2016年07月19日
第298回 豊多摩監獄(二)
文●ツルシカズヒコ
『労働運動』一次三号が発行されたのは、一九二〇(大正九)年一月一日だった。
同号の「御断はり」(『大杉栄全集 第四巻』/『大杉栄全集 第14巻』)によれば、十二月に出すべきものが一月になったのは、印刷所の都合がつかなかったからで、信友会のストの影響も発行を遅らせることになった。
結局、十二月号を休刊にして一月号を出すことになり、頁数は八頁増の二十頁にした。
同号には「又当分例の別荘へ行つて来ます」という大杉の「入獄の辞」(『大杉栄全集 第四巻』/『大杉栄全集 第14巻』)も掲載されている。
野枝は同号に「婦人労働者の罷工」「罷工婦人等と語る」「消息其他」を書いている。
「婦人労働者の罷工」では、博文館印刷所、日本書籍、東京書籍の罷工、および信友会を中心とする活版工の八時間制要求の同盟罷工に、婦人労働者が含まれていることに注目している。
「罷工婦人等と語る」は『新公論』一九一九年十二月号に寄稿した「婦人労働者の現在」とほぼ同様の内容だが、この取材について、野枝はこう記している。
……今号で婦人活版工諸氏が今回の罷工によつて示された態度について紹介する事が出来たのは非常な光栄だと思ひます。
此の頃では世間の風潮につれて、婦人界でも労働問題が彼是(あれこれ)議論されるようになり、私共が思ひもよらない方面の婦人雑誌でさへ盛んに書き立てるやうになつたのです、処がその総てが、一様に今回の婦人活版工の罷工に対して何んの態度も表明せずに、世間同様に黙殺し去つた不誠実さは私の憤懣に堪へないものであります。
(「消息其他」/『労働運動』1920年1月1日・第1次第3号/學藝書林『伊藤野枝全集 下巻』に初収録/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』_p121)
「消息其他」には、他にこんな記述もある。
■山川菊栄氏は現在では一番有力な婦人労働者の味方ですが、つい先達まで読売新聞の婦人附録の寄稿家でした。
が、氏の寄稿されたものが少しも発表されないでので聞いて見ると氏が婦人労働問題ばかり書き送られるので新聞社では、自分の方には労働問題は不向きだから、大学解放問題でも書いて欲しいと云つて今迄氏の書かれたものを発表しないのださうです。
氏は早速寄稿を拒絶されました。
■友愛会婦人部の記者市川房枝氏が入社後一ケ月で辞職されました。委(くは)しい事は婦人画報新年号で発表されるとの事です。
(「消息其他」/『労働運動』1920年1月1日・第1次第3号/學藝書林『伊藤野枝全集 下巻』に初収録/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』_p121)
市川房枝は、前年十一月十四日、政府代表夫人顧問・田中孝子の随員に山内みなを推したことが、友愛会内部で問題となり、責任をとって婦人部書記を辞任、友愛会も退会した。
一月、大杉は豊多摩監獄から野枝に手紙を書いた。
此の五日から漸く寒気凛烈。
そろ/\監獄気分になつて来た。
例の通り終日慄えて、歯をガタガタ云はせながら、それでもまだ風一つひかない。
朝晩の冷水摩擦と、暇さえあればの屈伸法とで奮闘してゐる。
(『労働運動』1920年2月号・1次4号・「豊多摩監獄から」/『大杉栄全集 第四巻』・「獄中消息 豊多摩から」・【伊藤野枝宛・大正九年一月十一日】/大杉栄研究会編『大杉栄書簡集』/『大杉栄全集 第13巻』)
檻房は見晴らしもちょっといい南向きの二階で、天気がよければ一日中、陽が入り、毎日二時間の日向ぼっこもできた。
この、日向ぼつこで、どれだけ助かるか知れない。
此の監獄の造りは、今まで居た何処のと一寸違ふが、西洋の本ではお馴染の、あのベルクマンの本の中にある絵、その儘のものだ。
まだ新しいのできれいで気持ちがいい。
(『労働運動』1920年2月号・1次4号・「豊多摩監獄から」/『大杉栄全集 第四巻』・「獄中消息 豊多摩から」・【伊藤野枝宛・大正九年一月十一日】/大杉栄研究会編『大杉栄書簡集』/『大杉栄全集 第13巻』)
