2016年04月23日
第110回 読売婦人附録
文●ツルシカズヒコ
一九一四(大正三)年、保持研子(よしこ)がこの年の『青鞜』五月号を最後に青鞜社を去り、創刊時の発起人はらいてうただひとりになった。
『青鞜』八月号が保持の結婚の報を伝えている。
白雨氏……結婚、小野氏と改名。社の事務は全くとられないことになりました。
(「編輯室より」/『青鞜』1914年8月号・第4巻第8号)
「白雨」は保持のペンネームであるが、結婚相手の小野東は南湖院に入院していた患者で、二年前の夏に馬入川(ばにゅうがわ)で船遊びした際に棹をさばいた回復期の元気な青年だった。
『青鞜』の発行所の尚文堂が四月号を最後に手を引き、発行所は再び東京堂に戻った。
『青鞜』の売れ行きは落ちていった。
『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』によれば、保持はひとまず郷里に帰り、青鞜社事務所はらいてうの自宅に置かれた。
『青鞜』に関する一切の仕事が、らいてうひとりの肩にかかるようになった。
……ひとりで駆け歩いていた書店との交渉も、みんな不調に終わり……。
毎日毎日、雑用に追いまくられるおもいで、五月、六月、七月、八月と号を重ねてどうにかやってはゆきましたものの、自分の原稿も書かねばならないというあわただしさに加えて、毎月の欠損を、自分たちの生活とともに心配してゆかねばなりません。
「青鞜」の発行部数は、東雲堂時代を頂点に、だんだん下り坂に向かう一方ですが、以前のように欠損はみんな母に押し付けるわけにはもうゆきません。
静かな自分の時間をもちたい、静かに考えたい、静かに読み、静かに書きたいーーこのままでは、自分自身の心の世界が失われてしまいそうだと、わたくしはおそれずにはいられませんでした。
(『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』_p545)
野枝は保持が関わるようになったころの『青鞜』について、こう書いている。
……社の……新らしい計画のために職を辞して来たY氏……が内部で働かれることになつたのですが氏のともすれば感情に依つてのみ人を知らうとする態度は書店との交渉に何時も嫌はれ勝ちでした。
そうして経営の方面にY氏がかゝつて私がそれを手伝ひ平塚氏を助けて小林氏が編輯をすることになりました。
けれどもその頃からもうもとのまゝの発行部数では少し多いと考へられるやうになりました。
さうして私と小林氏は専ら書くことになつて一と先づ編輯の手伝ひ経営の手伝ひも止めて仕舞ひました。
(「『青鞜』を引き継ぐに就いて」/『青鞜』1915年1月号・第5巻第1号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p149)
『青鞜』一九一四年三月号に野枝が書いた「編輯室より」が掲載されているが、以後、しばらく野枝は「編輯室より」を書いていないので、野枝が「編輯の手伝ひ経営の手伝ひも止めて」いたのは、この年の春から夏ごろにかけてだろう。
野枝はその間について、こう書いている。
その間可なり社の事情とは遠くなつてゐましたのでよくは知りません。
けれど平塚氏とY氏の間に何かのことがあつたらしいことは察せられます。
種々の折衝があつた後平塚氏が一人で経営されることになりました。
で経営の困難とその上たつた一人で何から何まで小面倒な仕事を執ると云ふことは……平塚氏にとつてどの位辛かつたかと云ふ事は私にも充分お察しが出来ます。
そしてそれは殆ど半年間続きました。
私は氏のその仕事に出来る丈けのお手伝ひはしたいと思ひましたけれど……子供のこと家のことに大半の時間を割かれそしてなを喰べることの労苦にも服しなければならないと云ふやう忙しい生活の中からとてもお手伝ひが出来さうにも思はれませんでした。
(「『青鞜』を引き継ぐに就いて」/『青鞜』1915年1月号・第5巻第1号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p149~150)
野枝は『青鞜』五月号に以下の原稿を書いた。
●「西川文子氏の『婦人解放論』を読む」
一九一三(大正二)年三月一日、西川文子、木村駒子、宮崎光子によって新真婦人会が創立され、同年四月に三人の合著『新らしき女の行く可き道』がを刊行された。
