2016年06月12日
第248回 中條百合子
文●ツルシカズヒコ
『文明批評』創刊号が発行されたのは、一九一七(大正六)年十二月二十七日(奥付けの発行日は大正七年一月一日)だった。
編輯兼発行人が大杉栄、印刷人が伊藤野枝である。
印刷所は京橋区桶町一番地の愛正社印刷所。
大杉と野枝はこの印刷所に三日間、校正に通った。
ふたりは尾行をまくために毎朝、本郷の下宿・環翠館に住む田中純を訪れ、雑談をして裏口から出て行ったという。
或る朝、思ひがけなく大杉君と野枝さんとが訪ねて来た。
別に要談があるでもなく以前この下宿にゐたと云ふ荒川義英くんのことなどを話して、二十分ばかりもすると、裏口から帰つて行つた。
翌日も、翌々日も、彼等は同じ時刻に来て、同じやうにして帰つて行つた。
……あとで、それが、尾行をまくための訪問だつたことを知らされた。
労働者街に投じる準備として彼は秘密な印刷物を作りつゝあつたのだ。
たま/\、私の下宿がその印刷所に近いのと、前に荒川がゐたので、この家に都合の好い裏口があることを知つてゐたので……と後になつて打ち明けたことがある。
その時にも、彼は例のイヒ/\と云ふ、いたづらつ子らしい笑ひで笑つた。
(田中純「喜雀庵雑筆」/『読売新聞』1928年3月30日)
野枝は『文明批評』創刊号に三本の原稿を書いた。
「転機」(一〜四章/五〜八章は次号に掲載)
「彼女の真実ーー中條百合子を論ず」
「妙なお客様」(大杉栄『悪戯』に初収録/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』に再録/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』)
中條百合子は『中央公論』一九一六年九月号に掲載された「貧しき人々の群」でデビュー、十七歳の天才少女として注目を集め、『中央公論』一九一七年一月号に「日は輝けり」、八月号に「禰宜様宮田」を発表していた。
初の著作『貧しき人々の群』(玄文社)は、一九一七年五月に刊行された。
彗星のように出現した天才少女に対しして、広津和郎など文壇知名の諸家からさまざまな批評がなされたが、どれも野枝を納得させるようなものはなかったので、自分で書いてみたのが「彼女の真実ーー中條百合子を論ず」だった。
第一に私に不満な思ひをさせた事は、各批評家の頭に百合子氏がまだ肩あげのとれない少女として、従つて書物の外には何も世間を知らないお嬢様として、ずつと自分を高くして氏に臨んでゐると云ふ事であつた。
次ぎには、殆ど皆な一致して氏の真実を少しも認めてゐない事である。
第一に皆を脅やかしたらしい題材の取り方の大胆さと云ふ事は殆んど凡ての人の非難の的になつてゐる。
そしてそれが、或る人にはたゞ見せる為めの大胆さであり、或はまた、氏自身とは何の親しみも交渉もない別の世界の、何の土台もないものを持つて来て、たゞ氏に唯一のものである才能で拵(こしら)へあげたものだと云ひ、また或る人は世間にありふれた『型』を持つて来て外国の作品のまねをして書いたものだと云ひ、本当に正直に、あの作品を受け入れた人は一人もない。
私は氏の今迄の発表された三篇とも、極めて忠実に、再読三読して、そのたびにますます氏の偉さを感じてゐる一人である。
そして私は、諸家の氏に対する批評が、私にとつては不満足なのであるけれども、強ひて、それ等の批評に楯つかうとは思はない。
たゞ私は、全然諸家によつて閑却されてゐるそして私にとつては一番強い感銘を与へられた、作品の上に表はれた氏の思想感情等に就いての私の興味を発表して見たい。
(「彼女の真実ーー中條百合子を論ず」/『文明批評』一九一八年一月号・第一巻第一号/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』_p13~14)
三作品のうち、野枝は「日は輝けり」を「私にとつては何んの興味もないものである」と切り捨て、「貧しき人々の群」と「禰宜様宮田」について言及、批評している。
「妙なお客様」は十一月末から十二月初めにかけて、新聞記者を騙(かた)り、あるいは帝大法科の学生を騙って、大杉家を訪れた男ふたりを、大杉がうまくあしらい、からかって退散せしめたという話である。
官憲の偽装をからかうために掲載したようだ。
ちなみに『文明批評』一月号と二月号(第一巻第一号と第二号)の表三の広告は、神近市子『引かれものゝ唄』(法木書店)である。
同書で日蔭茶屋事件の加害者である神近が、大杉や野枝を徹底的に糾弾しているが、大杉が同書の広告を掲載したのは、彼の洒落気のある悪戯なのか、あるいは版元が『文明批評』に広告を掲載すれば宣伝効果大と読んだのか、さもなくば広告料金を得るために背に腹はかえられぬという大杉サイドの考えなのかーーそのあたりは謎である。
★『定本 伊藤野枝全集 第三巻』(學藝書林・2000年9月30日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
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