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2016年08月27日

第334回 聖路加病院(四)






文●ツルシカズヒコ




「ああしてあのベッドの上で死んでいくのだろうか?」

 野枝の頭の中は不安でいっぱいになった。

 しかし、やがて彼女の気持ちは不思議なほど澄んできた。

 二、三日前からいろいろな見舞いの葉書が届いていた。

 その中にはまったく見も知らぬ人からの、心からの祈りが記された見舞い状もあった。

 そして、野枝の脳裏に今までの大杉の生き様が浮かんできた。

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 野枝は大杉と暮らすようになってから接してきた、彼の友人たちや同志のことがいちいち脳裏に浮かんだ。

「これ限りの生命なのなら、今までの人生でも十分だけれどーー」

 野枝はとめどもなく考えた。

 もし彼が生き延びることができるとすれば、それこそ彼が一命を賭けてもやりたいような生き甲斐のある仕事も待ち受けているかもしれないのにーー。

「でもやっぱし、このまま死んでいくのだろうか?」

 残された自分や魔子のさびしさや心もとのなさが、重く立ちふさがるだろう。

「あんなに可愛がっていた魔子とも、十八日に会ったのが最後だったのかもしれない」

 野枝の眼から涙があふれ出てきた。

「だけれども、生命というものはなんという不思議なものなのだろう?」

 野枝は考え続けた。





 丈夫な人の生命が、たゞ一寸偶然の出来事で一瞬のうちに絶たれてしまふ事があるかと思へば、今にも死にさうに脅かされつゞけてゐながら、細く/\いつまでも続くと云ふような事がある。

 Oだつて、どの瞬間にあの呼吸が止まるか分らない。

 十分あとでか一時間あとでか或は今夜中もつても明日死ぬか、或は又全然たすかる事も出来るのだ。

 けれども、誰がそれを本当に知り得ることが出来ようか?


(「大杉栄の死を救う」/『野依雑誌』1921年6月号・第1巻第2号/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』_p287)


 しかし、大杉が眼を覚ますと同時に、野枝はそんな考えは棄てた。

 野枝が大杉にうがいをさせてそばに腰を下ろすと、大杉は彼女に少し話しかけた。

 野枝は絶望するのはまだ早いと思った。

 医者が見放しても、最後の最後までできるだけの看護はつくそう、それが大杉の奇跡的は快復につながるかもしれないし、死ぬ運命にあるとしてもそれがせめての思いやりであり、あきらめもつくーー野枝はそう思った。





 しかし、一九二一(大正十)年二月二十一日、その夜、聖路加病院を訪れた奥山の顔は前夜にもまして曇っていた。

 大杉はその日の夕方から、ほとんど口もきかなくなった。

 唇はすっかり干からびて、うがいくらいではおっつかなくなっていた。

 奥山が声をひそめて言った。

「非常に危険ですね、重態ですね、もうお知らせになるところには、お知らせになりましたか?」

 野枝は一瞬、体中の血が逆上するような感じがした。

 信頼している奥山のこの言葉は、野枝からすべての希望を追い出してしまった。

 しかし、我に返った野枝は不思議にも、反抗心にも似た闘争心が湧き上がってきた。

「絶対にこの重態から大杉を救い出してみせる!」

 奥山もまだ完全に諦めているようではなく、細かないいろいろな注意をしてから、

「今夜と、もうあと二、三日をどうにか切り抜けられればいいのです。ぜひ切り抜けたいものですね」

 と言い残し、十一時ごろに帰っていった。

「今夜とあと二、三日」という言葉がいっそう、野枝に不思議に力強い自信を抱かせた。

 野枝はその不思議な澄んだ気持ちを抱きながら、しばらくストオブの前に腰を下ろし、火を見つめていた。





『今夜は、どんな事があっても、私はあのいのちをつなぎとめておかねばならない。そして、明日も明後日もーー』

 突然、私は自分をふりかへつて見る機会を与えられたのでした。

 私は、とにかく一生懸命に今まで看病をして来ました。

 が、私の意志は、今日まで何をぼんやりしてゐたのでせう?

 Oは……損はれかけた意識の下にゐてさへも……病気に打ち克つ努力をしようとしたのですのに、私の心は、それを聞いても、たゞ涙ぐんだばかりでした。

 今までOの持つてゐたすべてのものは、彼自身に絶対のものであつたと同時に、私にも亦唯一のものではなかつたか?

 Oは今の此のかすかな一脈の呼吸を賭けて、病気と争つてゐるのではないか……。

 私にはたゞ病気を恐がる不安があるばかし……病気にすつかり負けてゐる事ではないだらうか?

 そして医者が負け、私まで負けてどうなるのだ?

 きつときつと病気を私の意志の力で押しかへして見せる!

 と私は心に叫びました。

 もう不安はなくなりました。

 そして、彼の死を想像する代りに、恢復のよろこびに遇はうとする努力に熱中しました。

 私は看病の上には一点の手落ちもつくるまいと努力したのでした。


(「大杉栄の死を救う」/『野依雑誌』1921年6月号・第1巻第2号/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』_p288~289)


★『定本 伊藤野枝全集 第三巻』(學藝書林・2000年9月30日)


●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 13:18| 本文
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1955年生まれ。早稲田大学法学部卒業。『週刊SPA!』などの編集をへてフリーランスに。著書は『「週刊SPA!」黄金伝説 1988〜1995 おたくの時代を作った男』(朝日新聞出版)『秩父事件再発見』(新日本出版社)など。
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