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2016年05月16日

第181回 厚顔無恥






文●ツルシカズヒコ



 大杉豊『日録・大杉栄伝』によれば、大杉、神近、野枝の三人が会ったのは二月中旬ころだった。

 大杉の書いた「お化を見た話」によれば、大杉は神近から絶縁状を受け取った。

「もし本当に私を思っていてくれるのなら、今後もうお互いに顔を合わせないようにしてくれ。では、永遠にさよなら」というような、内容だった。

 大杉はすぐに逗子から上京し、神近の家を訪れた。

 彼女は大杉の顔を見るや、泣いてただ「帰れ、帰れ」と叫ぶのみで、大杉は話のしようもなかった。

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 大杉はすぐ神近が懇意にしている宮嶋資夫、麗子(うらこ)夫妻の家に行った。

 前夜、神近が来て酔っぱらい、あばれ、大杉のことを「だました! だました!」と罵ったという。

 そこへ、しばらくして、神近がやって来た。

 大杉が会ったときとは別人のように落ち着いた様子の彼女が、大杉に勝利者のような態度で言った。

「私、あなたを殺すことに決心しましたから」

 大杉は神近に敵意が湧いて来るのを感じたが、受け流した。

「せめてひと息で死ぬように殺してくれ」

「その時になって卑怯なまねをしないようにね」

 そんな言葉を交わしているうちに、ふたりの顔には微笑がもれ、仲直りをした。

 宮嶋資夫「予の観たる大杉事件の真相」(『新社会』一九一七年一月号・第三巻第五号/『宮嶋資夫著作集 第六巻』)によれば、大杉が宮嶋の家に来た日、大杉は宮嶋の家に泊まった。

 翌朝、神近が宮嶋の家を訪れ、大杉と顔を合わせた彼女は大杉に怒りをぶつけたが、言葉を交わしているうちにふたりの仲は融和された。





 宮嶋の家で朝食をすませた大杉と神近は、ふたりでどこかへ出かけるという。

 宮嶋は電車の駅までふたりを見送りに行った。

 大杉、神近、宮嶋が駅で電車を待っていると、向こう側の電車が止まり、野枝が電車から降りて来た。

 大杉、神近、野枝の三人が話し合いをするために、一行は再び宮嶋の家に行った。

 そこで大杉が持ち出したのが「自由恋愛の三条件」だった。

 神近も野枝もそれに納得したわけではなかったが、異議は唱えなかった。

 神近は大杉との恋愛が戻ることへの計算が働き、野枝は逆に大杉との距離を保つ方途としての計算が働いたようだ。

 野枝は「数日前に日比谷で接吻をした事はほんの出来心だつたからと云ふので、大杉君に断つて貰ひたいと思つて」宮嶋の家を訪れたという。





 そのころの大杉について、堀保子はこう書いている。


 ……二月の初めになつた頃、或日大杉は私に向つて斯んな事を言ひだしました。

『僕はマダ/\ひどい事をしてゐる。何れ問題になつて三月か四月の新聞や雑誌に書かれるかも知れない』といふのです。

 すると二三日経つて、大杉に宛てゝ無名の郵便が来ました。

 大杉は其を読了つてから『今から一寸東京へやつて頂けますまいか、明日は必らず午前中に帰る……』と紙切に書いて……出かけました。

(今考へると……神近が大杉と野枝の関係を知つて、刺すとか撃つとかいつて騒いでゐた時です。そして無名の手紙は神近のだつたと私は思ひます。)


(堀保子「大杉と別れるまで」/『中央公論』1917年3月号_p9~10)





 大杉は翌日帰宅したが、保子は大杉の尾行巡査から、大杉が前日辻の家、つまり野枝のところに行ったと聞き、彼女の胸は急に躍った。

 保子はなぜ辻の家を訪ねたのかと大杉に問いただした。


 ……大杉は初め曖昧な返事をして居ましたが、私がすぐそれに続いて、『先日あなたはまだ/\酷い事があると云つたが、それぢや今度は野枝ですね』追究(ママ)したので、大杉も初めて野枝との関係を白状しました。

 私は神近の時の驚きよりも幾層倍の強き驚きを感じましたが、驚きが過ぎて只呆れたと云つた方がもつと適切かも知れません。

『野枝さんは良人のある女です。二人の子さへある人の妻です。未婚の伊藤野枝でなく既婚の辻野枝です。あなたは姦通をしてゐるのです。法律の罪は別としてあなたは自分の心に恥ぢないか』と、私は頭から捲(まく)し立てゝやりました。

 すると、神近の時には涙を流して罪を謝した大杉が、今度はどうでせう、少しも恥ぢた色がないのみならず、『ウム急転直下自分で自分の心が判らぬ』といつたきり、例の癖の楽書に『厚顔無恥』『厚顔無恥』と続けさまに書いたりして、サモ平気でゐるのでした。


(堀保子「大杉と別れるまで」/『中央公論』1917年3月号_p10~11)





 保子はとりあえず大杉と別居することにして、三月三日、四谷区南伊賀町四十二の借家に転居した。

 山田嘉吉・わか夫妻の東隣り、茅ケ崎に転居したらいてうが二月まで住んでいた家である。

 らいてうがこの家から茅ケ崎に引っ越したのは、二月十一日だった。

 前年九月に奥村が肺結核を発病し、南湖院に入院中だったので、奥村のそばで生活するための移転だった。

 この年(一九一六年)の夏が終わるころ、奥村の自宅療養の許可が出たので奥村は南湖院を退院、らいてう一家は茅ケ崎の「人参湯」という湯屋の廊下続きの離れ座敷を借りて住むことになる。

 三月五日、弁護士の山崎今朝弥の家で関係者が大杉と保子の離婚協議をした。

 大杉が別居だけを望んだこともあり、保子もそれを承認した。

 大杉が麹町区三番町六十四(現・千代田区九段北四・二・一)の下宿、第一福四萬館に転居したのは、三月九日だった。

 第一福四萬館には大杉の友人、福富菁児(ふくとみ・せいじ)が下宿していたことがあり、大杉はその存在を知っていたのである。

 しばらくは保子がやって来て、衣類や洗濯物など身の回りの世話をした。

 大杉はほとんど収入の道がなくなり、窮乏を極めていた。

 ときどき来る神近に借金をしていたが、下宿代も払えなくなった。



★大杉豊『日録・大杉栄伝』(社会評論社・2009年9月16日)


★『宮嶋資夫著作集 第六巻』



●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 14:22| 本文
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1955年生まれ。早稲田大学法学部卒業。『週刊SPA!』などの編集をへてフリーランスに。著書は『「週刊SPA!」黄金伝説 1988〜1995 おたくの時代を作った男』(朝日新聞出版)『秩父事件再発見』(新日本出版社)など。
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