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2016年08月24日

第332回 聖路加病院(二)






文●ツルシカズヒコ




「大杉栄の死を救う」によれば、大杉の病名がチブスと決定し、同時に気管支カタルを併発したのは、一九二一(大正十)年二月二十日だった。

「大杉栄の死を救う」には、大杉の容態の推移が詳細に記されている。

 聖路加病院の病室で野枝が一番に気にしていたのは、室温だった。

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 部屋が広いので石炭ストオブに石炭をドンドン入れても、なかなか暖まらなかった。

 左には広い部屋があり人気がなく、右は壁で壁の向こうは便所になっていた。

 向かいの部屋も二階も空き部屋だった。

 暖気がみんな天井や壁に吸われてしまうのだった。

 そして二四方くらいの大きな張り出した窓にはカーテンがついていなかった。
 
 野枝はこの窓の下半分を毛布で覆って少しでも寒さを防ぎ、一生懸命にストオブの火に注意して華氏六十度くらいの室温を保つようにした。

 しかし、室内の空気の乾燥を防ぐ方法がどうもうまくいかず、ずいぶんと気管支の方の心配もした。

 ついうっかり……が命取りになるのだ。

 野枝の緊張感は高まった。





 大杉は二月十八日の午後から、安眠のできない状態になっていた。

 野枝は大杉を安眠させるために、足音ひとつ立てないような注意を払った。

 ストオブに石炭を入れたり、灰を落としたりする際にも音を立てないように細心の注意をした。

 大杉は毎朝、自分の病気がどんな状態なのかを野枝に聞いた。


 そして、自分でもひどく病気に打ちまかされてゐることを意識してゐるように、『斯うして、たゞ病気にまけてばかりゐて長い間黙つて寝てゐるのでは仕様がない。医者に許り頼つてゐないで何んとか病気に抵抗する方法を考へなくつちや』と云ふのでした。

 ……どんな場合に、どんなものに向つても、必ず独特な意志の力で、打ち克たずにはおかないと云ふ精神のあらはれを、私は涙ぐみながら聞いたのででした。

 そして必ず、私の口から、病気の状態をすつかり聞きとるのでした。

 それから、新聞の時事問題、社会記事の主だつたものの要領を話さすのでした。


(「大杉栄の死を救う」/『野依雑誌』1921年6月号・第1巻第2号/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』_p282~283)





 野枝が最初に大杉の意識の混濁に気づいたのは、二月二十日の午後だった。

 二、三回、話の途中に突然意味不明のことを口にしたのだ。

 夕方になると眼がすっかり上ずり、顔の相がまるで変わってしまった。

 口の乾きが激しいので始終うがいをさせていたが、うがいの水を飲み込んでしまわないくらいの意識の確かさはまだあったが、「世の中にこんな気のきいた、気持ちのいいものはない」などと意味不明なことを言いながら微かな笑い顔を見せたりした。

 熱はどうしても三十九度を下まわらない。

 野枝の不安は刻々と増していった。





 夜、野枝が待ちかねていた奥山が来た。

 奥山はチブスの前途は見えてきたが、気管支カタルが肺炎になったので、その対策を講じなければならないと言った。

 大杉の生死はこの肺炎対策次第だという。

 聖路加病院に入院するまで、大杉と野枝は奥山の指示に従い、湿布で間に合わない場合は胸に氷を当てていたが、聖路加病院では氷の手当はしない方針だった。

 奥山も礼儀上、他院の方針に差し出口を挟むことはできないのだが、野枝の強い主張を受け入れて、聖路加病院のふたりの看護婦に言い含めてくれた。

 野枝が奥山の遠慮を受け入れることができなかったのは、大杉の体を動かすことを絶対に避けたかったからだ。

 体を動かすと腸出血の恐れがあった。

 二時間ごとに湿布を取り替えると、その度に多少なりとも体を動かすことになり、腸出血の危険があった。

 野枝は氷を当てるのが最上の手段だと思った。

 もし聖路加病院の医師からとがめられたら、野枝は病人が長い間こうすることを習慣にしているのだと、主張するつもりだった。





 腸チフスが進行すると腸内出血から始まって腸穿孔を起こし死に至るのだが、野枝はそれを恐れていたのだろう。

 ちなみに前年五月、岩野泡鳴は腸チブスを病み、入院中に林檎を食べて腸穿孔を起こし死去した。

 野枝の頭の中には、この泡鳴の例がインプットされていたのではないか。

 結局、湿布と氷嚢の件は、背中には湿布をすることにして、四時間ごとに取り替えることになった。


 胸には左右ともに二つづつ四つの氷嚢をあてました。

 室の空気に湿り気を与へること、吸入、と云ふ風に、一生懸命にその手当をしたのでした。

 しかし、その午後から失禁をはじめてゐましたが、それでも夕方までははづすと直ぐ気味をわるがつてしらせてゐましたのが夕方からは、それもどうやら分らなくなつて来たようでした。

 病勢はただ進んでゆくばかりでした。

 睡眠剤をやつても依然として安眠は出来ないようでした。


(「大杉栄の死を救う」/『野依雑誌』1921年6月号・第1巻第2号/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』_p284)


★『定本 伊藤野枝全集 第三巻』(學藝書林・2000年9月30日)


●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 19:04| 本文
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1955年生まれ。早稲田大学法学部卒業。『週刊SPA!』などの編集をへてフリーランスに。著書は『「週刊SPA!」黄金伝説 1988〜1995 おたくの時代を作った男』(朝日新聞出版)『秩父事件再発見』(新日本出版社)など。
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