2016年07月17日
第296回 豊多摩監獄(一)
文●ツルシカズヒコ
一九一九(大正八)年十一月八日と九日の午後、野枝は神田区錦町の貸席、松本亭を訪れた。
貸席は今で言えば、イベント会場などに使用される貸しホールである。
日本印刷工組合信友会を中心とする活版工諸組合が、労働八時間制を要求して同盟罷工をしている渦中だった。
罷工の中心となっている三秀舎は、信友会の組合員である婦人活版工たちの組織だったが、松本亭にその事務所を置いていた。
十一月八日は信友会が「八時間労働制」を要求して同盟罷工に入ってから十二日目だった。
そしてこの日の午後、組合と資本家との最初の会見が行なわれることになっていたが、前日から罷工破りが出始めていた。
野枝は松本亭を訪れ、三秀舎などの婦人活版工たちから話を聞き、そのリポートを書いた。
『ーーでも皆さん男の方とは違つて、いろんな面倒な事情もおありでせうに、よくこんな長い事結束をお続けになれましたはね』
挨拶がすむと、私は斯んな風に話しかけた。
『いゝえそんなに仰しやられるとお恥かしいんです。折角彼方此方で皆さんが応援して下さいますのに、私共の方で昨日から工場に出た人がございますさうで、本当に真先きにこんな事になつてどちらにも申訳けがありません。せめて今日の資本家側との会見がすむまで待つて下さればよかつたんですけれど』
聞いて見ると、男子側は八十人、婦人側は三人と云ふ数の人が裏切つたのだつた。
私は竹の皮に包んだ二つの大きなおむすびを貰つて皆んなの仲間にはいつてたべた。
そして夕方までおしやべりをしてゐた。
其処で聞いた話では、其の人達の現在の労働時間は朝七時から晩の七時までの十二時間と云ふ長い時間で其の上に食事時間の休みもろくに与へられずに終日立ち通しの労働だと云ふ。
殊に女には特別な生理状態の時もあれば妊娠と云ふ大事もある。
聞いて見ると妊娠中などは恐い程足がむくんだりひきつつたりするし、体の冷える事も確かにひどいらしい。
『随分乱暴ですね……男の人達は……さう云ふ女の特別な事までは分らないでせうから、そんな事は女だけで相談してどん/\要求するんですね、腰掛けを貰ふとか、床に敷物を敷いて貰ふとか。ぢや、妊娠中なんて云つても何んにも特別な保護なんぞはしてくれないのですね。出産の際やなんかでもーー』
『えゝ、そんな事してくれるものですか。妊娠中だらうが何んだらうが、重いものは持たせるし、高い処には上らせるし……』
婦人達は猶斯う云つてゐた。
『曾つては朝七時から夜十一時すぎるまで働く事を普通と考へてゐた事がある。現在の日曜毎の休みも私達には夢のようにしか思へなかつた程思ひもよらない事だつたのだ。本当に私達は楽に働けるようにしようなどゝは考へた事もなかつた。けども考へて見ると、私達は出来るだけ楽に働けるようにつとめなければならない。工場で現在の労働時間が八時間に短縮されても或は半分になつてくれても、自分達には決して短かすぎはしない。家庭の仕事を考へれば、私達はそれでやつと息づぎが出来る位のものだ』と。
勿論文明はいろんな家庭内の雑務を省く為めの便利な設備や方法を教へてはくれる。
けれどもそれもつまりは経済問題に関係して来る事で、さう云ふ文明の利器を駆使するには、労働階級はあまりに貧乏すぎ無知すぎる。
そして此等文明の有難さは、一番怠惰な生活をしてゐる女達に時間がありあまり、最も忙しい生活をしてゐる女達を一層過労に墜(おと)し入れると云ふ奇妙な現象を呈せしめる。
此の人達とは僅かに半日づゝ二日ゐたきりだつた。
けれども……日本の婦人労働者の上に、たしかに一道の光明を見出すことが出来た。
私は現在の知識階級の婦人達が自惚れてゐるように、或は押人売(おしう)りする同情には頼らないでも、もう暫く後には婦人労働者自身の力強い解放運動が実現される事を信ずる。
(「婦人労働者の現在」/「『新公論』1919年12月号・第○巻12号/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』_p112~115)
