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2016年08月24日

第333回 聖路加病院(三)






文●ツルシカズヒコ




 二月二十一日『読売新聞』五面に、「大杉栄氏 愈(いよい)よ絶望 聖路加分院で野枝子婦人等に守らる 皮肉なのは厳しい官憲の眼」という見出しの記事が載った。

「愈(いよい)よ重態に陥つた大杉栄氏」というキャプションがついた、大杉のバストアップの写真も掲載されている。

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 宿痾(しゅくあ)の肺患○り去る十五日午後有楽町露国興信所三階の仮室から伊藤野枝子夫人に援(たす)けられて築地聖路加分院第二号室に入院した大杉栄氏は爾後の容態面白からず

 入院以来三十九度乃至四十度一分の発熱と尿便失禁等があつて重態に陥りつつあつたが昨日午後から更に険悪となつて脈拍は九十前後に衰へ意識は混濁して左右両肺の結核症の外腸窒扶斯(ちぶす)を併発

 食欲無く辛じて野枝子夫人の勧める少量の牛乳・果汁・スープなどを摂つて居るが刻々危篤に傾かんとして居る

 医師の云ふ所によれば生死の程は覚つかなく両三日を経過しなければ何とも予測し得ないさうである

 昨日夜来口唇乾燥の為めグリセリンを毛筆に湿めして唇に塗つて居る程で野枝子夫人は一人枕頭に不眠不休で付添ひ看護に努めてゐる 

 因(ちなみ)に氏の容態が極めて険悪である際にも官憲の警戒は依然厳格にして築地署の警官二名乃至三名は始終氏の病室付近に接近して皮肉な警戒に務めている


(『読売新聞』1921年2月21日)





 二月二十一日の朝、大杉は病勢が進んでいたが、やはり野枝に病状を尋ねた。

 見舞いに来た人の名前も尋ねた。

 しかし、日が高くなるにつれて、また徐々に元気がなくなった。

 野枝には聖路加病院の看護婦も医者も、治すことはまったく断念してただ傍観しているように見えた。

 回診に来た医者が「非常に重体だ」「お大事に」という言葉を残して去って行った。

 野枝は悲痛な気持ちで、ジッと大杉の顔を見つめた。

 優れた意志も力も感情も、そこに横たわった大杉の体からは消え去っていた。

 強靭な精神の現われであったその顔の魅力も表情も、すっかり死んでしまっていた。

 ベッドには、ただかろうじて息をしている大杉の体が横たわっているだけだ。





 その朝、野枝は眠っている大杉のそばを離れて、窓辺で新聞を広げていた。

 すると目覚めた大杉が、声をかけた。

「野枝子……」

 野枝が返事をすると、大杉は何をしているのかと聞いた。

「あなたが眠っていらしたから、こっちで新聞を読んでいたのですよ」

「じゃあ、こっちへ来てごらんよ。眠っているときだって、そばを離れるんじゃないよ」

 大杉は微かに笑いながら低い声で冗談を言った。

 野枝も少し気持ちが軽くなり、笑いながらベッドのそばに腰を下ろした。

 その朝も大杉は新聞の主な記事について、野枝に尋ねた。


 で、私は其の頃紙面を賑はしてゐた二つの殺人事件の後報が出てゐると云つて、その事をはなしました。

 処がその二つともOは初耳のやうな顔をしました。

『何だいそれは?』

『おや、きのふも、おとついも話して上げたぢやありませんか。覚えてゐないの?』

『あゝ、覚えてないよ』

『まあ。』


(「大杉栄の死を救う」/『野依雑誌』1921年6月号・第1巻第2号/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』_p285)





 野枝は初めからおさらいするように、そのふたつの事件について話して聞かせた。

「あなたはね、昨日から少し意識が混同するのですよ。ほんのちょっとですけれども。だから、昨日のことなんかやっぱし覚えていられないのですね。あまりいろいろなことを考えてはいけませんよ」

「考えるもんか。そんなことはちゃんと心得てるよ。だが、そんなに混同するのかね。どんなことを言うんだい?」

「ええ、いろんなわからないことを、ちょいちょい言うのですよ」

 野枝はそう言って笑った。

 大杉は黙っていたが、少ししてしみじみとした調子で言った。

「病気って、いやなものだな。もうこんな大きい病気はごめんだ! まったく無力になってしまうのだからなあ。こうして寝ている僕に何が残っているんだい。ただこうして体がころがっているきりじゃないか。普段、大威張りで持っているものは、みんな今の僕にはない。意気地のないものだなあ」

 そして、何を考え出したかのか、こんなことも言った。


『これで、頭が馬鹿にでもなつて生きてはたまらないなあ。』

『本当にさうですね。でも大丈夫よ、若しあなたがそんな事にでもなるようになつたら、そんな生き恥なんかかゝないように私が殺して上げますよ。』

 私は半ば笑ひながら、でもこみ上げてくる涙をどうすることも出来ず半ば泣きながらさう答へました。

『さうだ、是非さうしてくれ。』


(「大杉栄の死を救う」/『野依雑誌』1921年6月号・第1巻第2号/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』_p286)


 もうまったく死相を呈した大杉の顔を見守りながら、野枝の眼にはひとりでに涙が湧いてきた。

 それ以上、大杉の顔を見ていることができなくなった野枝は、そっと立ち上がって窓のそばの低い椅子に深く腰を下ろした。

 ガラス戸ごしに見える庭は、殺風景な荒れ方をしていた。





 ちなみに「其の頃紙面を賑はしてゐた二つの殺人事件」のひとつは、「大杉栄重態」を報じている『読売新聞』五面のトップ記事のことであろう。

 こんな見出しが躍っている


 東海道下り寝台車中 二等客の残殺死体

 被害者は大阪の運送業者阿野徳次郎と判明し

 兇行は箱根通過の際か

 鉄道開通以来の椿事 車中で殺人され得るか

 阿野は国粋会の顔役 酒豪家で荒い気肌の男

 新富町に妾があり月数回 東京大阪間を往復してゐた


(『読売新聞』1921年2月21日)


★『定本 伊藤野枝全集 第三巻』(學藝書林・2000年9月30日)


●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 19:14| 本文
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1955年生まれ。早稲田大学法学部卒業。『週刊SPA!』などの編集をへてフリーランスに。著書は『「週刊SPA!」黄金伝説 1988〜1995 おたくの時代を作った男』(朝日新聞出版)『秩父事件再発見』(新日本出版社)など。
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