『中野のまちと刑務所』によれば、豊多摩郡野方村新井・沼袋の丘陵地に、豊多摩監獄の新獄舎が完成したのは一九一五(大正四)年。
敷地は市谷の3倍、収容人員は4倍。
近代的な総レンガ造り、周囲約1q。
その高塀もすべて赤レンガ。
男子受刑者を拘禁するのを目的に建てられたものであった。
近隣はまだ人家もまばらで、緑の田園の中に真新しい赤レンガの獄舎が、崇高なたたずまいをみせていた。
その建築群は、やさしくおだやかで、内実にみちており、若き設計者後藤慶二はまたたく間に天才建築家として注目を浴びる。
(『中野のまちと刑務所』_p10)
なお、豊多摩監獄は1922(大正11)年に豊多摩刑務所に名を改める。
大杉が収監されたのは十字舎房の二階である。
大杉の獄中での作業は煙草と一緒にもらう小さなマツチの箱張りだった。
……本所の東栄社と云ふ、丁度オヤヂと僕の合名会社のやうな名のだ《僕のオヤヂは大杉東と云つた》。
一日に九百個ばかり造らなければならぬのだが、未だその三分の一も出来ない。
それでも、今日までで、二千近くは造つたらう。
一寸オツな仕事だ。
若し諸君がマヅイ出来のを見つけたら、それは僕の作だと思つてくれ。
(『労働運動』1920年2月号・1次4号・「豊多摩監獄から」/『大杉栄全集 第四巻』・「獄中消息 豊多摩から」・【伊藤野枝宛・大正九年一月十一日】/大杉栄研究会編『大杉栄書簡集』/『大杉栄全集 第13巻』)
朝七時に起きて、午前午後三時間半ずつ仕事をして、夜業が三時間半、寝るのは九時。
前年に差し入れられた本は年内に読んでしまい、新しい本の差し入れを催促している。
……此の正月の休みは字引を読んでくらした。
何分もう幾度も監獄へお伴して来てゐる字引なので、何処を開けて見ても一向珍らしくない。
あとを早く。
(『労働運動』1920年2月号・1次4号・「豊多摩監獄から」/『大杉栄全集 第四巻』・「獄中消息 豊多摩から」・【伊藤野枝宛・大正九年一月十一日】/大杉栄研究会編『大杉栄書簡集』/『大杉栄全集 第13巻』)
大杉は二女の誕生を看守長からの伝言で知った。
馬鹿に早かつたもんだね。
僕がはいつた翌日とは驚いたね。
母子共に無事だと云ふことだが、其後はいかが。
早く無事な顔を見たいから、そとでが出来るやうになつたら、すぐ面会に来てくれ。
子供の名は、どうもいいのが浮んで来ない。
これは一任しよう。
(『労働運動』1920年2月号・1次4号・「豊多摩監獄から」/『大杉栄全集 第四巻』・「獄中消息 豊多摩から」・【伊藤野枝宛・大正九年一月十一日】/大杉栄研究会編『大杉栄書簡集』/『大杉栄全集 第13巻』)
野枝はエマ・ゴールドマンにちなんでエマと名づけた。
大杉は魔子や雑誌についても言及している。
魔子はパパちやんを探さないか。
尤もあいつはいろんな伯父さんがよく出て来たりゐなくなつたりするのに馴れてゐるから、左程でもないかも知れんが。
いいおみやを持つて帰るからと、さう云つて置いてくれ。
雑誌(労働運動)はいかがか。
新年号は無事だつたかな。
とにかくもうかれこれ、二月号の編輯になるね。
けふは日曜、午後から仕事が休みなので、此の手紙書きで暮した。
何分筆がいいので、書くのに骨が折れてね。
さよなら。
(『労働運動』1920年2月号・1次4号・「豊多摩監獄から」/『大杉栄全集 第四巻』・「獄中消息 豊多摩から」・【伊藤野枝宛・大正九年一月十一日】/大杉栄研究会編『大杉栄書簡集』/『大杉栄全集 第13巻』)
※旧中野刑務所
★『大杉栄全集 第四巻』(大杉栄全集刊行会・1926年9月8日)
★『大杉栄全集 第14巻』(日本図書センター・1995年1月25日)
★『定本 伊藤野枝全集 第三巻』(學藝書林・2000年9月30日)
★『大杉栄全集 第13巻』(日本図書センター・1995年1月25日)
★『中野のまちと刑務所 中野刑務所発祥から水と緑の公園まで』(學藝書林・1984年3月31日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
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