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2016年05月17日

第186回 謡い会






文●ツルシカズヒコ




 野上弥生子「彼女」によれば、野枝が突然、弥生子に会いに来たのは一九一六(大正五)年の四月下旬のある日だった。

『女性改造』一九二三年十一月号に掲載された、野上弥生子の口述筆記「野枝さんのこと」では、野枝が訪れたこの日を弥生子は「大正五年の三月」(p158)と語っているが、ひとまずここではこの「彼女」の記述に沿ってみたい。

「彼女」の記述から推定すると、この日は四月二十三日と思われる。

 そのころ、野枝と弥生子は以前に比べればだいぶ疎遠になっていたが、友情のこもった手紙の交換は続けていた。

 野枝と辻の夫婦仲が芳しくないという噂は弥生子の耳にも入っていた。

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 その日は弥生子の夫、野上豊一郎の友人が野上宅に集まり、謡い会を催すことになっていた。

 井出文子『「青鞜」の女たち』によれば、この日、野上家に集まったのは安倍能成木曜会の常連たちだった。

 日の暮れ方、座敷にメンバーが揃い、初番は豊一郎をシテとした「西王母」だった。

 地頭(じがしら)として家元が来ていたので、堂々たる謡になっていた。

 ちょうどそのとき、野枝が訪れた。


「御免下さい。」

 と云ふ聞き馴れた高い太い声が玄関に聞こえました。

 心待ちにしてゐたので伸子(※弥生子)は自分で出で行きました。

 久しぶりの彼女が格子戸の外に立ってゐました。

「お客様でせう。」

 彼女は大勢の謡ひ声と、明るい部屋々々の灯で、自分が折悪く来た事を感じたらしくありました。

「構ひませんの。……」


(「彼女」/『中央公論』1917年2月号・第32年第2号/『野上弥生子全集 第三巻』_p317)





 野枝が背中におぶっていた生後五ヶ月の流二を下ろし、弥生子が流二を抱きかかえて先に立った。

 下の部屋はみなふさがっていたので、弥生子は二階の自分の書斎で話そうかと思ったが、ちょいちょい用事で呼び立てられるたびに降りて行くのも億劫だったので、野枝を六畳の子供部屋に案内した。

 小型な子供机、お伽噺の本の詰まった書棚。

 壁には飛行機、鉄砲、背嚢、ラケットの類いが雑然と配列された部屋にふたりは座った。


「もういよ/\学校へゐらつしやるのねぇ。」

 本棚の横に、月曜=算術、手工、国語、遊戯と云ふ風に書いて貼り付けられてある小学一年生の長男の時間割を彼女は物珍らしげに眺めて云ひました。

 けれどもそんな呑気な子供の話なぞをし合ふために、今日わざ/\来たのでない事はその顔色が語つてゐました。

 彼女はびっくりする程、やつれ疲れて見えました。

 而して非常に沈んでゐました。

「決心していよ/\別れやうと思ふのですよ。」

 彼女はとう/\持って来た胸の中のかたまりを話し出しました。

「子供はどうする積りなの。」


(「彼女」/『中央公論』1917年2月号・第32年第2号/『野上弥生子全集 第三巻』_p318)





 お婆ちゃんに懐いている一(まこと)は家に置いて、流二を連れて行くつもりだと野枝は答えた。

 先のことを考えればふたりとも連れて行きたいが、そうすると子供の世話で手いっぱいになり自分の勉強どころではなくなるからだ。


「O(※辻)さんはそれでもう承諾なすつたのですか。」

「承諾はしました。でもね、又色んな事を云つて私の決心を止めさせやうとしてゐるのです。でもそんな事はもうこれまで何度繰り返したか知れないのですもの。今となつてどんなことを云つたつて、OはOの道しか行かない事は分つてゐますわ。今思ひきり別れて了ふのはOのためにもいゝのです。」


(「彼女」/『中央公論』1917年2月号・第32年第2号/『野上弥生子全集 第三巻』_p319)





 江戸文化の頽廃した血を受け継ぎ、スチルネルあたりの自堕落なデカダンスの影響を受けた厭世家、かつ精神病者であったという父方の遺伝……。

 辻が己の道を変えないだろうということには弥生子も同意ができた。

 弥生子は辻の吹く尺八の音色を思い浮かべた。

 それはいつも悠々と響いていた。

 家賃が滞って家を立ち退かなければならなくなったときでも、明日のパンを心配しなければならない夕方でも。

 一途に強いもの、美しいものを讃美したがる南国生まれの女の知的に伸びようとする欲望と、辻の厭世的傾向に距離が出てきたのは仕方がないことだとも、弥生子は思った。

 弥生子は辻が起こした「無反省な恋愛事件」も野枝から聞いていた。

 今までよく許し堪えてきたーー弥生子の同情は野枝の上にしかなかった。

 不幸なことだけれども仕方がないーーけれども、野枝の膝の上にすやすやと眠っている赤ん坊を見ると、弥生子は悲しく気の毒に思う心でいっぱいになった。

 弥生子は経済上の援助のこともふくめ、できるだけのことをしてあげたかった。


※「西王母2」※野上弥生子の成城の家


★井出文子『「青鞜」の女たち』(海燕書房・1975年10月1日)

★『野上彌生子全集 第三巻』(岩波書店・1980年10月6日)




●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 18:49| 本文
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1955年生まれ。早稲田大学法学部卒業。『週刊SPA!』などの編集をへてフリーランスに。著書は『「週刊SPA!」黄金伝説 1988〜1995 おたくの時代を作った男』(朝日新聞出版)『秩父事件再発見』(新日本出版社)など。
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