2016年05月17日
第187回 桜川
文●ツルシカズヒコ
そして、弥生子はふとあることを思い出した。
それはつい二、三日前、弥生子の耳に入った野枝が大杉と親密な関係だという噂だった。
そんなことはありえないと考えていた弥生子は、冗談のつもりで言った。
「あなたはM(※大杉)さんと大層仲のいゝお友達だつてことを聞いてよ。本統ですか。」
「何を云つてるのですかね。下らないこと。」
一言の許に斯う笑ひ捨てられるのを予期しながら。
ーーすると結果は意外でありました。
彼女の青く疲れた顔が瞬時にぱつと赤く染まつて、まごついたような目ばたきをしました。
(「彼女」/『中央公論』1917年2月号・第32年第2号/『野上弥生子全集 第三巻』_p321)
野枝は弥生子に経緯を話し始めた。
大杉から愛を告白されたのはひと月ほど前だったが、自分の中にも大杉を愛する芽が育っているのは否定できないと、野枝は語った。
弥生子はこの別居問題が重大な一事件であることを知り非常に驚き、そして友達の秘密に対する秘かな好奇心も湧いてきた。
弥生子の目は、先刻、膝の上の子供を見たときのような涙目ではなかった。
まだ隠されていることがあるーーそれを探ろうとするように、弥生子は野枝の青い顔を見つめ、はきはきした声で聞けるだけのことを聞いた。
「ぢゃ、今度の別居問題はもと/\それに関係して起つた話なのですね。」
「決してそうぢゃありませんの。」
(「彼女」/『中央公論』1917年2月号・第32年第2号/『野上弥生子全集 第三巻』_p322)
野枝は強く否定し、大杉には長く同棲している妻の保子もあり、神近とも親密であるから、容易(たやす)く彼に「許す」ようなことも決してしていないと答えた。
弥生子は別居のことは仕方ないとしても、大杉とのことはもっと慎重であるべきだと言った。
大杉に対する野枝の感情が本物かどうか冷静に判断できるまでには、二年ぐらいの時間が必要だと思った。
「私に忌憚なく批評さして頂けば、あなたの第一の結婚はそんな意味から考へて随分無反省なものだつたと思ひますよ。
ーー初恋と云ふものはまあ誰もそんなものでせうけれど。ーー
でも、今のあなたはもうその時の十八ぢゃありませんし、殊に、そんな点には普通の婦人以上に自覚した新しい婦人として立つてゐられるのですからね。
だいいちあなたの別居だつて、誰のために計画した事でせう。
皆んなあなた自身の成長のために、もうちつと、しつかりした根柢を造りたいために、面倒な家庭的葛藤を離れるといふのが目的だつたぢやありませんか。
ね、然うでせう。
それに恋なんかしてゐる隙があつて?」
伸子は思ふ通りのことを遠慮なしに云つて笑ひました。
「子供までも一人は犠牲にしやうとしてゐるのぢゃありませんか。
本統にしつかりしなくちやいけませんよ。
この際思ひきつてエゴイストにおなんなさい。
自分自身の成長のために。
Mさんだつて誰だつて、あなた自身よりも大切なものがあなたにありまして?」
「どうぞ心配しないで下さい。私だつてその事は十分考へてゐのですから。」
彼女はしほらしい程沈んでゐました。
(「彼女」/『中央公論』1917年2月号・第32年第2号/『野上弥生子全集 第三巻』_p312~323)
弥生子は大杉の性格や学識については何も知らなかったが、彼が社会主義者の勇敢な戦士であることを思うと、野枝が惹かれたのは彼のその部分であると判断せざるを得なかった。
そして、それは野枝が辻からは決して得ることのできないものであることも、弥生子は熟知していた。
弥生子の胸中には三年前の野枝と木村荘太とのラブアフェアのことも浮かんできたーーあのとき野枝が妊娠中でなかったら、どうなっていただろうか?
野枝に対してそれまで抱いたことのなかったある険しい感情が、弥生子の心中に生じたが、目の前にいる子供を抱いていかにも母親らしい野枝の姿を見ると、弥生子の感情はまたたちまち一転した。
弥生子はまだ野枝を信じていた。
野枝になんの罪があろうか。
まだ若いのだ。
やっと二十一だ。
その一事によって許されてもいいはずだ。
そのとき、座敷から弥生子にお呼びがかかった。
「桜川」のシテを務めるはずだった人が不参加になったので、代わりに謡ってほしいという。
弥生子が迷っていると、野枝も謡うことを勧めた。
「待つてゐますから謡つてゐらつしやいよ。」
伸子は座敷へ行きました。
人買ひに身を売つた我子を尋ねて、日向の国からはる/″\迷ひ出た昔の狂女の物語が、今一人の子供を残し、一人の子供を抱いて家を出やうとしてゐる母親のかなしい心持ちに思ひ比べられました。
同時にそれ程の大事を相談するためにわざ/\尋ねて来た友達を部屋へ置きつ放しにして、大きな声を出して謡など謡ふ気になつた自分が如何にも軽薄のやうに顧みられました。
待つている彼女に対してすまない気がしました。
伸子は役をすますと早々に座敷を辷(すべ)り出て元の部屋へ帰りました。
が、其処に見出した彼女の顔の表情には、その瞬間の伸子の心持とはそぐはない或物がありました。
彼女は伸子とさし向ひに座つていた先刻よりもずつと晴れ/″\しい様子をして、夕飯代りに出した「重箱」の弁当を甘そうに食べてゐました。
而して伸子が部屋へ這入つて来るのを見ると、
「あなたの声は本統にいゝ声ね。」
と誇張した調子で褒めました。
伸子は厭な気がしました。
而して思ひました。
「今の大事の場合にこの人は何故あんなお世辞見たいな事を空々しく云へるのだらう。」
と。
そう云へば牛込の方へ行つてからの彼女には、世間的にくだけた態度が見えて、調子のいゝ話をしたりする場合のあるのが思ひ合はされました。
すべてが生活上の弱味から生じた事だらうと思ふと、それも矢張り咎められない気もしました。
(「彼女」/『中央公論』1917年2月号・第32年第2号/『野上弥生子全集 第三巻』_p324~325)
野枝が帰るとき、弥生子は一緒に門を出て小半丁先の植木屋の角まで見送った。
星の暗い朧夜(おぼろよ)だった。
夜の冷えを思って弥生子が赤ん坊の上からかけてやった大きなねんねこにくるまって、停車場の方へとぼとぼ歩いてい行く野枝の後ろ姿を、弥生子は立ち留まって見送った。
弥生子は友達が臨んでいる大事な転機、これから出逢うだろう険しい道を想い、彼女を愛する心とよき運命を祈る心でいっぱいになった。
★『野上彌生子全集 第三巻』(岩波書店・1980年10月6日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
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