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第112回 妙義神社 [2016/04/23 20:07]
文●ツルシカズヒコ
一九一四(大正三)年六月、らいてうと奥村は北豊島郡巣鴨町一一六三番地から、北豊島郡巣鴨町上駒込四一一番地に引っ越した。
青鞜社の事務所の住所もここに移ったことになる。
野枝の家とは道路ひとつ隔てた妙義神社前の貸家だった。
野枝が家事の苦手ならいてうに、炊事を引き受けてもよいと申し出たからである。
らいてうが月十円の実費を持ち、野枝のところに昼と夜の食事をしに行くことになった。
そのころ..
第105回 羽二重餅 [2016/04/20 22:20]
文●ツルシカズヒコ
『青鞜』一九一三(大正二)年十二月号で野枝は沼波瓊音(ぬなみ・けいおん)著『芭蕉の臨終』を紹介している。
先月あたりから私には落ちついて物をよむ暇はなかつた。
今月になつて、よう/\第一に手にしたのがこの「芭蕉の臨終」だつた。
そうして私は、それを近頃になくしんみりとうれしく読むことが出来た。
(「芭蕉の臨終」/『青鞜』1913年12月号・第3巻第12号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p45..
第98回 生の拡充 [2016/04/18 13:27]
文●ツルシカズヒコ
一九一三(大正二)年七月初旬。
奥山が赤城山から下山してまもなく、「緊急親展」と朱字で書かれた新妻莞からの手紙が、らいてうが滞在している赤城山の宿に届いた。
らいてうの東京の自宅から転送されて来た手紙だった。
啓 私はあなたに対して私の立場としてとった態度は、私以外の誰人が衝(あた)ろうとより外にあるまいと思われる処であったと思います。
しかしそれに対してあなたは私にどうして下されたか..
第97回 赤城山 [2016/04/18 11:53]
文●ツルシカズヒコ
一九一三(大正二)年六月末、らいてうは奥村博と新緑の赤城山に出かけた。
『青鞜』七月号の文祥堂での校正にらいちょうが不在だったのは、この赤城行のためである。
新緑の赤城の風景のすばらしさについては、らいてうは長沼智恵子から聞いていた。
野枝は『青鞜』七月号に、こう書いている。
らいてうは此の号の編輯をすますと同時に廿六日の夕方東京を立つて旅に出ました。
多分行先は赤城だら..
第93回 絵葉書 [2016/04/17 17:14]
文●ツルシカズヒコ
一九一三(大正二)年七月一日。
野枝は前夜の疲れと頭痛のために昼ごろまで寝ていた。
昼ごろ起きて机の前に座り、辻が帰るまでに自分の気持ちを書いておこうとしたが、なかなか書けなかったので、今宿の父のところに手紙を書いた。
机の上に見覚えのない絵葉書があったので裏返すと、奥村博と赤城山に滞在中のらいてうからだった。
長閑(のどか)な景色の絵を見ていると、緊張していた神経が緩んでボンヤリしてしま..
第73回 瓦斯ラムプ [2016/04/09 19:52]
文●ツルシカズヒコ
一九一三(大正二)年六月、巣鴨の保持の住居兼青鞜社事務所の庭には様々な花が咲いていた。
らいてうも、清子も、野枝もホワイトキャップに殺されずに生きていた。
関西から帰京した奥村が、曙町のらいてうの自宅を訪れたのは六月七日だった。
奥村は門の前まで来たが、入りかねて、置き手紙をポストに入れて帰った。
関西旅行から一昨日戻りました。
そして今俄に思い立ってお訪ねしたくなり、お宅の門..