません。

 ●女を雇うことが得なことを知った雇主は、どんどん女を雇用するので、女の働く範囲は広くなりましたが、それによって男の収入が低減したり、男の働く場が奪われることになりました。

 ●妻が働き出ることによって、夫の賃金が低減したり職場を失ったするので、家族の生活は苦しくなるばかり です。

 ●職業婦人たちの憧れる家庭生活は遠ざかるばかりで、過労と堕落に陥れられるだけです。

 ●彼女たちが資本家と労働者の利害関係に無頓着であるかぎり、彼女たちの境遇は改善されません。

 ●女権論者たちの目には、こういう事実が見えないのでしょうか。

 ●女権論者たちは言うでしょう。

 ●「それは職場婦人としての自覚がないからだ。職業的利害に目覚めて、それを改善すれば仕事はもっと楽になるし、収入も増す。そして婦人も立派に経済的な独立ができる」

 ●しかし、大部分の職業婦人たちが思想的基礎の上に立たず、経済的必要に迫られて職業に就いているのだとすれば、それは無駄な自覚です。

 ●彼女たちは、女権論者たちが最も唾棄すべき、男の保護をどれだけ望んでいることでしょうか。

 ●彼女たちは長くその職場に止まっていても、自分をその境遇から救い出すのは、求婚者であると考えているにちがいありません。

 ●そうして、男に保護されることを屈辱に感じて職を求めて独立したはずの彼女たちは、当初の志を翻せざるを得ないのです。





〈四〉

 ●女権論者の有力な味方になり、自覚ある職業婦人として立つ人々は、ただ男子を相手に競争することに懸命になり、女らしい情緒も色彩も涸らしつくしてしまった、少数の刺々(とげとげ)しい人々です。

 ●その人たちはただ一個の機械と同じです。自分の生活に少しも自由を持ちません。

 ●彼女には天真爛漫さなど少しもありません。いつも眉を寄せ、唇を一文字に結び、青白い顔に冷たい表情を浮かべて人の顔を見据えます。

 ●彼女たちには、洒落や空談はもちろんのこと、およそ人の気を軽くする言葉や表情は一切禁物なのです。

 ●これは決して私の誇張でもなんでもありません。

 ●今日、知識があり教養がある職業婦人として、一般人の尊敬を集めている少数の人は、実にここまでの修養を積んだ人たちなのです。

 ●意地悪な世間の人々に尊敬されるには、このような離れ業をして見せなければならないのです。
 
 ●常識を持った世間の人々は、はたしてこんな婦人たちをたくさん作り出すことを喜ぶでしょうか。これが真の婦人と言えるでしょうか。

 ●今日、どれほど多くの職業婦人が、結婚と同時に職業を投げ出していることでしょう。

 ●既婚者や母親となった婦人が働くことができる設備が、少しも整っていないからだと力説されています。

 ●しかし、かりにその設備が充分だとしても、婦人たちに充分な仕事が与えられるでしょうか。その夫にも父にも兄にも妹にも、すべての人にまんべんなく相当な仕事が与えられるでしょうか。

 ●利口な資本家は熟練した労働者の就職を脅かして、その補助の位置にいるものに、もっと悪い条件で仕事を分け与えるというようなやり方をします。

 ●こうして人間の労働価値はどんどん低下していきます。

 ●資本家はいかに安く労働者を使うかしか考えていません。





〈五〉

 ●婦人が経済的に独立して、親や夫の干渉圧迫を退けただけでは、問題は解決しません。

 ●大多数の婦人労働者が、雇主というタイラントからさらに大きな圧迫暴虐を蒙るのです。

 ●女権論者たちによく考えてもらいたいのは、ここなのです。

 ●どんな人間でも徒食するということはゆるされないことですから、私は婦人の経済的独立に反対するものではなく、むしろ積極的にそれを主張する必要を感じています。

 ●しかし、中産階級に属する女権論者たちの狭い視野からの議論では、婦人の経済的独立や女性の完全なる解放の問題は、根本的な解決にはいたらないのですーー私はそれを明確にし強調したいのです。

 野枝はこの評論をこう結んでいる。


 問題は深く一般の社会問題と交錯してゐます。

 そして今、世界中の大問題になつてゐます。

 経済組織の重要な点にまでふれてゐます。

 すべての婦人達は先づ何よりも現在の重大な社会問題について研究する必要があります。

 その経済組織について考慮を要します。

 此の根本的な問題の解決は必ず、婦人問題にも、根本的に何の不合理も残さない解決を与へるにちがひありません。


(「現代婦人と経済的独立の基礎ーー謬られた思想で養われた独立婦人に与ふ」/『女の世界』1921年3月号・第7巻第3号/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』_p248~249)


