2016年04月11日
第75回 魔の宴
文●ツルシカズヒコ
一九一三(大正二)年五月十六日。
雨が降る中、若い男が北豊島郡巣鴨町の青鞜社事務所を訪れた。
男の名は木村荘太。
荘太は応対した保持に野枝との面会を請うたが、野枝は不在だった。
野枝はその後二、三回、事務所に行ったが、保持は荘太が来たことを忘れてしまっていたので、野枝には伝えなかった。
らいてうは荘太が青鞜社を訪れたときのことを、こう書いている。
五月の或雨降りの金曜日に私は小母さんと事務所で話しをしてゐると、玄関の方に人が来た。
取次ぎに出て戻つて来た小母さんは木村といふ人が野枝さんに逢ひたいと云つて来たのだと云つた。
そしてそれは若い書生風の男だといふことだつた。
けれど私達は野枝さんからついぞそんな姓の人のことを聞いた覚えもないので、いづれ例の紹介もなしに、又これといふ用事もなしにとりとめもない好奇心から訪問しに来る青年の一人だらう位に思つてそれなり忘れて仕舞つた。
(平塚らいてう「『動揺』に現はれたる野枝さん」/『青鞜』1913年11月号・3巻11号_p84~85)
荘太は野枝に興味を持った理由を、こう書いている。
そのころ、こんな私の注意を引いたひとりの若い女性の姿が現われた。
そのひとを見てでなく、そのひとの書いたものを読んでだつたが。
これにすこし遅れるか、前後してか、高村君に寄り添つた女性ーー智恵子さんーーも、当時出ていた雑誌「青鞜」の同人だったが、この新らしい婦人の解放を求めて、雑誌「青鞜」に集まつた若い女性たちのなかに、際立つて若若しく、水水しく、率直な文章を書き、かたわら翻訳ーーしかも、エレン・ケイのものなどーーをもして、雑誌に載せている一女性があつた。
その仲間のものたちが、鴻の巣あたりで五色の酒を飲んだといつたり、吉原に遊びに行つたりしたいというような、新聞などでの世間的ゴシップの種子になつて、私が過去に見捨てた享楽的な世界の消息などを女だてらに窺う興味に生きるひと群れもあつたようななかに、この私が見いだした若い女性の書くものは、伸び伸びとして、自己の解放にむかつてひたむきに進んで生きようと真実さ、真剣さが感じとられるようなものだつた。
いく号かにわたつて、それを読むうち、私の注意は興味に変り、興味はそれに引きつけられて行く気持に変つた。
そして私が、ここに新たな恋愛観、結婚観についたとすれば、この光りのもとに、おなじ光りを見る道連れと手を携えて立ち直れたら、というような夢想もいだかれて、心ではこのひとにあてる気持で心が顫動(せんどう)して書いた稿を、そのまま「顫動」という題にして、雑誌「フュウザン」に出した。
……そうして私の前のメートルのスタンダールへの想起には、「愛のない結婚生活で、妻が貞操を守るなどということは、おそらく自然に反する。」という言葉を「恋愛論」から引いて、この言葉を「エレン・ケイの訳者に贈る。」と書いて、最後に載せた。
(木村艸太『魔の宴ーー前五十年文学生活の回想』_p197~198/『日本人の自伝18 木村艸太・亀井勝一郎』_p160)
エレン・ケイに関しては、らいてうが『青鞜』に翻訳を連載していたが、同誌五月号に載った『恋愛と道徳』の訳者名が野枝になっていたのは、同号「編輯室より」によれば、そのころらいてうが体調を壊し「十日ばかり前からひどい熱に苦しめられてずっと床について居」たからだ。
しかし、「恋愛と道徳」を翻訳したのは野枝ではなく辻だった。
青鞜社は毎週金曜日を読者との面会日にしていたので、荘太は五月十六日の金曜日に青鞜社を訪れたのである。
荘太が「顫動」を寄稿したのは『フュウザン』六月号である。
野枝に会いに行ったが会えなかった荘太は、手紙を書くことにした。
その心情を荘太はこう記している。
そうして私はこういうものを書いた以上、会えたら会つて、そのひとにこのことが告げたい気がして、ある日、巣鴨の青鞜社を訪ねて見た。
そのひとは編輯に携わつていることが、雑誌で知れていたから。
と、これには、私はそのひとの受けている思想に関心があるという意味で、こうして訪ねて行つて会うのを憚らぬ、というような公然たるに近い気持を表面に持つて行つていた。
それと、当時は武者君と「世間知らず」にあるC子さんとの交渉が直き前にあつたのにづづいて、長与君の「盲目の川」に書かれた恋愛のこと、岸田に突然手紙を送つて会つて、結婚した美術女学生上りの婦人蓁【シゲル】さんのことなど、高村君と智恵子さんのことなど以外にも、こんな新らしい男女かんの自由な交渉が身近に繁げ繁げ行われていたことにも誘われるところもあつたのだと思われる。
