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2016年04月17日

第93回 絵葉書






文●ツルシカズヒコ



 一九一三(大正二)年七月一日。

 野枝は前夜の疲れと頭痛のために昼ごろまで寝ていた。

 昼ごろ起きて机の前に座り、辻が帰るまでに自分の気持ちを書いておこうとしたが、なかなか書けなかったので、今宿の父のところに手紙を書いた。

 机の上に見覚えのない絵葉書があったので裏返すと、奥村博と赤城山に滞在中のらいてうからだった。

 長閑(のどか)な景色の絵を見ていると、緊張していた神経が緩んでボンヤリしてしまった。

 野枝はらいてうに返信の葉書を書き始めた。

noe000_banner01.jpg


 おはがきうれしく拝見。

 随分待ちました。

 校正は廿六日にすみました。

 あなたからたのまれた事は廿五日に文祥堂に岩野さんが見えましたので話しました。

 雑誌がまだ出来ないので出来しだいHさんの処へお送りしやうと思つてゐます。

 私もこの頃例の事件で苦しめられてゐるのです。

 私はどうしていゝか分らない。

 ずいぶん困つた事になつたのです。

 私は身のおき場もないやうなんです。

 本当に困つたことになりました。


(「動揺」/『青鞜』1913年8月号・3巻8号/『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』_p242~243/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p68~69)





「H」はらいてうのこと。

 ここまで書くと、野枝は急に調子が軽くなって、なんだか他人のローマンスでも盗んで誇張して話してゐるやうな気持ちになり、後を続けた。


 私の目からは今のTもKもおんなじやうに真面目であり、そしてパツシヨネイトな点に於ては変らないのです。

 そして、TとKとが相互に理解し合つて明るい感情をもってゐるだけ私が一番苦しい処にたつてゐます。

 殊にKの周囲が極端に緊張してゐるせひか、Kの感激が非常なものです。

 Tはたヾだまつて私を見てゐます。

 私はTとはなれるといふ事は大変な大問題です。

 Kを拒む事にも努力を要します。

 然し解決は非常に急ぐのです。

 多分あなたが山からお降りになる頃は片がついてゐるでせう。

 私も山へでも逃げ出し度くなりました。

 あの絵葉書は大変気に入りました。

 閑古鳥のなくのはまだ一度も聞いた事がありません。

 いゝはなしを沢山に願ひます。

 さよなら。


(「動揺」/『青鞜』1913年8月号・3巻8号/『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』_p243~244/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p69)





「T」は辻で「K」は木村荘太のことである。

 こういう気持ちで書いたものを辻に見せたくなかったので、野枝はすぐに出しに行こうかと思ったが、体がだるかったので横になった。

 野枝が今宿の父に手紙を書いたその心理について、らいてうはこう書いている。


 野枝さんは……T氏との自由恋愛を遂げんが為め、背いて来たその親に、かうした時、かうした心でふと手紙を書く気になつた悲しい、淋しい、空虚を感じてゐる野枝さんの苦しい心持が無暗に可哀相なやうな気がして出来ることなら相談相手にでも出かけたいやうな気持になつた。

 ふだんは潜んで分らずにゐた親子間の愛情の微妙な働きを思はせられた。


(平塚らいてう「『動揺』に現はれたる野枝さん」/『青鞜』1913年11月号_p100)





 辻がきつい顔をして夕方、帰って来た。

 辻と恒と三人でご飯を食べている間も、辻の眼は冷たく光っていた。

 野枝は辻のよそよそしさが口惜しく、これが自分の恋人なのかと思うと、情けなくなった。

 不味いご飯をすまして、野枝は先刻の郵便を出そうと思い、らいてうに宛てた葉書を懐にしまい、父に宛てた手紙を持って出ようとした。

 辻がどこへ出すのだと咎めた。

 野枝はその手紙を黙って辻に示すと、辻は自分の手に取って開こうとした。

「何も書いてありはしません」

 と言って野枝はそれを取り返して、すたすた台所を通って裏から外へ出ようとした。

 下駄をはこうとしている野枝を辻が追いすがって来て、野枝の手を取るやいなやズルズル引きずり込んだ。

 野枝は意地にも渡すまいとしたが、辻はその手紙を野枝の手からもぎ取った。

 野枝はそこにのめったまま大声で泣いた。

 野枝の目から涙が湧くように流れ落ちた。

 そこからまた辻は野枝を部屋まで引きずり入れた。





 野枝は今にも息が止まりそうになり、水を飲ませてもらったが、涙が後か後から湧くように流れた。

 野枝の感情が少し静まりかけたころ、辻は野枝の懐にあったらいてう宛ての葉書を見つけ出した。

 読み終えた辻が言った。


「僕は昨日からちつとも明るい気持ちでなんかゐないよ。僕は昨夜から苦しくつてたまらないのだ。」

 と、震えを帯びたたまらなさうな腹立声で叩きつけるやうな言葉つきなのです。

「おい、これから木村の処へ行かう」と云ひ出すのです。

 私の頭の中は何が何だか分らなくなつてしまひました。

 私は紙と鉛筆をとつてもらつて、

「あなたをはなれては私は生きられない。」

 と書きました。

「だからこれから木村の処へ行つてはつきりした態度を見せてこやう。」

「あしたの晩まで待つて下さい。」

「おまえの昨夜の態度はどうだつたのか。」

「私は何にも別に云ひません。殆んどだまつてゐました。そして、私はあなたに対するが愛が少しも虚偽でない事を明言して来ました。」

「兎に角これを読んでくれ。僕は苦しくてたまらないんだ。」

 とTは白紙に鉛筆で細かく書いたものを渡しました。


(「動揺」/『青鞜』1913年8月号・3巻8号/『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』_p245~246/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p70~71)




★『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』(大杉栄全集刊行会・1925年12月8日)

★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)




●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index




posted by kazuhikotsurushi2 at 17:14| 本文
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1955年生まれ。早稲田大学法学部卒業。『週刊SPA!』などの編集をへてフリーランスに。著書は『「週刊SPA!」黄金伝説 1988〜1995 おたくの時代を作った男』(朝日新聞出版)『秩父事件再発見』(新日本出版社)など。
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