2016年04月11日
第76回 中央新聞
文●ツルシカズヒコ
野枝が木村荘太からの手紙を、青鞜社事務所で受け取ったのは、六月十三日の朝だった。
野枝がこの日、青鞜社事務所に来たのはこの日が金曜日であり、金曜日は読者と交流を持つ日だったからであろう。
野枝はこの日のことを、らいてう(R)に宛てる手紙文スタイルで、こう書いている。
R様 こないだの金曜日はゐらつしやるかと思つて待つてゐました。
私は午前から行つてゐました。
小母さんといろいろな話をしながら待つてゐましたら勝ちやんが来ました。
でもすぐに帰つて行きました。
私は四時頃まであなたを待つてゐました。
私は堀切へ行つてから非常に疲れてその日までなんだか大変に倦怠(だる)い気持ちが去らずに居ました。
それとその朝、私は全く知らないーー姓名位は知つてゐましたがーーKと云ふ方からの手紙を読んで、それにも可なり悩ましい気持ちを抱かされてゐたのです。
小母さんも可なり疲れておゐでのやうした。
私と小母さんと二人きりでは何だかあの涼しい八畳の座敷もだるい空気が漲つてゐるやうで、何となく気分が重くなつて来るのでした。
あなたでもゐらしたらまた堀切の話でもしてすこしは気分をはづます事が出来るかと思つてました。
でもとう/\ゐらつやしやらなかつたのですね、私はまた重い頭を抱えて小母さんの処を出ました。
例の崕(がけ)の道を歩いてゐますと、あの林の前の叢の真青な笹や草が目にしみてツン/\した青い薄が頭の中を突きさすやうでいやな/\気持でした。
その日だけは林の中に、はいつて見る気もしませんでした。
(「染井より」/『青鞜』1913年7月号・3巻7号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p37)
荘太とのラブアフェアについて、野枝がその一部始終を書いたのが「動揺」である。
これも、らいてうに宛てる手紙文スタイルで書かれている。
この手紙を受け取ったのはたしか六月十三日の朝だったと覚えて居ります。
「木村荘太」という差出人の名が忘れつぽい私の頭の中の何処かの隅に、二三度も雑誌の上で見た名だと残つて居りました。
そして、最近にTと二人で本郷を歩いたとき、ふと開けたヒューザンの中に見出した名である事も覚えて居りました。
私は一応その手紙をよんで見て、何かにハタと躓いたやうな気持ちがしました。
何とはなしに、当惑して終(しま)いました。
丁度その日は金曜日でした。
私はその手紙を小母(おば)さんに見せて、困つた/\と云つては、寝ころんでいろ/\に考へました。
私は、何だかその手紙をTに見せると、いふ事が大変、恐いやうな気がしました。
この手紙に対する私の態度がどうであるかといふ事より先きに、私は、この手紙によつて、Tが、どんな持ちを抱かされるかと考へますと、悩ましい気持ちがつきまとってゐるやうな気がしてこまつたものを貰つたと云ふ気がしました。
(「動揺」/『青鞜』1913年8月号・3巻8号/『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』_p153~154/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p23)
さて、どうしたものか。
自分の態度が決まるまではと思い、野枝はいったん保持にこの手紙を預けた。
しかし、考えを変えた。
……私とTの間には何の秘密もないのです。
Tは今日も夕方、いつもと変らない穏かな気持ちで帰つて来るに相違ないのに、私は暫く、Tにかくしてゐなければならない事を胸に持つて帰らなければならないと思ひますと、何とはなしに、圧(お)しつけられるやうな気持ちがして、矢張り何時ものやうにさつぱり打ち明けてしまつた方がいゝといふやうな気がして、小母さんからその手紙をもらつて、かへりました。
(「動揺」/『青鞜』1913年8月号・3巻8号/『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』_p154~155/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p23)
帰宅すると辻は出先からまだ帰宅していなかった。
ぐったりして机の前に座った途端、辻の妹の恒(つね)が部屋に入ってきた。
この日の朝の『中央新聞』に青鞜社の記事が載っていて、野枝の私行上のことも書いてあるが、まったくのでたらめであるという。
