2016年05月01日
第130回 山田わか
文●ツルシカズヒコ
大杉豊『日録・大杉栄伝』によれば、 一九一四(大正三)年十二月に発行され発禁になった『平民新聞』三号を、野枝が隠匿してくれたことを大杉が聞き知ったのは、そのひと月後くらいだった。
一九一五(大正四)年一月二十日ごろ、大杉は『平民新聞』三号が入り用になり、お礼かたがたクロポトキンの『パンの略取』を土産に野枝を訪ねた。
大杉はこう書いている。
『ええ、うちぢや少し危いと思ったものですから、つい近所のお友達のところに預けてありますの。そこなら大丈夫ですわ。なんなら今直ぐにでも、少し持つて来ませうか。』
彼女は例の通り莞爾々々(にこにこ)しながら立ちかけた。
Tは少し不安な色を見せた。
『例の奴がおもてにゐるんでせう。』
『ええ。』
僕はTには答へて置いて、
『いや、今直ぐでなくてもいいんです。』
と、とにかく彼女をさし止めた。
『ねえ、うちにある日刊と週刊のH新聞ね、あれもどうかしなくちやいけないだらう。』
『あんなもの、構ふもんですか。』
『なあに、あんなものは見つかつたところで何でもありませんよ。』
僕も彼女の言葉につけ足して云つた。
しかし、Tはまだ不安らしい顔をしてゐた。
『それでも、持つて行かれちやつまらんからな。』
(「死灰の中から」/『新小説』1919年9月号/『大杉栄全集 第三巻』_p556~557/『大杉栄全集 第12巻』_p245~246)
実際、そのころには大杉の同志はもちろん、大杉たちが出入りするまるで無関係な人の家までも、しばしば警官の家宅捜索を受けて「参考のために」という口実のもとにいろいろな本を押収持されていた。
しかし、野枝は辻の思惑など少しも気にかけないふうで、大杉たちの『平民新聞』も毎号毎号押収されちゃ堪らないだろうから、せめて紙だけでも毎号寄付しようと言い出した。
「どうせ私の方でも毎月買うんですし、それっぽっちのことならなんでもありませんから」
大杉は『青鞜』のやり繰りにせよ、辻の家の家計にせよ、余裕があるわけではないだろうと慮り、その好意は受けなかった。
辻が日刊と週刊の『平民新聞』のバックナンバーをすべて所蔵していることを知った大杉は驚き、それまでとは違う眼で辻を見るようになった。
そのころ、野枝は四谷区南伊賀町の山田嘉吉(かきち)、山田わか夫妻の家で行なわれている勉強会に参加していた。
社会学者の嘉吉とわかは、サンフランシスコで出会い結婚した。
帰国後、嘉吉は自宅で英、仏、独、スペイン語などを教える「山田外国語塾」を開講していた。
山田夫妻のところに出入りしていたのが大杉栄だった。
大杉が『近代思想』を発行していたころ、大杉とらいてうは面識がなかったが、『近代思想』と『青鞜』は毎号雑誌を寄贈し合う関係だった。
大杉がらいてうにわかの翻訳文を郵送したことがきっかけになり、わかは『青鞜』に翻訳文などを載せるようになった。
野枝は山田わかについて、こう書いている。
久しい前から一度お目に懸つて見たいと思つてゐました山田わかさんをこの間おたづねして見ました。
少しお話してゐますうちに私はすつかりお友達になつてしまひました。
健康らしいいゝ血色と蟠(わだか)まりのない気持のいゝお声と精力溢れるやうなお体つきを見てゐますと私は自分の貧弱なのがいやになつて仕舞ひました。
廿五から英語をおはじめになつたのださうです。
そうして今はもう自由に他人にお教へなさることの出来る程なお力を私はうらやましいとも何とも云ひやうのない気持ちで山田さんのお顔をながめてゐました。
そうしてその御勉強の最中におなじ年の子供を他人の子ばかり三人もお育てになつたと聞いては私はたゞもう驚くより他はありませんでした。
それにまた四年前からピアノをお初めになつて毎日三時間づゝもお稽古なさるさうです。
そのすべての事に対する山田さんの勇気と忍耐とは日本の家庭の婦人としては実に異数の方だと思ひます。
私はかう云ふ方が私たちの前にたつてゐて下さることを力強く思ひます。
(「編輯室より」/『青鞜』1915年1月号・第5巻第1号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p159)
※山田わか2
★大杉豊『日録・大杉栄伝』(社会評論社・2009年9月16日)
★『大杉栄全集 第三巻』(大杉栄全集刊行会・1925年7月15日)
★『大杉栄全集 第12巻』(日本図書センター・1995年1月25日)
★『定本 伊藤野枝全集 第二巻』(學藝書林・2000年5月31日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
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