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2016年07月17日

第297回 スパイ






文●ツルシカズヒコ




 荒木郁子と野枝は『青鞜』時代の仲間だったが、郁子の姉・滋子によると、荒木一家が営んでいた神田区三崎町の旅館、玉名館に野枝は大杉と魔子を連れて時々遊びに来ていたという。

 魔子が三つか四つのころだというから、魔子が数え年で三つとは一九一九(大正八)年のころだろうか。

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 失(な)くなった岩野泡鳴さんとも、よく私のうちで、落合ふこともありました。

 あんなにお互いの主義の違つた方々でしたのに、いつも、一緒に、トランプや花合せなどして、四五時間遊び続けてしまうことも、よくありました。

 岩野さんは例の調子で、声高に物を迎有(おつしや)るし、Oさんは静かに、調子を落着けて話をなさる、魔子さんが、トランプの札を掻き廻しに来るのを、野枝さんは、お母さんらしい鷹揚さでなだめて、魔子さんの持つてゐる餡子(あんこ)で、懐中(ふところじゆう)汚されても、大して気にもならないやうなのを私は、感心して見てゐたことがあります。

 その頃を限りに、野枝さんとは、逢ふことがありませんでした。

 魔子さんを乗せた乳母車を押して行く尾行連れの大杉さんの後から、私と門口(かどぐち)での一寸の立ち話しに遅れた野枝さんが追うて行く姿が、今更ながら、想ひに浮びます。


(荒木滋子「あの時の野枝さん」/『婦人公論』1923年11月・12月合併号)





 岩野泡鳴は翌一九二〇(大正九)年五月、腸チブスを病み東京帝国大学医学部附属病院に入院中に、林檎を食べて大腸穿孔を起こし死去した。

 荒木滋子には魔子と同じ生年の道子という娘がいた。

 大杉一家が玉名館を訪れた際、魔子と道子はふたりで遊んだことだろう。

 荒木道子はのちに文学座研究所に入り、女優としてデビューすることになる。

 道子の息子が、『空に星があるように』で一九六六(昭和四十一)年第八回日本レコード大賞新人賞を受賞した荒木一郎である。





 近藤憲二『一無政府主義者の回想』によれば、一九一九(大正八)年十二月、暮れもだいぶ押し詰まったころだった。

 本郷区駒込曙町の労働運動社から、和田久太郎は二歳の魔子を乳母車に乗せて外出した。

 乳母車を持ち出した理由のひとつは、子守りと見せかけて尾行をまくためだった。

 電車道で振り返ると、尾行はついていない。

 和田はそのまま乳母車を押して下谷区上野桜木町の有吉三吉の家まで行った。

 大杉一派の集会が有吉宅で行なわれたりするほど、当時の社会主義者の間での有吉への信用は確かなものだった。

 有吉はそのころ自宅でゴムマリに花の絵を描く仕事をしていた。

 おもちゃ屋に出すのである。

「おい、いるかね?」

 和田はいつものように上がり込んだ。

 「よ〜う……」

 有吉は振り返っただけで、手を休めなかった。

「今夜また大阪に行こうと思うんだ」

「幾時の汽車だ?」

「八時ごろの見当でいるがね」

 和田はそのころ労働運動社の関西支局を受け持っていた。

「ところがね」

 和田は声をひそめて言った。

「いつか預けておいた『労働運動の哲学』をもらっていく。みんな出してくれないか。大阪でもだいぶ集まるようになったから、読ませようと思うんだ」

『労働運動の哲学』は大杉の著作で、西村陽吉の東雲堂書店から出版されたが、発行と同時に発売禁止になっていた。

 和田はいろんな話をしてから、有吉の家を出た。
 
 乳母車の底には本がぎっしり詰まっていた。

 その日の夕方、和田は尾行をまき、大きな風呂敷包みをかついで東京駅に現われた。

 手荷物にしようとして、扱所まで行くと、突然「おいッ!」と声をかけられた。





 和田君はギラリと眼鏡を光らせてふり返った。

 洋服の男が三人いる。

 和田君はちょっと狼狽の色を見せた。

「おいッ、ちょっとこちらへこい、その荷物を持ってくるんだ!」

 一人の洋服は、もう包みに手をかけていた。

 和田君はかみつくように怒鳴った。

「よけいなお世話だ、荷物を預けるのがどうしたというんだ!」

 荷物をはさんで開けろ開けないのおし問答がはじまった。

 駅の係員も、居合わせた人たちも、なり行きを見つめていた。

 やがて和田君は駅のそとまでつれ出された。

「人のいるとこがいやなら、ここで開けろ!」

 ずんぐりしたのが居たけ高になった。

「開ける必要はない、これは蒲団だ!」

「蒲団なら開けて見せたっていいじゃないか。ね、和田君」

 こんどは別のがなだめるようにいった。

「いや、開ける必要はない!」

「開けろといったら開けろ! いやにもったいぶりやがって!」

「いや、必要はない!」

「じゃ、開けるぞ!」

「おれは承知しない!」

 和田君は腕組みしたまま立っていた。

 なかは、和田君のいったとおり蒲団だった。

 そして、蒲団のなかにまるめこまれていたのは、なんと、おびただしくよごれた一枚の褌だった。

 和田君はニヤリと皮肉な笑いを浮かべた。

「そういうものを、ひと様の前でひるがえされるのは恥辱だからね」

「野郎、うまく引っかかりやがった」

 和田君は曙町に引き返してきていった。

 これは、当時一部の仲間の間に有吉の奴くさいぞといわれていた問題を解決するために、和田君がうった芝居だったのである。


(近藤憲二『一無政府主義者の回想』_p97~98)





 大杉豊『日録・大杉栄伝』によれば、年が明けた一九二〇(大正九)年一月一日、労働運動同盟会の例会が開かれた若林やよ宅で、有吉三吉が中村還一を刺すという事件が起きた。

 有吉が中村を刺したのは、中村が有吉をスパイだとする風評を流した恨みからだった。

 労働運動同盟会は、各地の同志に有吉が間諜であることを通知し、有吉との関係を絶った。




★近藤憲二『一無政府主義者の回想』(平凡社・1965年6月30日)

★大杉豊『日録・大杉栄伝』(社会評論社・2009年9月16日)



●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 16:21| 本文
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1955年生まれ。早稲田大学法学部卒業。『週刊SPA!』などの編集をへてフリーランスに。著書は『「週刊SPA!」黄金伝説 1988〜1995 おたくの時代を作った男』(朝日新聞出版)『秩父事件再発見』(新日本出版社)など。
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