2016年05月16日
第182回 福岡の女
文●ツルシカズヒコ
『中央公論』一九一六年三月号(第三十一年三号)に、野枝は「妾の会つた男の人々(野依秀一、中村狐月印象録)」を書いた。
野依は当時「秀一」であり、後に「秀市」と改名した。
野枝の上野女学校時代の恩師、西原和治が創刊した『地上』第一巻第二号(一九一六年三月二十日)に、野枝は「西原先生と私の学校生活」を寄稿したが、野枝がこの原稿を脱稿したのは二月二十三日だった。
フリーラブ問題が起きたころに執筆したのである。
この原稿の中にこんな一文がある。
創刊号に何か書かして頂く筈になつて居りましたけれども、それは私自身の勝手な都合の為めに遂に先生の御厚意にそむかなければなりませんでした、で此度は思ひ出すまゝに此処に書いて見ようと思ひます。
(堀切利高『野枝さんをさがして』_p24)
『野枝さんをさがして』によれば、『地上』創刊号は一九一六年二月二十五日発行なので、原稿の締め切りは一月末ごろだろう。
このころ、野枝は『青鞜』二月号(終刊号)の編集をやり、『大阪毎日新聞』では「雑音」の連載を抱え、かつ二歳と生後二ヶ月のふたりの幼児の母でもあった。
西原の厚意に応えたい気持ちはあっても、『地上』の原稿にまで手が回らなかったのだろう。
『廿世紀』四月号に「福岡県評論」と題する記事が載り、野枝も白河鯉洋(しらかわ・りよう)、頭山満、堺利彦、宮崎湖処子(みやざき・こしょし)などに交じり「福岡の女」を寄稿した。
●福岡県の女は佐賀県や、熊本県の同性のやうに、海外に密航して浅ましい生活するのは少いやうですが、小学校や、女学校を出た後、米国などへ行つて人の妻となり、健全な家庭を作つてゐるのは、少くはないやうです、殊に私の生れた糸島郡などは、此の米国行きの婦人は大変なものです。
●今は其の地にゐるかどうか知りませんが、以前浦塩お徳といつて、洗濯屋か何かをして、ウラジヲストツクで成功した婦人があります、此の人がやはり福岡県の人なのです。
●福岡県といつても豊前、筑前、筑後、皆其の性格が違い、其の区別が著しいやうに思はれます、豊前は上方の気風を受け、筑前は多血質、筑後は粘着質とでもいゝましやうか。
●豊前や筑後は好く存じませんが、筑前殊に福岡は鷹揚な人が多い、久留米などのこせ/\した気性に比ぶれば余程男らしい処があります。博多は芸人の多い処で三味線のうまい魚屋とか、踊のうまい酒屋とかいふのはザラにあります。
●其処で大阪の役者などは博多で芝居をするのは非常に骨が折れるさうで、博多の人は眼が肥えてゐるから、役者のアラはすぐ見破ることが出来るのです、一たいで博多は大阪の感化を受けるのは非常なものですが、人は快活で、潤達で、東京人に類似して大阪人と反対です。
(「福岡の女」/『廿世紀』1916年4月号・第3巻第2号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p347)
野枝は『一大帝国』一九一六年四月一日号には「英雄と婦人」を書いた。
日常の些細なことにも婦人の行為に対する不満は数かぎりなくありますが、殊に従来英雄偉人と云はれる人と生活を頒つた婦人に対しては更に深い不満を私は持ちます。
これは婦人の物を考へる力が非常に外面的であつて其の上に綿密でないからだと思ひます。
(「英雄と婦人」/『一大帝国』1916年4月1日・第1巻第2号/堀切利高『野枝さんをさがして』_p46)
筆者名は「青鞜社 伊藤野枝」と記されている。
『青鞜』はすでに終刊しているのに、肩書きに「青鞜社」とあるのはなぜか?
『青鞜』は一九一六(大正五)年二月号(第六巻第二号)で終刊したが、終刊宣言をしたわけではなく、いわゆる野垂れ死に終わったので、青鞜社の終焉がまだ衆知されていなかったからではないかと、「英雄と婦人」の解題は憶測している。
『一大帝国』は一大帝国社発行、その発行兼編輯人兼印刷人は橋本徹馬。
★堀切利高編著『野枝さんをさがして 定本 伊藤野枝全集 補遺・資料・解説』(學藝書林・2013年5月29日)
★『定本 伊藤野枝全集 第二巻』(學藝書林・2000年5月31日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
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