2016年08月29日
第336回 高村光太郎
文●ツルシカズヒコ
大杉が聖路加病院から退院したのは、一九二一(大正十)年三月二十八日だった。
聖路加病院に入院中であつた大杉栄氏は
廿八日午後三時退院して午後四時十六分新橋発の列車で鎌倉雪の下の住居に帰つたが
伊藤野枝 村木源次郎の両氏が付添つて保護に努めた
(『読売新聞』1921年3月29日)
「日本脱出記」によれば、大杉が入院したために上海の社会主義者との連絡が絶たれ、ヴォイチンスキー(ロシア共産党の極東責任者)が送ってくるはずだった金も入手できなかったが、「近藤憲二が僕の名で本屋から借金して来て、皆んな一緒になつてよく働いた」。
近藤栄蔵も大杉が入院中の近藤憲二の奮闘を記している。
『労運』の経営に主役をつとめた近藤憲二の奮闘ぶりは、また実に涙ぐましいものであった。
とくに大杉が病気で倒れていた間の金策のための彼の活躍は大変なものであった。
栄蔵はこれらの同志のなかに交って、歳こそ上だが運動経験においては遥か後輩として、気持よく起臥をともにし、机を向い合せて、仲よく仕事をしたものである。
(同志社大学人文科学研究所編『近藤栄蔵自伝』)
『近藤栄蔵自伝』によれば、労働運動社に対する警察官憲の警戒は厳重で、大杉個人に三名の尾行がつき、労働運動社そのものにも昼夜交代で四人の私服が、朝七時から夜十一時まで目を光らせていた。
私服は目新しい訪問者に姓名、住所、用件を訊ねて手帖にひかえた。
社員が仕事を終えて夜の散歩にでも出る際には、石塀の暗い陰にやもりか蝙蝠のようにペタリと平たく身を寄せて様子をうかがい、外出者の人数に応じてひとりかふたりが尾行してきた。
近所の風呂に行く際にも尾行がついた。
近藤憲二は金にまつわる、あるエピソードを記している。
二月か三月の寒い日であった。
神田区駿河台北甲賀町一二番地の駿台倶楽部内の労働運動社で仕事をしていると、隣りの部屋に人が来た気配がした。
声をかけても返事がない。
襖を開けると、部屋の真ん中に袴をはいたインバネスの男が立っていた。
「どなたですか?」
近藤が声をかけたが、その男は答えず無表情のまま近藤のそばへ来て、
「僕、高村光太郎です」
とだけモソモソと言って、持ってきた風呂敷包みをとき、机の上に『手』のブロンズを置いた。
「これをあなたたちにあげます。金に代えて使ってもいいですよ」
それだけ言って、その男は牛のようにヌーッとしていた。
近藤はむろん高村の名は知っていたが、初対面であり、あまりに出し抜けな話なので面喰らった。
ブロンズは、親指を少しそらし、小指をややまげたもの、そのときは知らなかったが、氏の代表作になっている『手』と同じ形、もっともそれが代表作そのものであったか、そのころ、ああいうのを幾つか作られたのか、その辺はわからない。
しかし彫刻がわかりもしない私たちがそれを貰う資格はないし、金にかえてもいいといったところで適当なところを知らないし、魂をこめて作られたものを金になりさえすればというわけにもいかぬ。
私はそういう理由を述べて、「せっかくのご厚意ですが、お断わりするのがいちばんいいと思います」といった。
氏は遠慮するなともいわず、別に話すでもなく、やはり無表情で、風呂敷に包んで帰られた。
話はそれだけ、氏の三十七、八歳のときだった。
その後逢う機会は遂になかったが、その日の氏の牛のような感じを今も思い起こす。
そういえば氏にはたしか『鈍牛の言葉』という詩があり、その中に
おれはのろまな牛(べここ)だが
じりじりまっすぐにやるばかりだ
の一節があったと記憶する。
(近藤憲二『一無政府主義者の回想』_p231)
★同志社大学人文科学研究所編『近藤栄蔵自伝』(ひえい書房・1970年1月)
★近藤憲二『一無政府主義者の回想』(平凡社・1965年6月30日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
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