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2016年06月17日

第252回 僕の見た野枝さん






文●ツルシカズヒコ



 野枝が『文明批評』一九一八年二月号に書いた「階級的反感」は、同志たちの間で反感を買ったようである。

橋浦時雄日記 第一巻』によれば、二月十四日、橋浦が大久保百人町の荒畑寒村の家を訪れた際も、その話題になり橋浦と荒畑は笑談したという。

 そこに大杉も現われ、大杉と橋浦は荒畑からお汁粉を振るまわれた。

 大杉は橋浦と荒畑に「階級的反感」について、どんな見解を示したのであろうか。

 橋浦は翌日の日記に、こう書いている。


『文明批評』の伊藤野枝女史の「階級的反感」という一文は野枝の人格を疑わせる。

 兎に角、自分が新住居の周囲の人より階級が異うというのである。

 どう異うのか、自分が貴族だというのか、学者だというのか。

 人々から一種の嫉視を受けているように、御当人は思っているのだろうが、大した自惚(うぬぼ)れというものだ。


(『橋浦時雄日記 第一巻』)

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 亀戸時代の野枝については、和田久太郎の「僕の見た野枝さん」が詳しい。


 亀戸で初めて会つた時、野枝さんの話し振りや態度を見て非常にほがらかな性質の、自由ないゝ感じのする人だなと思つて嬉しかつた。

 しかしだん/\一緒に暮らして来るうちに。

『やりつ放し』な『なげやり』な其の生活振りには驚かされた。

 大杉君にはほころびた穴のあいた着物を平気で着せて置くし、自分も又垢染(じ)んだ臭い着物を澄まして着て歩く。

 庭に芥(ごみ)だの紙屑だのを散らかして置くのはまだしも、縁先から赤ん坊に大便をさせたまゝ、それを容易なことで掃除しない。

 押し入れの破れ襖を引きあけると、汚れものやおしめの臭いがぷうんと鼻を突くーー。


(和田久太郎「僕の見た野枝さん」/『婦人公論』1923年11月・12月合併号_p20)





 和田は人夫部屋などにゴロついていた人間だから、たいていのやりっ放しや無精には馴れていたが、野枝には相手が相手なので面喰らった。

 和田の知る野枝はずっとなげやりで無精だったが、この亀戸時代が特にひどかったという。


 尤(もつと)も、亀戸に居た当時は貧乏のドン底だった。

 前の空家に張り込んでゐた警察の尾行どもが、

『おい、今日の午飯(ひるめし)もまた芋だつたよ。明日あたりは大杉のオーバーが見えなくなるに違ひないぜ、ウフゝゝ……』

 などと、近所へ触れ廻る。

 大杉君はたゞ苦が笑ひをしてゐるのみだったが、若い僕等や野枝さんは、よくかツとなつたものだ。

 そして、この何うにもならない貧乏が、野枝さんのなげやりな、無精な、やりつ放しな態度を、猶更ら強くさせてゐたやうに思ふ。


(和田久太郎「僕の見た野枝さん」/『婦人公論』1923年11月・12月合併号_p20)





 大杉も野枝も同じように見え坊で、意地っ張りで、強がりだったが、大杉のは貧乏の中に傲然(ごうぜん)と構えていて、貧乏なんかにまるで無頓着に見えるほどの力強さが溢れていた。

 しかし、野枝の強がりは「さあ、どうでもしてみやがれ」という、駄々っ子に似た捨て身の強さだった。

 子供の育て方も、和田にはずいぶん無茶に思えた。


 オシメをよく取り替へてやらないから、魔子のお尻はいつも真つ赤に爛れてゐた。

 着物もひどいのが着せてあつた。

 或日、僕と久板君(やはり一緒に居た同志だ)とが夕方に戻つて来ると、野枝さんと大杉君とは待ち構へて居たやうに魔子を預けて何処かへ遊びに出て行つた。

 こんな事は毎度の事なんで『あゝいいよ』とばかり受け合つたが、間もなく赤ん坊は火の付くやうに泣き出した。

 腹が空いてるんだと悟つてミルクを探したが残つて居ない。

 二人とも金は持つて居ず、仕方なくおこげの御飯でおもゆを作つて呑ませた。

 それで漸く赤ん坊は泣き止んだ。

 その夜十二時すぎた時分に野枝さんと大杉君は帰つて来た。


(和田久太郎「僕の見た野枝さん」/『婦人公論』1923年11月・12月合併号_p20~21)