が、その訪ねた日には編輯所には向うがいないで会えなかつたから、そのまま帰つて、あとは自分でも、そんなに性急に知らないひとを訪ねたりした軽挙が顧みられうような気もしたり、そうしているうちにも、心が一そう引かれるのを感じたりする思いに、心がそれ以上に定まりかねて日をすごすうち、やがてやつぱり引かれる気持が勝つたままに、こんどは手紙を書いて出した。
(木村艸太『魔の宴ーー前五十年文学生活の回想』_p198/『日本人の自伝18 木村艸太・亀井勝一郎』_p161)
「武者」は武者小路実篤、「C子」は武者小路の最初の妻・竹尾房子(宮城ふさ)で、武者小路の小説『世間知らず』に登場する「C子」。
「長与」は長與善郎、「岸田」は岸田劉生。
麹町区平河町の下宿に住んでいた荘太は、野枝に手紙を書いた。
拝啓、未知の私から手紙を差し上げる失礼を御ゆるし下さい、さて先月の中程の金曜日に編輯所へ上つてあなたをお訪ねしたのは、私でした、実はその頃からして私はあなたを知り度く思つてゐまして、それで突然御伺ひして見たのでした。
……僕には……かなり烈しくあなたに対する興味を抱かせようとしてゐるものがあるのです……私はあなたの書かれるものゝ幼稚さがかなり純らしい処から出てゐるようなのを愛してゐます……僕はかう云ふ自分の気持ちが……幾分ラヴに似てゐる事を驚くのです。
……もし御会ひ下さるようでしたら御都合の時処をお知らせ願へば幸甚です。
或は御会ひして見た上ではあなたの個性と僕の個性は相反撥し合ふ性質のものであるかも知れないと思ひます。
或はまた只一個の友達として静かに気持よくお話しする事が出来るかも知れないと思ひます。
尚この手紙はあなたにプライヴエエトのものである事を御承知のほど願ひあげます。
以上、六月八日夜
(「動揺」/『青鞜』1913年8月号・3巻8号/『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』_p151~153/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p21~22)
荘太は翌日、自分の下宿から半町と離れていない、紀尾井町三番地の下宿にいる弟(木村荘八)のところへ行き手紙を見せた。
木村荘太、荘八の父は木村荘平、牛鍋屋のチェーン店を何人もの妾に経営させていたという明治の豪傑である。
荘太、荘八は妾の子で同腹の兄弟だった。
『定本 伊藤野枝全集 第一巻』の「動揺」解題(p399)によれば、荘太は一八八九年、東京市日本橋区生まれで、当時二十四歳。
一九〇六年に本郷区の京華(けいか)中学を卒業した後、英語を学び、第二次『新思潮』に参加、一九一一年から翻訳著述を行なっていた。
『魔の宴ーー前五十年文学生活の回想』は、荘太の37後前の回想であるが、リアルタイムの記述である「牽引」では、ここまでの経緯について、荘太はこう記している。
六月九日の午ごろ、僕は「青鞜」の伊藤野枝氏に宛ててかういふ手紙を書いた。
直ぐそ れを麹町平河町の僕の下宿から半町と離れてゐない、紀尾井町三番地の下宿にゐる弟(木村荘八)のところへ持つて出懸けて行つて、出して見せた。
僕は一月ばかり前から弟にこの事を話してゐた。
手紙の中に書いてある先月中程の金曜に、巣鴨の青鞜事務所へ訪ねて行つて見て、留守で会へずに帰つて来た事も、弟は知つてゐるのだ。
「フユウザン」六月号の僕の感想を読んだ人には疾によく領解して貰へたと思ふが、極く最近に僕は自分の女性観、恋愛観が急速に一変した。
さうして僕は自由恋愛の使徒になつた。
あの感想を書いた当時に、眞に自身の要求がそこまで動けば、僕は遠からずそのプロパガンドをする気でゐ た。
また自分には強くその要求が動いて来さうな気がしてゐた。
僕は殆んどこのごろ囂(やかま)しくなりかけて来た婦人問題に就いて説かれる日本の人の論議を読んだ事がない。
それから「青鞜」あたりの人達の事も全く無視してゐた。
僕はその時前者の方はどうでもいいが後者は無視してゐられなく思はれて来た。
眞に僕等の近くの女でほんとうに生きようとしてゐる人達があるのだらうか。
その要求を真に感じて進んでゆかうとしてゐる人達があるのだらうか。
僕は痛切にこの事が知りたくなつた。
僕が先月雨の土砂降りの日に、突然野枝氏を巣鴨の事務所に訪ねて見たのは、ただ主にかういふ動機からだけであつた――それは丁度僕があの感想を書かうと思ひ立つてゐた時だ。
元より既にその頃からして僕は漠とした気持で恋愛を求めてゐた。
眞に自身を生かすべき恋愛を求めてゐた。
けれどもそれを特に野枝氏に待たうとしてゐるといふ予期は少しもなかつた。
僕はただ二三号極く最近の「青鞜」を読んで見て、野枝氏が下らない歌や小説を書かずにゐるのが目についたのだ。
