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第183回 新富座 [2016/05/16 17:12]
文●ツルシカズヒコ
野枝は『中央公論』一九一六年四月号に「妾の会つた男の人人」寄稿し、森田草平、西村陽吉、岩野泡鳴について言及している。
同誌前号に野枝が寄稿した「妾の会つた男の人々」(野依秀一、中村孤月印象録)の続編なのだろう。
一九一三(大正二)年の二月四日から三月六日まで、新富座で鴈治郎の『椀久』の公演があった。
野枝は哥津と保持と一緒に見に行った。
野枝と保持は先に新富座に着き、哥津が来るのが待ったが..
第110回 読売婦人附録 [2016/04/23 13:15]
文●ツルシカズヒコ
一九一四(大正三)年、保持研子(よしこ)がこの年の『青鞜』五月号を最後に青鞜社を去り、創刊時の発起人はらいてうただひとりになった。
『青鞜』八月号が保持の結婚の報を伝えている。
白雨氏……結婚、小野氏と改名。社の事務は全くとられないことになりました。
(「編輯室より」/『青鞜』1914年8月号・第4巻第8号)
「白雨」は保持のペンネームであるが、結婚相手の小野東は南湖院に入院していた患者..
第84回 ドストエフスキイ [2016/04/15 18:57]
文●ツルシカズヒコ
一九一三(大正二)年六月二十六日、その日の朝、野枝は疲れていたのでかなり遅く目を覚ました。
野枝はこの日もまた校正かと思うとウンザリした。
しかし、今朝は手紙が来ていないのでのびのびとしたような気持ちになり、辻に昨日、岩野清子と築地や銀座を歩いたことなどを話した。
野枝は昨日と一昨日に書いた手紙を入れた封筒を持って出て、それをポストに入れた。
野枝は苦しい手紙を書いたことが遠い遠いことのよ..
第76回 中央新聞 [2016/04/11 21:49]
文●ツルシカズヒコ
野枝が木村荘太からの手紙を、青鞜社事務所で受け取ったのは、六月十三日の朝だった。
野枝がこの日、青鞜社事務所に来たのはこの日が金曜日であり、金曜日は読者と交流を持つ日だったからであろう。
野枝はこの日のことを、らいてう(R)に宛てる手紙文スタイルで、こう書いている。
R様 こないだの金曜日はゐらつしやるかと思つて待つてゐました。
私は午前から行つてゐました。
小母さんといろい..
第75回 魔の宴 [2016/04/11 20:10]
文●ツルシカズヒコ
一九一三(大正二)年五月十六日。
雨が降る中、若い男が北豊島郡巣鴨町の青鞜社事務所を訪れた。
男の名は木村荘太。
荘太は応対した保持に野枝との面会を請うたが、野枝は不在だった。
野枝はその後二、三回、事務所に行ったが、保持は荘太が来たことを忘れてしまっていたので、野枝には伝えなかった。
らいてうは荘太が青鞜社を訪れたときのことを、こう書いている。
五月の或雨..
第71回 ホワイトキヤツプ [2016/04/07 22:20]
文●ツルシカズヒコ
一九一三(大正二)年四月、青鞜社の事務所は本郷区駒込蓬萊町の万年山(まんねんざん)勝林寺から、東京府北豊島郡巣鴨町大字巣鴨一一六三の借家に移転した。
『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』(p457)によれば、南湖院の仕事を辞めて青鞜社の仕事に専心することになった、保持の住居の確保のためであり、そして「青鞜」が新聞種になり来訪する新聞記者が多くなり、勝林寺の住職からやんわり立ち退きを言い渡されたから..