2016年05月14日
第173回 戦禍
文●ツルシカズヒコ
野枝は石炭を運ぶ肉体労働者について『青鞜』にも書いた。
……貯炭場に働いている仲仕たちーー仲仕と云へば非常に荒くれた人たちを想像せずにはゐられないけれど此処に働いてゐるのはこの土地の人たちばかりでそんなに素性の悪いやうな人たちは少しもいない。
そしてその中には女もまぢつてゐる。
その人たちのうごかすシヨベルの音が絶え間なく私の家の中まで聞こえて来ます。
それは夜私たちが眠つてゐる間も続けられて居る。
私たちが何時目をさまして見てもその炭をすくふ音がしんとした空気を動かして居る。
二十分間位に炭車が小さな機関車に引かれて二輛三輛づゝ一ぱいに掘り出されたばかりの石炭をつんでは持つて来る。
それをうつしておいて此度は其処の桟橋についてゐる船の中にその石炭をかつぎ込むのが彼(あ)の人達の仕事なのだ。
私たちの目からはそれは/\過激すぎる程の労働だ。
けれども彼の人達はそれを楽しさうにしてゐる。
私は何時でも青い海と真黒な石炭の山を背景にして一生懸命に働きながら何の苦悶もなささうに他人のうはさに没頭しながら其日々々を送つてゐる人々を見る度に如何なる差異が安易な彼の人たちの生活と苦渋の多いもがいてゐるような自分たちの生活との間にあるかを考へずにはゐられない。
(「断章」/『青鞜』1915年11月号・第5巻10号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p275)
『青鞜』十一月号に斎賀琴子「戦禍」が載った。
前年七月に第一次世界大戦が勃発していた。
『青鞜』誌上にはこの戦争に関する言及がほとんどなかったが、「戦渦」はこの戦争に触れた反戦的文章だった。
……現在世界の先進国と呼ばれる国々が互ひに干戈(かんか)を交ふる事一年余、いつと云ふ平和の見込みもつきかねます今日では、戦争の残酷さと、直接、間接に及ぼす災害の莫大な事を考へますと、同時に所謂文明の恩沢とか科学の貢献とか申すことを疑りたくなって参ります。
何故に人類は多額の費用と時と智識とを無益にして徒らな殺生に耽るのでせうか!
誰で御座ゐましたか「もし婦人が戦場に立つたらば戦争は止むであらう、婦人は戦争の惨禍を見るに忍びない」と申しましたがまつたく左様で御座ゐませう……母たる資格のある婦人は決して戦陣に立つて血を見る事は出来まいと存じます。
(斎賀琴「戦渦」/『青鞜』1915年11月号・第5巻10号_p)
『中央公論』十月号に岩野清子「双棲と寡居」が掲載された。
それは泡鳴との双棲をやめて別居をする清子の決意表明だった。
『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』によれば、ことの起こりには『青鞜』の地方社員、蒲原房江が介在していた。
蒲原は新潟の小学校教師だったが、職場が青鞜運動に無理解なので職を捨て上京、青鞜社を頼り職を求めていた。
それをらいてうが清子に話すと、泡鳴がちょうど『プルターク英雄伝』の筆記者を求めていたので、清子を通じて蒲原がその仕事に就いた。
やがて泡鳴と蒲原が不貞の関係になり、泡鳴との双棲に不満を募らせていた清子が、この一事をきっかけに別居を決行したのである。
別居はするが離婚はしないというのが清子の考えであるが、らいてうはそれを納得できないと書いている。
清子が離婚をしない理由は、まだふたりの間に愛があるからでもなく、泡鳴が清子の方に戻ってくる可能性があるからでもなく、離婚すると清子が経済的に不利になるからでもなかった。
清子の意図は法律上の「妻の位置」の擁護で、それは清子個人の問題ではなくすべての妻の権利の主張だった。
これはもう清子さんにとっては、愛情の問題ではなくなっていたのです。
……恋愛中心の結婚についての、清子さん自身の日ごろの主張や、泡鳴氏と結婚生活にはいるときの約束が、もし泡鳴氏が少しでも他の女性に愛を分けるならば、そのときが二人の愛の生活の最後であるーーというようなことを聞いているわたくしには、なにか割りきれないものがそこにあるのでした。
(『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』_p576~577)
清子の別居が決行されたのは一九一五(大正四)年八月だった。
泡鳴が家を出て蒲原と同居した。
泡鳴とその前妻の子である薫(小学生)、泡鳴と清子の間の子である民雄(前年二月生)は清子の方についた。
子供の毎月の養育費(二十五円)の仕送りを泡鳴が怠ったので、清子は泡鳴に同居請求の訴訟を起こした。
これに対して泡鳴は離婚請求の反訴をしたが却下され、「泡鳴は清子と請求通り同棲すべし」という判決が下り、清子の勝訴となった。
清子はこの後、法律上の離婚要求をして離婚が成立した。
薫は父の家に返され、泡鳴には民雄の養育費を支払う義務が課せられたが、泡鳴はそれを履行しなかった。
『中央公論』十月号に載った岩野清子「双棲と寡居」を読んだ野枝は、黙ってはいられず、ペンを執り原稿用紙に向かった。
氏は第一にその結婚が悪闘の苦しい歴史だったと云つてゐられる。
併しこの述懐は私達にとつては奇異なものでなければならない。
何故なら若し自意識も何もない女が在来のいろ/\な情実から結婚をして或る動機をもつて意識した時にその過去をふり返つての述懐ならばそれは同情すべきであるし同感も出来る。
併し結婚の最初において既に立派な自意識をもつて事を運んだ氏の述懐としてはこれは不思議なものでなければならぬ。
(「岩野清子氏の『双棲と寡居』について」/『第三帝国』1915年11月1日・第56号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p280)
★『定本 伊藤野枝全集 第二巻』(學藝書林・2000年5月31日)
★『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』(大月書店・1971年9月6日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
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