★『定本 伊藤野枝全集 第三巻』(學藝書林・2000年9月30日)



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タグ:伊藤野枝
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2016年08月29日

第336回 高村光太郎






文●ツルシカズヒコ





 大杉が聖路加病院から退院したのは、一九二一(大正十)年三月二十八日だった。


 聖路加病院に入院中であつた大杉栄氏は

 廿八日午後三時退院して午後四時十六分新橋発の列車で鎌倉雪の下の住居に帰つたが

 伊藤野枝 村木源次郎の両氏が付添つて保護に努めた


(『読売新聞』1921年3月29日)

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「日本脱出記」によれば、大杉が入院したために上海の社会主義者との連絡が絶たれ、ヴォイチンスキー(ロシア共産党の極東責任者)が送ってくるはずだった金も入手できなかったが、「近藤憲二が僕の名で本屋から借金して来て、皆んな一緒になつてよく働いた」。

 近藤栄蔵も大杉が入院中の近藤憲二の奮闘を記している。


『労運』の経営に主役をつとめた近藤憲二の奮闘ぶりは、また実に涙ぐましいものであった。

 とくに大杉が病気で倒れていた間の金策のための彼の活躍は大変なものであった。

 栄蔵はこれらの同志のなかに交って、歳こそ上だが運動経験においては遥か後輩として、気持よく起臥をともにし、机を向い合せて、仲よく仕事をしたものである。


(同志社大学人文科学研究所編『近藤栄蔵自伝』)


『近藤栄蔵自伝』によれば、労働運動社に対する警察官憲の警戒は厳重で、大杉個人に三名の尾行がつき、労働運動社そのものにも昼夜交代で四人の私服が、朝七時から夜十一時まで目を光らせていた。

 私服は目新しい訪問者に姓名、住所、用件を訊ねて手帖にひかえた。

 社員が仕事を終えて夜の散歩にでも出る際には、石塀の暗い陰にやもりか蝙蝠のようにペタリと平たく身を寄せて様子をうかがい、外出者の人数に応じてひとりかふたりが尾行してきた。

 近所の風呂に行く際にも尾行がついた。





 近藤憲二は金にまつわる、あるエピソードを記している。

 二月か三月の寒い日であった。

 神田区駿河台北甲賀町一二番地の駿台倶楽部内の労働運動社で仕事をしていると、隣りの部屋に人が来た気配がした。

 声をかけても返事がない。

 襖を開けると、部屋の真ん中に袴をはいたインバネスの男が立っていた。

「どなたですか?」

 近藤が声をかけたが、その男は答えず無表情のまま近藤のそばへ来て、

「僕、高村光太郎です」

 とだけモソモソと言って、持ってきた風呂敷包みをとき、机の上に『手』のブロンズを置いた。

「これをあなたたちにあげます。金に代えて使ってもいいですよ」

 それだけ言って、その男は牛のようにヌーッとしていた。

 近藤はむろん高村の名は知っていたが、初対面であり、あまりに出し抜けな話なので面喰らった。





 ブロンズは、親指を少しそらし、小指をややまげたもの、そのときは知らなかったが、氏の代表作になっている『』と同じ形、もっともそれが代表作そのものであったか、そのころ、ああいうのを幾つか作られたのか、その辺はわからない。

 しかし彫刻がわかりもしない私たちがそれを貰う資格はないし、金にかえてもいいといったところで適当なところを知らないし、魂をこめて作られたものを金になりさえすればというわけにもいかぬ。

 私はそういう理由を述べて、「せっかくのご厚意ですが、お断わりするのがいちばんいいと思います」といった。

 氏は遠慮するなともいわず、別に話すでもなく、やはり無表情で、風呂敷に包んで帰られた。

 話はそれだけ、氏の三十七、八歳のときだった。

 その後逢う機会は遂になかったが、その日の氏の牛のような感じを今も思い起こす。

 そういえば氏にはたしか『鈍牛の言葉』という詩があり、その中に

 おれはのろまな牛(べここ)だが

 じりじりまっすぐにやるばかりだ

 の一節があったと記憶する。



(近藤憲二『一無政府主義者の回想』_p231)



★同志社大学人文科学研究所編『近藤栄蔵自伝』(ひえい書房・1970年1月)

★近藤憲二『一無政府主義者の回想』(平凡社・1965年6月30日)



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1955年生まれ。早稲田大学法学部卒業。『週刊SPA!』などの編集をへてフリーランスに。著書は『「週刊SPA!」黄金伝説 1988〜1995 おたくの時代を作った男』(朝日新聞出版)『秩父事件再発見』(新日本出版社)など。
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