2016年05月16日
第183回 新富座
文●ツルシカズヒコ
野枝は『中央公論』一九一六年四月号に「妾の会つた男の人人」寄稿し、森田草平、西村陽吉、岩野泡鳴について言及している。
同誌前号に野枝が寄稿した「妾の会つた男の人々」(野依秀一、中村孤月印象録)の続編なのだろう。
一九一三(大正二)年の二月四日から三月六日まで、新富座で鴈治郎の『椀久』の公演があった。
野枝は哥津と保持と一緒に見に行った。
野枝と保持は先に新富座に着き、哥津が来るのが待ったが、哥津はなかなか来ない。
哥津が来たときには満席になっていて、三人の座る席がなくなっていた。
なんとか出方あつかいで三人は二階の帳場に席を得た。
幕間に保持の座っている前にヌーッと立った男が、保持に訊いた。
「酒を飲む所は何処です」
「知りません」
ひどくぶっきらぼうにそう答えた保持が、ハッとしたように顔を真っ赤にした。
野枝が廊下に出て行くその男の後ろ姿をぼんやり見ていると、保持が野枝の方を向いて言った。
「ちょっと、あの人、森田さんよ」
「森田さんって誰よ?」
「ほら、草平って人よ、平塚さんのーー」
「へえ、あの人が、まあ」
野枝はびっくりして廊下の方を見たときには、すでに森田の姿はなかった。
野枝がびっくりしたのは、想像していた森田と実物の森田があまりに違っていたからだ。
このときの印象をもとに、野枝は森田について書いた。
何処から何処までキチンとして、何処をつついてもピンとした手ごたへのありさうに思はれる、しつかりした態度、あの意志を十分に現はした額、深い眼、ーーを持つた平塚さんの対照としては、あまりに意想外でした。
ボワツとしたしまりのない大きな体軀、しまりのない唇、それ丈けでも、充分に、平塚さんに侮蔑される価値はあります。
何処から見ても……低能の人にしか見えません。
何時か生田先生がお話なすつたやうに、芝居気を最初に出したのはあの間抜けた草平氏で己惚(うぬぼれ)にちがひないし、面白がつて、一緒に踊つたのは平塚さんのいたづらつ気と、ものずきで、幕切れのぶざま加減は草平氏の臆病と平塚さんの悧巧にちがひない。
これは平塚さんよりもずつとお人よしだと云ふことであります。
同時にまた、いくら好奇でも、あの人の何処が平塚さんを引きつけたのだらうと不思議な気がしました。
「平塚さんは唇の紅い人がすきなのですよ。御覧なさい、草平氏、陽吉氏、博氏、皆鮮かな色をした唇をもつた人達ばかりですよ」
これはたしか紅吉(?)の口から何時か聞いた言葉だと思ひますが、それにしても草平氏の紅い唇はあのボワツとした顔を一層だらけた、とり処のないものにする丈けのやうな気がします。
(「妾の会つた男の人人」/『中央公論』1916年4月号・第31年第4号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p342~343)
西村陽吉についてはこう書いた。
「石橋を叩いて渡る人」と云ふ称号を青鞜社の同人から貰つてゐることを御本人は御承知かどうか知りませんが、非常に用心深いことはその物越で直ぐ分りません。
何時でも平で、何時でも何かもくろんで深く包んでおくと云ふ風に見えますけれどもこの人の聡明は直ぐと他人に感づかれる聡明です。
併し「若い人には珍らしい」と必ず老人には喜ばれる聡明です。
利害の念を離れては何もない人と思はれます。
一しきりは大分、江戸ツ子を気取つてゐましたが私はまだ氏の江戸ツ子らしい処を見たことがない。
江戸ツ子よばはりして江戸ツ子らしからぬ処は岩野清子氏と同じです。
物事に淡白でない、執念深くて、あきらめが悪いーー物を云つても煮えきらず、江戸ツ子のやうにデキパキと白い黒いがつかぬ所が第一、最もこれは商人にとつては一番大事な事と思はれますが、一向煮えきらぬことを云ひ/\相手を焦(じ)らすことに妙を得てゐます。
云ひたいことを皆云つて仕舞ふことが出来ない。
まつすぐに口がきけない。
そのあげくに云ふ事は洗練された江戸ツ子の皮肉でなくて、むつとする嫌味です。
何処をどうさがしても江戸ツ子らしいスツキリしたところがない。
どうしても商売上手な勘定高くて他の気持にさぐりを入れて話をする上方(かみがた)者です。
この頃ではまあご苦労様な社会主義者顔!