野枝はこの時の取材を元に、『労働運動』(一九二〇年一月一日・一次三号)に「罷工婦人等と語る」(『定本 伊藤野枝全集 第三巻』)を寄稿したが、内容は「婦人労働者の現在」とほぼ同じである。
ちなみに、このとき松本亭の女将をやっていた松本フミは加賀まりこの祖母である。
十二月十八日、大審院で尾行巡査殴打事件の上告が棄却され、懲役三ヶ月が確定した大杉は、十二月二十三日に東京監獄に収監され、翌日、豊多摩監獄に下獄した。
このときの警視庁警務部刑事課長・正力松太郎について、大杉はこう書いてる。
……僕を詐欺だの、家宅侵入だのと勝手な事をぬかして、引張つては放し、引張つては放して、とうたう傷害罪の古傷でぶちこんだ……男です。
(「一網打尽説」/『東京毎日新聞』1921年9月15、16、18日/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』/日本図書センター『大杉栄全集 第14巻』)
十二月二十四日、野枝は二女を出産した。
大杉が収監された十二月二十三日、野枝は服部浜次の「日比谷洋服店」に寄り、大杉と面会するために裁判所まで歩いて行ったが、歩くのがすごく苦しかった。
裁判所からの帰りもいっそう体のアガキがつかないので、また「日比谷洋服店」に寄って休んでから、帰宅した。
夕飯をすませると、労働運動社の社員たちは『労働運動』三号の校正を始めたが、野枝は気分が悪いので蒲団に横になった。
すると、一時間もたたぬうちにお腹が痛み出した。
二時間ばかり経過を見て、夜の十時半すぎに安藤さん(産婆)に電話連絡をすると、安藤さんは助手を連れて来てくれた。
此の前と同じ経過で、何時までたつても駄目なんです。
お産婆さんは二人とも、私のおなかの上につつぷして眠つてばかりゐるのです。
私は苦しくて本当に何と云つていいか分りませんでした。
痛んで来るごとに、私は眼をつぶつては頭の中一ぱいにあなたの顔を見つめて、ぢつと自分の胸を抱いては苦しみを忍んでゐました。
すると二度ばかり不意にひどい痛みが来ました。
本当に目がくらむやうでした。
すると、三度目に子供は出たのです。
(【大正九年一月三十一日・豊多摩監獄へ】・「消息 伊藤」・大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』/「書簡 大杉栄宛」一九二〇年一月三十一日・『定本 伊藤野枝全集 第三巻』_p131)
この手紙の書き出しは「中野に落ちついたさうですね。でも、昨日(一月二十八日/筆者註)近藤(憲二)さんに行つて頂いて様子も分りましたので安心しました。御起居いかに。寒さは随分きびしさうですね。東京とは十度も違ひますとの事、さぞかしとお察し致します」である。
東京市内からすると、当時の豊多摩郡中野の郊外感がよく伝わる文面である。
和田久太郎はこのころの野枝を、こう評している。
大正八年……曙町へ移つて同志と共に第一次の月刊『労働運動』を発行してゐた頃は実に真剣だつた。
信友会の行つた『八時間制要求』のストライキに応援して、解版(かいはん)女工さん達と焚出しや何にかに尽くしたのも此の頃だ。
又、その年の十二月に大杉君が入獄して、直ぐその翌日次女の『サチ』を産み落したのだが、産後の疲れもいとはずよく原稿料も稼いだし、大杉君への差入れや何にや彼(か)やと眼覚ましく立ち廻つた。
『労働運動』にも多くの紙面を受持つて書いてくれた。
(和田久太郎「僕の見た野枝さん」/『婦人公論』1923年11月・12月合併号)
※加賀まりこ
※中野刑務所
★『定本 伊藤野枝全集 第三巻』(學藝書林・2000年9月30日)
★『大杉栄全集 第四巻』(大杉栄全集刊行会・1926年9月8日)
★『大杉栄全集 第14巻』(日本図書センター・1995年1月25日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
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