「染井より」解題によれば、「屏息(へいそく)せる新らしい女」というタイトルで、『中央新聞』が記事にした。
記事は六月十二日付に(上)、六月十三日付に(下)、二日連続で掲載された。
野枝のでたらめなプライバシー記事が載ったのは六月十三日付の(下)である。
伊藤野枝は巣鴨小学校の教師後藤清一郎と好い交情(なか)になつて二三日前に安産があつたので既に家庭の人である
(「染井より」解題/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p456)
恒からだいたいの記事の内容を聞いた野枝は激怒した。
野枝はすぐに岩野清子の家を訪れ、清子に付き添ってもらい中央新聞社に行った。
抗議に行ったのであろう。
名誉毀損だから「訂正記事を載せて謝罪しろ」ぐらいは言ったであろう。
野枝はこの一件について、「染井より」にはこう書いている。
屹度(きつと)あの男なんです。
中央新聞の記者だと云つて尋ねて来た、白田天坡とか云ひましたね。
あの男に違ひありません。
本当に世の中に新聞記者ほど下等な、度し難いものはありませんね。
私の事にしろ小母さんの事にしろ、まるで間違つた事を書いてあります。
純然たる名誉毀損なのです。
数多い新聞の中でも最も俗悪な低級な中央にあんな愚劣な記者のゐるのもふしぎではありませんね、私は本当に会はないでよかつたと思ひますよ。
けれどもあの記者は私たちが会はなかつたと云ふ事を非常に不快に思つたんですよ、で何にも種がとれなかつたので自分勝手にいゝかげんな事を綴り合はして記事をこしらへたんですね。
(「染井より」/『青鞜』1913年7月号・3巻7号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p37~38)
さらに、野枝はこの一件について、『青鞜』の「編輯室より」でも、こう言及している。
この間中央新聞の白田天坡といふ記者が事務所に来て皆に会ひ度いと云つたさうです。
……小母さん一人だつたので断りますと、その記者は玄関先きに立つて、いつまでも一人で勝手な事をシヤベツて出て行つたさうです。
その日私は頭痛がして臥つてゐますと、矢張りその記者が来ました。
勿論私も断りました。
らいてうもるすで会はなかつたさうです。
ちつとも種がとれなかつたわけです。
十二三日頃に……出た、「屏息せる新しい女」といふ題の……青鞜社の記事は滅茶々々なものでした。
本当に世の中に新聞記者ほど下等な、度し難いものはありませんね、後で私はその記事を読んで見ましたが実に下等な記事なのです。
あらん限りの悪意を持つて書いたものです。
私の事にしろ小母さんの事にしろ、まるで間違つた事を書いてあります。
純然たる名誉毀損なのです。
数多い新聞の中でも最も俗悪な低級な中央にあんな愚劣な記者がゐるのもふしぎではありませんね、私は本当に会はないでよかつたと思ひますよ。
……あの記者は私たちが会はなかつたと云ふ事を非常に不快に思つたんですよ、で何も種がとれなかつたので自分勝手にいゝかげんな事を綴り合はして記事をこしらへたんですね。
(「編輯室より」/『青鞜』1913年7月号・3巻7号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p40)
中央新聞社を出てからも銀座の方で用を足してきたので、帰宅したのは夜の十一時ごろだった。
辻は起きて仕事をしていた。
野枝は辻の傍らに座り、木村荘太の手紙を見せた。
辻は黙って読み終えて、こう言った。
「返事を書いたらよかろう」
野枝は木村の手紙の文面が真面目なところに引かれていたが、笑いながら返事をしなかった。
手紙を熱心に繰り返して読んだ辻が言った。
「返事を書かなければいけない……」
辻は木村の書いたものを読んだことがあり、野枝よりはよほど木村のことについて知っていた。
それからふたりはいろいろな話をして十二時すぎに臥せった。
★『定本 伊藤野枝全集 第二巻』(學藝書林・2000年5月31日)
★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)
★『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』(大杉栄全集刊行会・1925年12月8日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
-
no image
-
no image
-
no image
-
no image
-
no image