同年五月に雑誌『新真婦人』創刊され、西川文子『婦人解放論』が刊行されたのは一九一四(大正三)年二月だった。
野枝の訳著『婦人解放の悲劇』が刊行されたのは、『婦人解放論』が刊行された翌月だった。
野枝としては「婦人解放」について有意義な批評をするつもりだったが、「読んで行くに従つて論文と云ふやうな厳格なものを読んでゐるのではなくありふれた婦人雑誌の経験談」を読まされているような気持ちになり、批評する気にはならなくなった。
そして、こう批判した。
浅薄な皮相な新しいものに向つての理解を旧いものに向つて結びつけやうとする著者の態度は私共にとつて呪ふべきものである。半理解ーーこれほどいやなものはない。
旧いものは旧い者で徹底すれば其処に矢張り意義が生れて来る。
新しいものを往く処まで往けば基が築ける力が出て来る。
そして後の正々堂々たる本当の火花を散らしての生命と生命の戦こそ私達を真実に強くするものなのだ。
(「西川文子氏の『婦人解放論』を読む」/『青鞜』1914年5月号・第4巻第5号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p69)
●「読んだものの評と最近雑想」
『読売新聞』は一九一四(大正三)年四月、小橋三四子(こばし・みよこ)を編輯主任にして、与謝野晶子と田村俊子を社員として迎え「婦人附録」を設けた。
「婦人附録」は一九一九年に「よみうり婦人欄」となる。
『読売新聞』に新設された「婦人附録」を読んだ野枝は、こう批判している。
……この頃大分世間でも婦人問題と云ふ言葉を聞くやうになつたので少し注意して見ると、どれも/\実に愚劣なことばかり云つてゐ。
近く読売新聞に婦人附録が附くやうになつた。
私達はそれで世間の人たちが非常に婦人問題と云ふものに対しての考へが間違つてゐる事を知つた。
殆んどすべて私達とはずつと違つたいゝ加減な考へを持つてゐるらしい。
果たして婦人問題があんな人々の云ふやうな浅い処から出たものならば八毛ケ間敷(やかまし)くさはぎ立てる必要はない。
私は婦人附録の最初に出た、今日本で最も女子教育などに影響を及ぼす重要な地位にゐる人々の婦人に対する定見のないことおよびその無責任さ加減に呆れてしまつた。
馬鹿々々しくなつた。
皆すべて新らしきものに対して無理解であると云はれることを恐れるかのやうに、流行の言葉を用ひ而(しこう)して流行の新らしい女のことに云ひ及ぼしてゐる。
併しその云ふ処の根本の思想は、依然として個性を無視した道徳から一歩も出てはゐない。
やがてそれは読売婦人附録の態度であるとも云へる。
何と云ふ不徹底な沸(に)えきらない編輯振りであらう。
私達は本当に自己の智識や内生活をもっと/\充実させて今に/\本当のムーヴメントを起して根底からあゝ云ふ愚劣な思想を覆へさなけばならない。
私達は世間に出て本当にえらい者になる前に先(ま)づ自己に対して、真実な勇者であらねばならない。
(「読んだものの評と最近雑想」/『青鞜』1914年5月号・第4巻第5号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p73~74)
「読んだものの評と最近雑想」によれば、野枝は『文章世界』と『中央公論』を読んでみた。
『文章世界』では大家である正宗白鳥と田山花袋のエッセイはつまらないと評し、長田秀雄(ながた・ひでお)の喜劇「妊婦授産所」、小山内薫「蒲公英の花」を評価している。
『中央公論』では田村俊子「炮烙(ほうらく)の刑」を高く評価している。
……私が今まで読んだ同氏のものゝ中ではすぐれたものゝ一つであると信じる。
(「読んだものの評と最近雑想」/『青鞜』1914年5月号・第4巻第5号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p75)
★『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』(大月書店・1971年9月6日)
★『定本 伊藤野枝全集 第二巻』(學藝書林・2000年5月31日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
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