2016年09月09日
第345回 新発田
文●ツルシカズヒコ
大杉が野枝と魔子を伴い新潟県の新発田を訪れたのは、一九二一(大正十)年七月十三日だった。
『改造』十月号から大杉の「自叙伝」連載が始まるのだが、その取材のためだった。
「雲がくれの記」(『東京毎日新聞』一九二一年八月十四、十五、十七、十八日/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』/日本図書センター『大杉栄全集 第14巻』)によれば、「うまく東京で、僕の尾行二人と女房の尾行一人、都合三人の尾行を一ぺんにまいて了つた」。
大杉栄は一八八五(明治十八)年一月十七日に香川県丸亀町で生まれた。
父・東(あずま)が丸亀十二連隊少尉だったのである。
母・豊(とよ)は丸亀十二連隊大隊長、山田保永の妻・栄(えい)の妹である。
大杉が生まれた年の六月、父・東が近衛第三連隊に転属になり、大杉一家は東京市麹町区番町に移り住んだ。
一八八九(明治十八)年五月、父・東(あずま)が新潟県の新発田十六連隊に転任し、大杉一家は新発田に移り住んだ。
大杉は四歳から十四歳まで新発田で暮らした。
それは新発田本村尋常小学校、新発田高等小学校を経て北蒲原尋常中学校(現・新発田高校)を中退し、名古屋陸軍地方幼年学校に入学するまでの十年間だった。
大杉が新発田を訪れるのは、一九〇二(明治三十五)年六月、母・豊の急逝で東京から帰省して以来十九年ぶりだった。
『新潟新聞』が大杉一家の新発田来訪を報じている。
「警察も知らぬ間に来越した大杉栄 流星の如き其去来 伊藤野枝をも同伴して」という見出しである。
社会主義者として誰知らぬ者なき大杉栄が去る十三日、例の伊藤野枝子及び当年五歳の長女某の三人連れで飄然と新発田町に現はれ新聞記者林俊三、妻キミ、長女マサと偽名して長谷川旅館に投宿……
(『新潟新聞』1921年7月24日/荻野正博『自由な空 大杉栄と明治の新発田』)
大杉は名古屋陸軍地方幼年学校を素行不良で退校になったのだが、謹慎処分を受け自分は軍人に不向きではないかと悩んでいたころ、新発田で暮らしていた時分を思い出し、こう書いている。
僕は始めて新発田の自由な空を思つた。
まだほんの子供の時、学校の先生からも遁れ、父や母の目からも遁れて、終日練兵場で遊び暮した事を思つた。
僕は自由を欲しだしたのだ。
(「自叙伝 四」/『改造』1921年12月号/『自叙伝』・改造社・1923年11月24日/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第三巻』には「幼年学校時代」と改題所収/日本図書センター『大杉栄全集 第12巻』)
『新潟新聞』によれば、七月十四日、大杉は島津ヨシと会った。
ヨシは母・豊の髪結いをしていた女性で、新発田の大杉家にしょっちゅう出入りしていた。
この日、大杉一家はヨシを伴い、新発田駅発午後二時三十分の列車で村上に向かい、瀬波温泉の三島屋旅館に宿泊した。
大杉がヨシに会ったのは取材が目的だが、特に大杉が幼いころの記憶を補うためだった。
七月十五日、新発田に戻って取材を続け、長谷川旅館に再泊した。
七月十六日、新発田駅午前八時発の磐越線、福島県の平行きの列車に乗り、帰路についた。
十七日は常陸の海岸の宿で一泊、十八日に鎌倉の家に帰宅した。
信越線の新発田駅が開業したのは一九一二(大正元)年九月だった。
十九年ぶりに新発田の地を踏んだ大杉は、鉄道が通じたことにより、新発田が大きく変わっているだろうという期待を持っていたが、「まるで二十年前其儘なのに驚かされた」という。
停車場の附近が変つてゐることは論はない。
そして僕はそこを出るとすぐ、また新しい華奢な監獄のやうな製糸場が聳えてゐるのを見て、ここにもやはり産業革命の波が押しよせたなとすぐ感じた。
しかしそれは嘘だつた。
