2016年07月25日
第304回 ロシアの婦人運動
文●ツルシカズヒコ
野枝は『改造』一九二〇(大正九)年三月号に「クロポトキンの自叙伝に現はれたるロシアの婦人運動」を書いた。
「クロポトキン思想批判」特集の中の一文であり、同特集には他に昇曙夢、片上伸、室伏高信、井箆節三が執筆している。
クロポトキン著、大杉栄訳『一革命家の思出』(春陽堂書店/一九二〇年五月)の第六節を中心にした紹介である。
クロポトキンの回想記『一革命家の思出』は、野枝に深い感激を与えたが、特に一八六〇年代に起こったロシアの婦人たちの高等教育を受けるための大運動は、野枝に限りない羨望を感じさせた。
それはアレキサンダー二世の治世下であった。
アレキサンダー二世はパリで狙撃されて以来、若い知識階級を恐れ、彼らに弾圧を加えた。
そんな中、婦人たちが「大学を婦人に解放せよ」という要求を掲げ、頑迷な政府と戦い、勝利を得たことに、野枝は感激したのである。
セント・ペテルスブルグは当時の婦人運動の中心地で、全国の若い婦人たちはこの運動に加わるために、ここに集まって来た。
彼女たちは大学の講義を聴きたいと願ったが、「女学校を卒業したくらいでは、その資格がない」と政府にはねつけられた。
すると彼女たちは、大学予備校を開校する許可を願い出た。
政府は許可を与えることを拒んだ。
そこで彼女たちはセント・ペテルスブルグのあちこちで、講習会などを始めた。
大学教授たちは、彼女たちの運動に同情し喜んで講義を受け待った。
こうして勉強しながら、女医学校や女子大を開こうという計画のために、学校や教育法についての討論会が開かれ、婦人たちが熱心に論じ合った。
産婆学の講習会では、教授に迫って定められたよりはずっと詳細に各課目を講じさせた、
その熱心さによって、老博士クウルベルが解剖研究室に入ることを許すと、彼女たちは一生懸命に勉強した。
彼女たちの立派な成績により、この解剖学者は彼女たちの味方になった。
日曜日の夜など、誰か教授がその研究室で勉強させてもいいと言えば、彼女たちはそこに押し寄せて熱心に夜遅くまで勉強した。
彼女たちはついに文部省から、教育学講習会という名義で大学の予備校を開く許可を得た。
こうして彼女たちは確実に一歩一歩、権利を拡張していった。
ドイツのある大学のある教授が婦人に講義を解放しているという話を聞くと、すぐにその教授の講義を聴きに行った。
彼女たちはハイデルベルヒで法律や歴史を、ベルリンで数学を勉強した。
チューリッヒでは百人あまりの婦人が大学や百科工芸学校に通った。
教授たちは彼女たちの優秀さに驚いた。
クロポトキンも一八七二年にチューリッヒに行き、百科工芸学校に通っている若い婦人たちの数学の素養の高さに驚き、「長年の数学の素養があるかのように、造作もなく微分法を使って熱学の複雑な問題を解いていた」と書いている。
ベルリン大学のワイエルストラス教授の下で数学を学んでいたロシア婦人のひとり、ソフィア・コワレフスキイはその才能の高さが評判になり、ストックホルムの大学の教授に招聘された。
アレキサンダー二世は、眼鏡をかけて円いガリバルディ帽をかぶった女に会うと、自分を撃ち殺そうしているニヒリストだと思って慄(ふる)えたという。
女学生はアレキサンダー二世から革命家として憎まれ、国事警察に弾圧され、政府の命を受けた新聞に罵倒され讒訴(ざんそ)されたが、彼女たちはいくつかの教育機関を設けることに成功した。
一八七二年には彼女たち自身の私立医科大学を開いた。
婦人たちはすでにクリミア戦争の際には看護婦として働いていた。
その後、小学校の教師として、農村の教育ある産婆として、医師の助手として働いた。
一八七七年から始まった露土戦争では、看護婦として医師として貢献したので、アレキサンダー二世や軍司令官から賞賛され、婦人たちは自分たちの本当の権利を獲得したのだ。
この運動の特徴のひとつは、姉と妹の間の世代の裂け目が少なかったことだ。
姉世代は一切の政治運動とは没交渉だったが、その運動の本当の力が急進的あるいは革命団体に結びついた若い女たちのグループにあることを忘れるような過ちをしなかった。
若い女学生たちが髪を短く切り、天鵞絨(ビロード)の「下袴の張り」を嫌い、ニヒリストとして行動する彼女たちと、姉世代の婦人たちは縁を切ることをしなかった。