生活々々と「生活と芸術」で悧巧ぶつて大変な労働でもしてゐるやうな顔がをかしい。
他人の労作をもとでに商売をしてもうけながら、その上に恩を着せたがるこの若い商人が社会主義者面!はどう考へてもあんまり他人を茶にしてゐるとしか思へません。
「俺は金持でもこう云ふ風に貧乏人の心持も、それから同情することも知つてゐるぞ、おまけに立派な理窟までちやんと知つてゐる。世間の金持のやうに無智ではないぞ」
と云ふ意味があるのではないでせうか?
心に巧をもつてゐる人程落ちつきはらつてゐます。
(妾の会つた男の人人」/『中央公論』1916年4月号・第31年第4号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p343~344)
西村は一九一二年九月から一九一三年十月まで『青鞜』の発売所を引き受けた東雲堂書店の若主人。
『生活と芸術』は一九一三年九月、西村が発行名義人になり土岐哀果の責任編集で東雲堂書店から創刊され、一九一六年六月まで続いた。
岩野泡鳴は当時、新しい恋人蒲原房枝との恋愛、同棲により岩野清子と別居したことが世間の注目を集めていた。
赤黒い人テカ/\光る顔、話がおもしろくなつて来ると大きな鼻の穴を一層ひろげて、出来る丈け口を開けて四辺(あたり)の人を呑んでしまうやうな声を出して笑ふ泡鳴氏は小胆な正直者であります。
「そとづらの悪い人」と「うちづらの悪い人」とがあります。
泡鳴氏は「そとづら」の悪い人の部類に属する人です。
従つて「うちづら」は誠に神妙な人であるやうに見かけます。
私たちが折々岩野さんのお宅に伺つて一番心を引かれたことは泡鳴氏が清子さんに対しては如何にもをとなしい、優しい旦那様であつたと云ふことでです。
泡鳴氏の感化らしいものを清子さんに見出すのはむづかしい事でありましても、清子さんの感化だとすぐ気がつくことが泡鳴氏の方には可なりありました。
家の中では泡鳴氏よりも清子さんの権力の方が勝を占めてゐるやうでした。
併し外に向つてはあくまで強情我慢を云ひ出したことはどんな屁理屈であらうとも一歩も後には引かぬと云つたやうな泡鳴氏の半面、さう云ふ点があり得ると云ふことは不思議な事でなくてはなりません。
泡鳴氏は大変人を後輩あつかひにしたがる人です。
併し如何なる場合にも清子さんを丁寧に扱ふことだけは決して忘れはなさらなかつた事丈けは事実です。
この点では清子さんは非常に幸福な人ではなかつたでせうか。
外に向つて岩野泡鳴氏を推したてると同時に岩野清子氏を推賞しました。
他人はこれを笑ひました。
けれども泡鳴氏には毫もこれは笑事ではありませんでした。
非常に真面目な事なのでありました。
それでこそ今だに清子さんには、二目(もく)も三目も置いてゐるのです。
世間へ出ては出来る丈け大きな顔をしてえらがりたい泡鳴氏が清子さんにからおどしをされたり、腕をまくられたりしながらどうする事も出来ないのはそのせいです。
泡鳴氏はたゞ単純な、えらがり屋であります。
何時でも具足に身をかためて真向から人を睨(ね)めつけてゐます。
処が具足をとれば何でもないたゞの人よりは余程よはい木つ葉武者なのです。
(妾の会つた男の人人」/『中央公論』1916年4月号・第31年第4号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p344~345)
★『定本 伊藤野枝全集 第二巻』(學藝書林・2000年5月31日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
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