其後町のどこを歩いて見ても、その製糸場以外には、工場らしい工場一つ見つけ出す事は出来なかった。
新発田の町はやはり依然たる兵隊町だった。
兵隊のお蔭でようやく食つてゐる町だった。
製糸場は大倉喜八郎個人のもので、大倉製糸場の看板をさげてゐた。
そしてこれは喜八郎の営利心を満足させるよりも、寧ろ其の虚栄心のためのものであるやうだ。
喜八郎は新発田に生れた。
……あの通りの大富豪になり、殊には男爵になるに及んで、其の郷里に此の製糸場と、其のすぐそばの諏訪神社の境内に自分の銅像を立てたのであつた。
けれども、ここにもやはり、道徳的にはもう資本主義が漲つて来てゐた。
喜八郎が自分の銅像を自分で建てる事は喜八郎一人の勝手だ。
しかし此の喜八郎の肖像が、麗々しく小学校の講堂にまで飾つてあるのだ。
(「自叙伝 四」/『改造』1921年12月号/『自叙伝』・改造社・1923年11月24日/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第三巻』には「幼年学校時代」と改題所収/日本図書センター『大杉栄全集 第12巻』)
大杉が新発田に来て最初に訪ねたのは、長谷川旅館のすぐそばにある万松堂という本屋だった。
十歳から十四歳のころ、大杉はこの書店のお得意さんのひとりだった。
主人の近(こん)保禄は大杉のことを覚えていた。
大杉は近から昔の友人の行方を聞いたが、近は新発田の中学校を出た者のことをよく知っていた。
万松堂書店は現在も健在である。
荻野正博『自由な空 大杉栄と明治の新発田』によれば、この本が出版された一九八八(昭和六十三)年当時の万松堂書店の主人は近進三氏、近保禄のお孫さんである。
高等小学校のころ、大杉は自宅に仲間を集めて、輪講だの演説だの作文だのの会を開いていたが、その仲間だった杉浦に会ってみた。
『自由な空 大杉栄と明治の新発田』によれば、杉浦とは杉浦慎一郎で大杉より一学年上だったが、新発田中学には大杉と同期入学である。
「自叙伝 二」(『改造』一九二一年十月号/『自叙伝』・改造社/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第三巻』には「少年時代」」と改題所収/日本図書センター『大杉栄全集 第12巻』』)によれば、地主である杉浦が大杉に、こう言ったという。
「ほかではどうか知らないが、少なくとも此の越後では農民運動は決して起りませんよ。地主と小作人とが全く主従関係で、と云ふよりも寧ろ親子の関係で、地主は十分小作人の面倒を見てゐますからね」
『自由な空 大杉栄と明治の新発田』によれば、大杉家は新発田にいた十四年間に十二回も引っ越したという。
父の家は十幾軒か引越して歩いた。
そして其の中で三四軒火事で焼けたほかには、殆ど皆な昔の儘で残つてゐた。
僕は其の家の前を、殆どその引越し順に、一々廻つて見た。
(「自叙伝 一」)
大杉が言及している「火事」とは、一八九五(明治二十八)年六月二日の夜に発生した新発田大火、通称「与茂七火事」のことで、類焼家屋二千四百余りの被害をもたらした。
大杉の父・東は日清戦争に出征中だったので、大杉一家は母・豊の指示で練兵場の大銀杏の木の下に避難した。
★『大杉栄全集 第四巻』(大杉栄全集刊行会・1926年9月8日)
★『大杉栄全集 第14巻』(日本図書センター・1995年1月25日)
★荻野正博『自由な空 大杉栄と明治の新発田』(新潟日報事業社出版部・1988年)
★『大杉栄全集 第三巻』(大杉栄全集刊行会・1925年7月15日)
★『大杉栄全集 第12巻』(日本図書センター・1995年1月25日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
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