狂気のような迫害の時代には、非常に偉いことだった。
ロシアの婦人運動はただこれのみでも充分に勝利を得たのだと思った野枝は、日本の「姉世代」の婦人を痛烈に批判している。
それにくらべますと、現在日本の女子教育家とか……婦人界の全権を振つてゐるやうな顔をしておさまつてゐる多くの某々婦人や……お歴々の浅薄さ加減はどうでせう。
若い女達の意見などは耳にもかけません。
まして其の思想を理解したり尊敬する事はまるで知りません。
変つた服装をするとか、他眼(ひとめ)にたちやすい髪でもすると即座にとがめる。
若し政府に反抗するなどゝ云ふ事があれば、たちまちにして他人になる処ではなく前生からの仇敵の憎しみは必ず持ちます。
より急進的な、燃ゆるような情熱の所有者である若い娘達と『一緒に仕事をする』などと云ふやうな事は日本の貧弱な知識階級の女達には、とても思ひも及ばない事だと云はなければなりません。
ロシアの……婦人達は、立派な彼女自身の見識を持つてゐました。
彼女達は立派な独立した人格を持つてゐました。
彼女達は大抵の国の女達がそれに禍(わざわい)されて容易に脱し得ない性の区別などは全(ま)るで念頭においてゐなかつた。
彼女は何んの躊躇もなしに、人間としての同一目的の為めに、悉(ことごとく)この不正不義に向つて、男子と肩をすれ合はして戦ふ事を知つてゐた。
彼女達は……人類の生活の正しい意義を見つめてゐました。
彼女達が高等教育を受けたい、と云ふ望みも、たゞいゝ加減な自分一個の知識欲を満たす為めばかりではなかつたのです。
ロシアの婦人達は他のどの国の女達よりも進んだ立派な人格と、確(し)つかりした正しい考へを持つてゐた。
(「クロポトキンの自叙伝に現はれたるロシアの婦人運動/『改造』1920年3月号・第2巻第3号/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』_p166~167)
一八七二年にチューリッヒに行ったクロポトキンは、そこに集うロシアの若い男女の学生の生活をこう書いている。
「百科工芸学校の近くの有名なオオベルシュトラアスはロシア町となって、そこでは主にロシア語が使われていた。学生たちは極くわずかなもので生活していた。特に女はそうだった。社会主義運動の最近の出来事や、最近に読んだ書物についての盛んな討論をしながら、茶とパンと牛乳と、それにアルコールランプの上で煮た薄い肉片。これが彼らのお決まりの食べ物だった。」
プーシキンは詩の中で「どんな帽子でも十六の娘に似合わないということがあろうか」と言ったが、服を倹約していたチューリッヒのロシアの少女たちは、こう問いかけているようだった。
「どんな質素な着物でも、それを着る女が若くて利口で、そして元気に充ちていれば、その女を娘らしく見せないということがあろうか」
そして、野枝はそのころロシアの若者の間に激しい勢いで広まった虚無党に触れ、ツルゲーネフの『父と子』の青年とその父のように、虚無党に関わった娘と両親の確執について書き、最後をこう結んだ。
新旧思想の衝突は、何(ど)の国でも、何処の家庭でも同じやうな形式のものです。
此の点でも私は同一団体の中に於いて、厳重に、急進的な若い人達と自分達の間に区別しながら、しかも其の若い人達を中心にしてそれを庇護し其の為めに確実な勝利を得る事に努めたロシア婦人の先覚者達のえらさを、此処に繰り返さずにはゐられないのである。
今やロシアは、革命的の混乱状態にあります。
しかし、やがて、其混乱が一とかたづきした暁には、新しいロシアは悉ゆる方面に渡つて世界人類の先覚者として輝き出すに違いないと思ふ。
(「クロポトキンの自叙伝に現はれたるロシアの婦人運動/『改造』1920年3月号・第2巻第3号/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』_p169)
★『定本 伊藤野枝全集 第三巻』(學藝書林・2000年9月30日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
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