2016年07月25日
第305回 出獄
文●ツルシカズヒコ
一九二〇(大正九)年三月十五日、日本では株価が三分の一に大暴落し、欧州大戦後の戦後恐慌が始まった。
三月二十三日、大杉が三ヶ月の刑期を終えて豊多摩監獄から出獄した。
『読売新聞』は「昨朝 大杉栄氏 出獄す」という見出しで、こう報じている。
……昨日朝七時、伊藤野枝氏を始め同士廿数名に迎へられ革命歌に擁せられて出獄せり。
同氏は頤髭(あごひげ)蓬々(ぼうぼう)たれども極めて元気なりしと。
(『読売新聞』1920年3月24日)
大杉は『労働運動』に「出獄の辞」を書いている。
さすがに別荘は別荘です。
ほかではとても出来ないほんとうの保養をして来ました。
最近十年間、毎年の冬の半ば以上は寝て暮らして来たのだが、あの通りの北極近いところで、死苦の寒気を嘗めながら、それをゆつくりと味つて、咳一つ、痰一つ、クシャミ一つ出さずに過ごして来ました。
そして最近の僕にはまつたく不可能であつた、たつた一人きりの生活を楽しみながら、三ケ月間をただ瞑想と読書とに耽つて来ました。
(「出獄の辞」/『労働運動』1920年4月30日・第1次第5号/『大杉栄全集 第四巻』/『大杉栄全集 第14巻』)
三月二十八日、大杉と野枝は、大杉が入獄中に働いてくれた『労働運動』関係者の慰労会を開いた。
野枝によれば、招待した客は「内にいる四五人」と「他に雑誌の上に直接の援助を与えてくれた、二三の人達」である(「或る男の堕落」)。
大杉豊『日録・大杉栄伝』によれば、近藤憲二、和田久太郎、中村還一、久板卯之助、延島英一、服部浜次、吉川守圀、大石七分のようだ。
前日、野枝は大杉と一緒に食材の買い出しに出かけた。
食べ物に飢えた大杉の眼を引いたのは、走りものの野菜だった。
ふたりは筍、さやえんどう、茄子、胡瓜、そんなものをかなり買い込んだ。
大杉は、野枝が料理をするときはいつもそうするように、野菜物の下ごしらえの手伝いをしていた。
そこに水沼辰夫が吉田一(はじめ)を連れてやって来た。
家が狭く食器類も少ないので、声をかけている招待客だけでも人数超過なのに、さらにふたりの客が増えたことは番狂わせだった。
野枝はいろいろ思案しながら、そしてせっかくの慰労会に無遠慮な吉田に割り込まれるのは困ったことだと思いながら、手を動かしていた。
するとまもなく、ふたりは帰って行った。
「帰りましたの?」
台所に入って来た大杉を見上げながら、野枝が訪ねた。
「ああ、帰った。吉田の奴、水沼が帰ろうと言うと『三月だというのに筍の顔なんか見て帰れるかい。俺あ、ご馳走になって帰るんだ』と言ったから、今日は君は招待された客じゃないのだ。ご馳走することはできないから帰れって帰してやった」
「困った人ね」
野枝はただそう言うよりほかなかった。
そして、野枝は図々しい吉田がいなくて助かったという気がしたが、水沼にはなんとなくすまない気がした。
ちなみに大杉豊『日録・大杉栄伝』によれば、野枝は炊事をしながらよく『ケンタッキーの我が家』(My Old Kentucky Home)を歌ったという。
英語で歌っていたかもしれない。
まもなく大杉一家は鎌倉に引っ越し、第二次『労働運動』を始めるころまでに、吉田は二、三度遊びに来たが、彼は大杉たちに反感を持ち煙たがるようになった。
吉田は帰り際には大杉の財布をはたかせたり、着物まで質草に持って行くような真似もした。
その後、吉田は大杉の悪口を猛烈に言うようになり、野枝たちもそのことは知っていた。
吉田は雑誌を始めることを口実に、同志を通して金を要求してきたが、大杉は一切耳を傾けなかった。
大杉が第二次『労働運動』を創刊してからは、吉田は明らかに大杉たちに敵意を示し始めた。
雑誌を創刊した吉田は、大杉の予言どおり、真面目な運動から外れて金を集めるゴロツキになってしまった。
彼がロシアへ立つ前に仲間の人々に対して働いた言語道断な悉(あら)ゆる振舞ひは、もう人間としての一切の信用を堕すに充分でした。
しかし、彼れの持ち前の図々しさと己惚れは、まだ、彼れを其堕落の淵に目ざめさす事が出来ないのです。
私は彼の目ざましかつた,初期の運動に対する熱心さや、彼の持つてゐる、そして今は全く隠されてゐるその熱情を想ふ度びに、彼れの為めに惜しまずにはゐられませんでした。
が、邪道にそれた彼れの恐ろしい恥知らずな行為を、私は決して過失と見すごす事は出来ないのです。
(「或る男の堕落」/『女性改造』1923年11月号・第2巻第11号/『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』)
『女性改造』一九二三年十一月号は伊藤野枝追悼小特集を組み、野枝の「遺稿」として「或る男の堕落」を掲載している。
『定本 伊藤野枝全集 第一巻』解題、小松隆二『大正自由人物語』(p180)によれば、吉田が創刊したのは『労働者』(労働社・一九二一年四月創刊)。
第二次『労働運動』はアナ・ボルの提携であり、インテリと非労働者中心だったが、それに批判的だった労働者が『労働者』に結集した。
吉田は『労働者』の編集・発行・印刷人だった。
「ロシアへ立つ」た吉田は、一九二二(大正十一)年一月、モスクワで開催された極東諸民族大会に参加した。
ちなみに、吉田は「第二次世界大戦後に安売り豆腐屋として知られ」(『大正自由人物語』)たという。
労働社に関わった神近市子は「或る男の堕落」に対抗するかのように、『労働者』創刊の経緯を小説にした「未来をめぐる幻影」を『改造』(一九二四年一月号)に発表し、それは単行本『未来をめぐる幻影』(解放社・一九二八年十一月)に収録された。
「未来をめぐる幻影」に登場する人物は、すべて仮名である。
渡辺政太郎(仮名/土屋,以下同)、大杉(有松)、泉(久板卯之介)、吉田一(内海)、村木(津上)、近藤栄蔵(伊丹)などが登場している。
ロシアのボルシェビキから金をもらって帰国した大杉が、その金を使ってブルジョア的な生活をしているなど、大杉に対する神近の批判の視点で貫かれている。
野枝らしき人物はまったく登場していない。
神近はこの原稿を大杉と野枝が虐殺された直後に執筆しているはずだが、その筆致には大杉と野枝に対する哀惜の情はまったくない。
★『大杉栄全集 第四巻』(大杉栄全集刊行会・1926年9月8日)
★『大杉栄全集 第14巻』(日本図書センター・1995年1月25日)
★大杉豊『日録・大杉栄伝』(社会評論社・2009年9月16日)
★『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』(大杉栄全集刊行会・1925年12月8日)
★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)
★小松隆二『大正自由人物語 望月桂とその周辺』(岩波書店・1988年8月24日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
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