 野枝が「階級的反感」に書いた、銭湯から逃げ帰って来た話についても、和田が言及している。

「私達はもっともっと労働者に教えられなければならない。女工さんたちと本当のお友達になって、その力強い相談相手とならなければならないーー」

 そういう決心が野枝の理智の中で、真剣になされていたのは事実だった。

 ときどきは付近の長屋を歩いたり、紡績工場やその寄宿舎を覗いたりして、この決心を具体化しようと努力していたのも事実だった。

 しかし、野枝には友達ができなかった。

「ああ驚いた。私ね、今日はあちらのお湯へ行って、モスリン会社の女工さんたちにすっかりおどかされちゃったのよ!」

 ある日の夕方、お湯から帰った野枝は、いきなり机の前にどっかりと座りこんで話し出した。

「モスリンの女工さんたちはみんな向こうのお湯へ行くんだって聞いていたものだから、今日、行ってみたのよ。まあ、五十人ぐらいはいたわね。その光景にまず面喰らったわ。しかし、開けっ放しの話も聞けるし、そのうち話し合うこともできると考えながら、中の方に入って行ったの。するとね、みんな一斉にこちらを向いてーー」





 女工たちは野枝の顔を見たり、指を指しながら、大声でひどいことを言い始めた。

「おやおや、あの女は何んだい?」

「妾だよ」

「女優だよ」

「へん、いやにつんとしてやがら、妾女優めーー」

 野枝の顔は真っ赤になった。

 我慢して上がり湯のそばへ座り体を洗い始めた。

 たくさんの人でとても湯槽には入れなかった。

 すること今度はーー。

「あらあら、ひどいあぶくだよ」

「さあたいへんたいへん、みんなシャボンに流されないよう用心しな」

「ウワハハハハハ」

「畜生め! 見な、私はこんなにシャボンなんかはふんだんに使います、てな顔をしてやがるじゃないか」

 野枝はあんまりだと思ったから、ごめんなさいとも言わずに、プイと帰って来てしまった。

 大杉はニコニコ笑いながら、

「そんなことぐらいで驚いちゃ駄目だよ。それはあなたにとって本当にいい場所だから、毎日行くんだね」

 と言ったが、野枝は、

「そうねぇーー」

 と言ったきり、黙って考えこんでしまった。

 野枝はそれっきり、モスリン女工の行くお湯には行かないようだった。


 野枝さんは、何(ど)うしても女工さんたちとほんたうに手を握り合ふこと事が出来なかつた。

 また、亀戸時代ほどの貧乏のドン底に生活しながら、その貧乏に徹底する事が出来なかつた。

 自分で質屋へ行(ゆ)く事が出来ず、米の一升買ひにも行(ゆ)けなかつた。

 そして、少々の金でも這入(はい)ると、大杉君と二人で一流の料理屋へ行つて先づ渇(かつ)を満たすという風だつた。


(和田久太郎「僕の見た野枝さん」/『婦人公論』1923年11月・12月合併号_p22)



★『橋浦時雄日記 第一巻 冬の時代から 一九〇八〜一九一八』(発売・風媒社 /発行・雁思社・1983年7月)



●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 14:00 | TrackBack(0) | 本文

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1955年生まれ。早稲田大学法学部卒業。『週刊SPA!』などの編集をへてフリーランスに。著書は『「週刊SPA!」黄金伝説 1988〜1995 おたくの時代を作った男』(朝日新聞出版)『秩父事件再発見』(新日本出版社)など。
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