2016年03月24日
第49回 若い燕(一)
文●ツルシカズヒコ
らいてうが奥村から受け取った手紙の文面は、こんなふうだった。
それは夕日の光たゆたっている国のことでした。
その国の、とある海辺の沼に二羽の可愛い鴛鴦(おしどり)が住んで居りました。
それはそれは大そう睦まじく……いつもいつも一緒でないことはありませんでした。
そして姉の鴛鴦は口癖のように《私の子供》と言っては妹鳥のことを話す程でした。
とある夏の日のことでした。
若い燕には赤い憧れの夢があったのです。
燕はみずからその夢を覗いて見ては、何よりもの楽しみにして居りました。
燕はそれ程に若く、そうしてまた実際美しかったのでした。
すると、その燕の夢の鏡の中に、何処からともなく映った影がありました。
……燕はその夏の幾日かをこの姉妹の鴛鴦の沼に来ては共におもしろく遊んでは帰りました。
ある日のこと、みんなして海へ行って帰りが遅くなってしまって、とうとうその沼のほとりに泊まることになりました。
……雷と稲妻のとてもとても烈しい晩でしたので燕は眠られずに居りましたら、姉鴛鴦が迎いに来て《私の巣に来ておやすみ》と言うのでした。
それから燕はそのまま伴われて姉鴛鴦の巣まで来てしまいました。
そうしてその夜は明けたのでした。
しかし燕はその夜のことをもうよく覚えては居りません。
心の稚ない燕には、それを覚えているには余り荷がかち過ぎたのでした。
それきり燕はその沼のほとりを飛んでしまいました。
そしてとある嶋に渡ってしまったのでした。
そして燕の淋しさは姉鴛鴦から貰う手紙やいろいろの本などに嶋の秋を慰めて居りました。
するとある日のこと、突然思いがけなく妹の鴛鴦からてんで見当違いの手紙が舞い込みました。
それは燕に宛てた絶交状でした。
燕は一度は怒りました。
一度は悲しみました。
が、それもいっとき、やがてものを落着いて思わせられるようになりました。
かれこれしているうちに秋も半ばになりました。
……燕は、もうその頃には昔のままの燕ではありませんでした。
で、時にはこんなふうに考えることがありました。
《さてさてこうした呑気な日もいつまで続くことだろう。いやいやこんなくだらぬ騒ぎに捲き込まれてぐずぐずしている間に、自分の仕事はどんなふうになるのだろう。自分は男だ。自分の仕事が何より大事だ。殊に自分が手を引けば変になった姉妹の仲もまた甦ろうというものだ》
そしてこのことを長い手紙に書いて姉妹の鴛鴦に送り、自分というものーー燕というものを忘れてもらうように二人に頼みました。
燕は……しじゅう鴛鴦のことを思い出さぬ日とてはありませんでしたが、……鴛鴦たちはやがて……燕のことなど忘れてしまって、《燕とはいったい何処の野良鳥だろう》などと言うようになりましたとさ。
九月十七日 嶋を去る日に H生
そのかみのロゼッチの女の君へ
(奥村博史『めぐりあい 運命序曲』_p71~72)
これを読んだらいてうは奥村に小包を送った。
浩が急いで包みを解くと前田夕暮の新刊歌集『陰影』が出た。
(おや?)と思いながら開いてみると見返しの中央にーー
あれは、あの美しい鳥が燕というのでしたの。
けれどほんとうにね、私の知っている、そうして愛している燕なら、きっとまた季節が来ると気まぐれにでも街中のあの酒屋の軒を訪れることをよもや忘れやしないでしょうね。
きっときっとまた季節が来ると。
と書いてある。
そして頁を返すと、裏にまたーー
おしどりが時たま沼の水を濁したからって……何でそれがあの若い燕の艶のいい翅をよごすものですか。
燕はいつまでもいつまでも蒼空に清い美しい夢を描いていればいいじゃありませんか。
ほんとうにね。
私の知っている、そうして愛しているあの燕なら、そうそう小利口な分別くさい鳥じゃない筈ですが。
……と書いてある。
……昭子はあの燕の手紙の怪しいことを、その上それが彼の本心から出たもので無いことまでも、既にはっきり見抜いてしまっているもののように思われた。
《火種はまだ残っている。しかし、そうは言っても……いや、そうじゃない……》
(奥村博史『めぐりあい 運命序曲』_p73~74)
結局、らいてうと奥村の関係はひとまず途絶えるのだが、らいてうはこの一件をこう回想している。
その手紙というのは「池の中で二羽の水鳥たちが仲よく遊んでいたところへ、一羽の若い燕が飛んできて池の水を濁し、騒ぎが起こった。この思いがけない結果に驚いた若い燕は、池の平和のために飛び去って行く」というような筋で、いろいろのことが巧みに寓話のなかに織りこまれていました。
わたくしにはあまりに奥村の人柄にそぐわない技巧的な、気取った文章がどうも気にかかりました。
あとでわかったことですが……新妻さんが仕組んだ筋書だったのです。
……このときから「若い燕」ということばが時の流行語となり、いまなお生きているようです。
これは若き日の新妻さんの創作から生まれたことばなのでした。
(『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』_p391~392)
このらいてうの回想について、堀場清子が気になる指摘をしている。
この記述は、二つの点で首をかしげさせる。
まず「水鳥」が、原文(「めぐりあい」)では「鴛鴦(おしどり)」だが、この言い換えで「鴛(えん)」と「鴦(おう)」のセクシャルな含みが消え、意味が通らない。
流行語となるには、世間に拡めるプロモーターが不可欠だが、紅吉を庇って指摘を避けているため、流行語となった経過が納得されない。
後に再会した恋人たちは、紅吉が「方々へ行って若い燕の話をばらまきましたからね」(同前)と語りあうのだが。
(堀場清子『青鞜の時代』_p135)
「(同前)」は『世界』一九五六(昭和三十一)年二・三月号に掲載された座談会「〈青鞜社〉のころ」である。
この堀場の指摘については、記述をもう少し前に進めてから、言及してみたい。
★奥村博史『めぐりあい 運命序曲』(現代社・1956年9月30日)
★『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』(大月書店・1971年9月6日)
★堀場清子『青鞜の時代』(岩波新書・1988年3月22日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
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