2016年08月18日
第325回 週刊『労働運動』
文●ツルシカズヒコ
大杉豊『日録・大杉栄伝』によれば、一九二一(大正十)年一月八日、大杉は神田の多賀羅亭で開催されたコスモ倶楽部の懇親会で講演した。
一月十一日、大杉が借りた有楽町の病室兼仮事務所で、週刊『労働運動』(第二次)の編集方針の協議が行なわれた(『日録・大杉栄伝』)。
『近藤栄蔵自伝』によれば、栄蔵は靴店の仕事を妻に任せ上京した。
事務所は有楽町の数寄屋橋と省線ガードとの中ほど、日本劇場の筋向かいに建つ木造四階建てビルの三階にあり、二室を借りていた。
栄蔵が大部屋に入って行くと、中央に大きなテーブルが置いてあり、それを囲んで四、五人の青年が編集か校正かの仕事に忙しそうだった。
どてらを着た大杉は奥の部屋にいた。
「ヤア!」
大杉の歓迎の挨拶はただそれだけだったが、彼の大目玉が嬉しそうに光っていた。
近藤憲二、村木源次郎、和田久太郎、岩佐作太郎、中村還一らが集まっていた。
野枝もいた。
一同が集った部屋は表通りに面したバルコニーつき十畳敷きほどの洋間で、ソファーやストーブあり、栄蔵には「相当贅沢(社会主義者仲間では)」に見えた。
熱のある大杉はダブルベッドに横になったままで、会議が始まった。
栄蔵には大杉の肺結核がかなり進んでいるように見えた。
会議といっても四角張ったものではなく、アナキストの集まりにふさわしい雑談混じりの意見交換だったが、アナ・ボル共同戦線の週刊新聞の編集方針を決定する最重要なものだった。
大杉の発言は吃るがゆえに可能なかぎり言葉少なく簡潔で、要点だけを摘出するそつのなさがあり、まるでピカソの絵のような彼の会話に、栄蔵は心地よさを感じた。
栄蔵は大杉の会議のリードの仕方にも感心した。
大杉は同志の発言を黙って辛抱強く聞いていた。
自分の意見を主張する必要のない場合は、相談するように、暗示するような話し方をした。
大杉が命令的に自分の意見を押しつけるというケースを、栄蔵はその後も見たことがなかった。
それにも拘らず彼の主張は、いつも大概通る。
彼は結果において独裁者であるが、その独裁の過程は、ほとんど女性的とさえいえる柔らかい言葉と、思いやりのある仕草で包装されていた。
この点彼はまさに天才的であった。
栄蔵は大杉と識りあってから僅かに一年ばかりで、主義上敵の地位にまわって、心ならずも彼を裏切り、彼から「ゴマの蠅」と罵られるにいたったが、それでも栄蔵は少しも彼に反感を抱きえないばかりか、罵られて却って嬉しい気がするほど彼には男惚れしている。
栄蔵が識った日本の全ての社会運動家のうち、大杉に匹敵する人物は、残念ながら、一人もいない。
彼が甘粕に殺され仇討ちを、死を期して敢行せんとした同志が三人も現われたという事実だけでも、彼の人格を物語って余りある。
こんなエピソードは、近代日本の社会運動史上、他にどこにもない。
(『近藤栄蔵自伝』_P143)
四角張らない会議だったが、決めるべきことはサクサクと決まっていった。
四六版、四倍版、十〜八頁の週刊紙は、当時、かなりの資金を要する大胆な冒険だった。
金の出どころについては、栄蔵は山川からおおよそのことは聞いていた。
紙面の分担については、大杉主幹が毎号社説と政治面、和田久太郎が労働組合方面のレポート、農民運動は岩佐作太郎、社会記事が中村還一、編集主任が近藤憲二とアナ側の人材という担当が決まった。
大杉は栄蔵に、毎号全一頁を任せるからなんでも勝手にロシア革命について書けと言った。
近藤憲二『一無政府主義者の回想』によれば、資金については二千円で足りるはずがなく、足りない分は大杉が工面した。
★大杉豊『日録・大杉栄伝』(社会評論社・2009年9月16日)
★『近藤栄蔵自伝』(ひえい書房・1970年)
★★近藤憲二『一無政府主義者の回想』(平凡社・1965年6月30日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
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