書くものの上に微力にしか現はれてゐないが、しかしあるいい要求を懐いてゐる人らしく感じたのだ。
それで一番年若い人だといつか何処かでふと耳にしてゐた事が頭に泛(うか)んで来たのだ。
全く内容を知らないけれど、この春の演説会にこの人がひとり聴衆の前に出て語つた事があつたと聞いてゐた記臆(ママ) が、ひきつづき泛んで来たのだ。
僕はこれだけの理由で少くともこの人を真面目に進まうとしてゐる人と解釈した。
またそれに純なところのある人らしいと推定した。
僕が始めに訪ねて会つて見ようとしたのは、理由は単にこれだけで、若しこの人に対する牽引が起るとしても、それは第二の後の問題なのであつた。
会つた結果で自然に起るべきそれらの第二の問題の一切を、僕は別段避けようともせねば、期さうともしてゐなかつた。
それで会へずに帰つてからは、六月の雑誌に僕の感想が出てから野枝氏がそれを読んでから、前に自分が訪ねた事をいつて、さうして手紙を出して見ようと思つた。
で僕はそれ から半月忙がしい思ひで立て込んだ仕事の中に没頭した。
月の終りにそれが大方片づくと僕は漸くホッとした。
野枝氏の事が頭に泛んだ。
がその時半月以前とは僕はだいぶん変つてゐた。
僕は一層内へ進んだ。
一層深い根本のものに次第に余祐(ママ)なく触れて来かけた。
僕は凡ての一 切を悉く直接に僕のライフに触れてゆかしたいと思つて来てゐた。
また随つて現在の自身のライフの充實に資さないものは凡て自身の思議から、行為から排除し尽さうと思つて来 てゐた。
現下の自分自身の生活に深い交渉を齎(もたら)さない事はなんにもすまい。
そして自身の 生活に交渉する一切はなんでも、どんな事でも飽くまで恐れずに徹底して遣つてゆかう。
すれば一足一足に自身の生活の深さが増せば、随つてますます深くの底にあるものが生か されて来る。
自身の生活の大きさが増せば、また随(したが)つてますます自身の面する問題が大きくなる。
といふのがそれからの僕の第一のモツトオになつて来てゐたのである。
この意味からして広く社会を対手にプロパガンドするといふ態度が僕には遠くなつた。
書いて多くの知らない女性を覚醒させようといふより、直ちに近くの僕を牽引するに足るひとりの婦人に触れて、自身の生活の力-恋愛の力にその人を導かうとする要求のみ、全然僕の心を占め終るようになつた。
さうして僕はその僕の恋愛に、刻下の自身を先づ第一 によく生かしたく思つて来てゐた。
随つていつか自然と僕の心の中で、野枝氏の姿はさういふ僕の要求の対照(ママ)に変形した。
前出の手紙を僕が書いた動機は、外でもない、僕がこの自身の要求を自覚したか らなのである。
でまた僕の今の全然肯定に傾く思索は、僕に一度失つた女性に対する信頼を回復せしめた。今の日本のエンヴァイロンメント(環境)に全然にじられ尽して、その育つ芽を枯らし切られぬ力が、吾々の異性にもまたあると信ずる大きな信頼を僕は心に懐き始めた。
で僕は感じた.......もう僕はぶつからずにゐられない。
自分の生活の全部を挙げてぶつからずにゐられない。
製作と恋愛とまた自身を生かす凡てに僕の全力を傾倒してぶつからずにゐられない......弟は黙つて僕の手紙を読んで、黙つてそれを僕に返した。
「若い綺麗な人ださうだ。」
と暫らくして僕にいつた。
「とにかく会ふといつてよこせば面白いだらうと思ふ。」
僕はさういふ自分の気持がやや静平(ママ)でないのを覚えた。
その時僕の心にも言葉にも、既に対手のよく知つてゐるラヴァアの上を語る時-特に兄弟にそれを語る時-思はずも伴ふやうな微動があつた。
ふたりはそれなり直ぐに話題をいつもの普通の事に移した。
さうして暫らく話した後で、 僕は別れて、途で手紙を投函すると、やがて一種の期待を湛へた安らかな心になつた。
で尚少しそこらを散歩してから帰つた。
(木村荘太「牽引」/『生活』1913年8月創刊号)
※江戸老人のブログ「明治の豪傑”いろは”木村荘平」
※Art & Bell by Tora「生誕120年木村荘八展」
※木村荘八「私のこと」
★木村艸太『魔の宴ーー前五十年文学生活の回想』(朝日新聞社・1950年5月30日)
★『日本人の自伝18 木村艸太・亀井勝一郎』(平凡社・1981年12月10日)
★『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』(大杉栄全集刊行会・1925年12月8日)
★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
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