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第98回 生の拡充 [2016/04/18 13:27]
文●ツルシカズヒコ
一九一三(大正二)年七月初旬。
奥山が赤城山から下山してまもなく、「緊急親展」と朱字で書かれた新妻莞からの手紙が、らいてうが滞在している赤城山の宿に届いた。
らいてうの東京の自宅から転送されて来た手紙だった。
啓 私はあなたに対して私の立場としてとった態度は、私以外の誰人が衝(あた)ろうとより外にあるまいと思われる処であったと思います。
しかしそれに対してあなたは私にどうして下されたか..
第73回 瓦斯ラムプ [2016/04/09 19:52]
文●ツルシカズヒコ
一九一三(大正二)年六月、巣鴨の保持の住居兼青鞜社事務所の庭には様々な花が咲いていた。
らいてうも、清子も、野枝もホワイトキャップに殺されずに生きていた。
関西から帰京した奥村が、曙町のらいてうの自宅を訪れたのは六月七日だった。
奥村は門の前まで来たが、入りかねて、置き手紙をポストに入れて帰った。
関西旅行から一昨日戻りました。
そして今俄に思い立ってお訪ねしたくなり、お宅の門..
第72回 円窓より [2016/04/09 13:17]
文●ツルシカズヒコ
『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』(p458~459)によれば、一九一三(大正二)年五月一日、らいてうの処女評論集『圓窓より』(東雲堂)が発行されたが、発売と同時に発禁になった。
「世の婦人達に」が収録されていたからである。
発禁理由は家族制度破戒と風俗壊乱だった。
野枝はこうコメントしている。
らいてうの「圓窓より」が禁止になりました。
私は何と云つて..
第67回 ファウスト [2016/04/02 22:09]
文●ツルシカズヒコ
奥村博史『めぐりあい 運命序曲』(p78~)によれば、奥村と声楽家の原田潤が出会ったのは一九一二(大正元)年十一月、文芸協会公演のバーナード・ショーの喜劇『二十世紀』を有楽座で観劇しているときだった。
幕間にふとしたことから言葉を交わしたふたりは、急速に親しくなり、十一月末に千葉県安房郡富浦に旅に出て、そこの漁村にしばらく滞在した。
年が明けて梅の花の散るころ、原田に電報が届いた。
近代劇協会公演..
第50回 若い燕(二) [2016/03/25 12:29]
文●ツルシカズヒコ
紅吉は奥村から届いた「絶交状」への返信を書いた。
私はけさ、広岡の家であなたの最後の手紙をみた。
それから今家に帰ってあなたからの同じ手紙を見た。
私はああした感情に走り切るあさはかな女でした。
私は是非あなたに逢いたい。
そしてこの間からの話を聞いてもらい度い。
私は広岡によって生きていました。
けれど今度のああした事柄は私をどんなに苦しめ、またどれだけ女..
第49回 若い燕(一) [2016/03/24 21:22]
文●ツルシカズヒコ
らいてうが奥村から受け取った手紙の文面は、こんなふうだった。
それは夕日の光たゆたっている国のことでした。
その国の、とある海辺の沼に二羽の可愛い鴛鴦(おしどり)が住んで居りました。
それはそれは大そう睦まじく……いつもいつも一緒でないことはありませんでした。
そして姉の鴛鴦は口癖のように《私の子供》と言っては妹鳥のことを話す程でした。
とある夏の日のことでした。
若い燕に..