記事
第297回 スパイ [2016/07/17 16:21]
文●ツルシカズヒコ
荒木郁子と野枝は『青鞜』時代の仲間だったが、郁子の姉・滋子によると、荒木一家が営んでいた神田区三崎町の旅館、玉名館に野枝は大杉と魔子を連れて時々遊びに来ていたという。
魔子が三つか四つのころだというから、魔子が数え年で三つとは一九一九(大正八)年のころだろうか。
失(な)くなった岩野泡鳴さんとも、よく私のうちで、落合ふこともありました。
あんなにお互いの主義の違つた方々でしたのに、いつ..
第241回 伊藤野枝論 [2016/06/05 15:27]
文●ツルシカズヒコ
『新日本』一九一七(大正六)年七月号・八月号に平塚明「伊藤野枝さんの歩かれた道」が掲載された。
『新日本』はらいてうに「伊藤野枝論」を書いてほしかったのだという。
『新日本』は野枝が同誌四月号に寄稿した「平塚明子論」の対になるものを、らいてうに寄稿してほしかったのだろうが、らいてうはそれをやりたくなかったので、野枝が歩んで来た道を自分の知っている範囲内の事実によって書いたという。
らいてうが「伊藤野..
第210回 ポワンチュの髯 [2016/05/23 16:15]
文●ツルシカズヒコ
岩野泡鳴は一九一六(大正五)年十月十二日の日記に、こう書いている。
十月十二日。雨。大杉氏、野枝氏と共に来訪。
(「巣鴨日記」/『泡鳴全集 第十二巻』)
大杉と野枝は泡鳴に借金の申し込みに行ったと推測される。
『日録・大杉栄伝』によれば、大杉と野枝が麹町区三番町六四の下宿・第一福四万館を出て、本郷区菊坂町八二の菊富士ホテルに移ったのは十月十五日だった。
ふたりで三十..
第183回 新富座 [2016/05/16 17:12]
文●ツルシカズヒコ
野枝は『中央公論』一九一六年四月号に「妾の会つた男の人人」寄稿し、森田草平、西村陽吉、岩野泡鳴について言及している。
同誌前号に野枝が寄稿した「妾の会つた男の人々」(野依秀一、中村孤月印象録)の続編なのだろう。
一九一三(大正二)年の二月四日から三月六日まで、新富座で鴈治郎の『椀久』の公演があった。
野枝は哥津と保持と一緒に見に行った。
野枝と保持は先に新富座に着き、哥津が来るのが待ったが..
第173回 戦禍 [2016/05/14 18:27]
文●ツルシカズヒコ
野枝は石炭を運ぶ肉体労働者について『青鞜』にも書いた。
……貯炭場に働いている仲仕たちーー仲仕と云へば非常に荒くれた人たちを想像せずにはゐられないけれど此処に働いてゐるのはこの土地の人たちばかりでそんなに素性の悪いやうな人たちは少しもいない。
そしてその中には女もまぢつてゐる。
その人たちのうごかすシヨベルの音が絶え間なく私の家の中まで聞こえて来ます。
それは夜私たちが眠つてゐる間も続..
第69回 国府津(こうづ) [2016/04/04 12:01]
文●ツルシカズヒコ
『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』(p449~450)によれば、 一九一三(大正二)年三月、前年暮れの岡本かの子の処女歌集『かろきねたみ』を青鞜叢書第一編として出版したのに引き続き、『青鞜小説集』が第二編として東雲堂から発行された。
社員の小笠原貞子の自画自刻の装幀本で、野上弥生子ら青鞜女流作家十八名の作品が収録されている。
しかし、青鞜の講演会は反響を呼んだが、新聞の無責任な記事による..