2016年04月12日
第77回 拝復
文●ツルシカズヒコ
一九一三(大正二)年六月十四日の朝、野枝は気持ちよく辻を送り出し、机の前に座った。
木村荘太への手紙の返事を書こうと思った。
なんと書いていいかちょっと困ったが、とにかく会ってみることにして、思い切って書いた。
拝復、御手紙はたしかに拝見致しました。
暫く社の方へまゐりませんでした為めに御返事が後れました申訳が御座いません。
どうぞあしからず御許し下さい。
それから先日は社の方へわざ/\御出下すつて後社の方へは二三度まゐりましたけれども社に居る人が忘れてゐて私にさう云つてくれませんでしたので、ちつとも存じませんでした。
御手紙を拝見して私はたゞはづかしう思ひました。
私の幼稚なつまらない感想でも読んで下さる方があるかと思ひますとふしぎな気が致します。
まだ私など他の人に手を引いて頂かなければ歩けない位の子供なので御座いましてこれからすべての事に就いて研究して行かなければなりませんので本当は雑誌に麗々とあんな感想など書ける柄ではないので御座います。
私は、なるべく勉強したいと思つてゐましてもなまけてばかし居ますのでこの上他人との交渉に忙しくなつたりしてはとてもどうにも出来ませんから、なるべく止む得ない少数の人との他はすべて交りを絶つてゐるのです。
いろいろの事で私は周囲の人と今は全く絶縁の形です。
青鞜社の内部四五人の他は誰とも今の処係はり度くないので御座います。
それで、私はあなたのお手紙を拝見していろ/\考へて見ました。
あなたは私を知り度いと云つてゐらしやいます、そして私についていろ/\の期待やなんかで待つてゐらつしやるとさう思ひますと期待される程の何物をも持たない私は矢張り自然にお会ひする機会を待つてお目にかゝるのならまだしもですが、強いて機会をはやめると云ふ事が何とはなしに避け度いやうにも思ひました。
然しまた、まじめなあのお手紙を繰り返して考へて見ますと、どうも矢張りおことはりすると云う事が如何にも傲慢な礼を失した事の様にも思へてまゐります。
それで兎に角お目にかゝつた結果はどうなりますか分りませんがお望みにおまかせする事に決心致しました。
時間の御都合や何かもあなたの方でおよろしい時にし私の方はこの次の金曜をのぞく他さしつかへは御座いません。
もしあなたの方の御都合では金曜日に社にお出下さつてもさしつかへは御座いません。
二十五六日は大抵校正に築地の文祥堂へまゐります。
校正も二時間位間をおいて出たり少しづゝ出たりしますので割合にひまで御座いますから印刷所の方が御都合がよかつたら印刷所でもかまひません。
その他は大抵ひまで御座います。
然し今月は原稿の集り方がおそう御座いましたら催促にまはつたりしなければならないかも知れませんが大抵は都合が出来ますからあなたの御都合次第でお伺ひします。
フューザンにおかきになりましたのを是非拝見したいと思つてゐますが社には来てゐませんので一寸ついでがなくてまだ拝見しません。
近いうちに拝見しやうと存じます。
六月十四日
(「動揺」/『青鞜』1913年8月号・3巻8号/『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』_p157~158/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p24~25)
野枝は書いてしまうとなんだか安心して、木村荘太という人のことをいろいろ想像してみた。
辻が帰ってきてこの返事を読んだらなんと言うだろうかなどと考えて、だるい体を横にして辻の帰るのを待った。
野枝はこのころ、妊娠六ケ月くらいだろうか。
野枝は辻が帰る夕方が待ちどうしかった。
退屈なのでもう一度、荘太の手紙を開いて読んだ。
……或は御会ひして見た上であなたの個性と僕の個性は相反撥し合ふ性質のものであるかも知れないと思ひます。
またはあなたが一層ほんとに僕の心に生き始めるやうになるかも知れないと思ひます……。
(「動揺」/『青鞜』1913年8月号・3巻8号/『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』_p159/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p25~26)
野枝は思った。
「会って反発し合うのならいいけれども……そうでなかったら? 私はどうする? そんなことはない。まず一番に私が辻と共棲している事実を話すことだ。それでも私に愛を持ってくれて、苦痛を語られたらたまらない。どうしよう?」
しかしーー今、自分と辻の間には寸分の隙間もない。
どんなに強く来られても、突き放すことができるという自信が湧き上がってきた。
特に、芝から染井に帰ってきたころから、野枝の辻に対する恋着はいっそう執拗になっていた。
野枝はひとりで微笑みながら、大きいふたつの袋にいっぱい詰まった、自分と辻の間で交わした手紙を思い出し、苦しい辛い、しかし本当に楽しい自分たちの満一年以上も同じに続いてきた恋を想った。
夕方、辻が帰宅した。
辻に手紙を見せ、一緒に外出して投函した。
荘太から来た第一の手紙を無視できず、返事を書き、ともかく荘太の要求を入れて面会し、その上で辻と同棲している自分の境遇を話そうと思った野枝の心理を、らいてうはこう分析している。
ともかく野枝さんが第一の手紙の時から無頓着に打捨てゝおかれなかつたといふことは明である。
T氏に見られては困ると云つて小母さんにあづけたなどはその証拠で、いかにも若々しい女の心が見える。
けれど誤解してはいけない。
野枝さんが無頓着でゐられなかつたのは、寧ろ野枝さんの疑ふ処のない若い心があの手紙の全面から受けた誠実に感じたことなのである。
けれどそこにはなほ一つの理由がある。
それは自分は木村氏の手紙を同情と理解とを有つて受納し得る女だといふ自信(一種の誇り、わるくいへば自惚だ)と男の申出を只々退けては何等の理解のない無智の女と軽蔑されはしまいかというふ懸念とである。
自分の価値を認められないといふことは野枝さんのやうな女にとつては殊に不愉快なことであらうから。
それも一種の虚栄だといふならそれ迄だが、かういふ心から恋愛なしに出来る丈け接近してゆくこの種の女の心を了解する男は少いやうだ。
(平塚らいてう「『動揺』に現はれたる野枝さん」/『青鞜』1913年11月号・3巻11号_p85~86)
★『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』(大杉栄全集刊行会・1925年12月8日)
★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
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