2016年05月17日
第185回 別居について
文●ツルシカズヒコ
一九一六(大正五)年二月から四月にかけての野枝の心境はどうだったのか。
野枝が辻の家を出て別居を決行するのは四月末であるが、野枝はそこに到るまでの自分の心中を「申訳丈けに」に書いている。
五年間の結婚生活は自分に無理を強いるものだったと、まず野枝は書いている。
辻とふたりだけの生活ではなく、姑と小姑が同居している家庭は、たとえ彼女たちが寛大な人間であっても、野枝にとって忍従を強いるものだった。
野枝にとって唯一の避難場所は辻であり、辻は信頼のおける避難場所たりえた。
しかし、一年ほど前に例の不倫事件が起きた。
一度失くしてしまった信頼を回復することはできなかった。
野枝は別居を申し出たが、遂行することができなかった。
ひとつは、種々の情実のため。
そして自分自身の中に辻との生活に未練があったから。
苦悩が始まった。
過去への未練、現在の生活にからみついた情実、肉体に対する執着ーーかつてふたりが軽蔑した、男女関係に自分たちが陥ってしまっていることへの困惑。
子供の問題もあった。
自分の経験からして、子供は実の親のもとで育てることだけが幸福だとは言えないが、母親としての本能的な愛もやはりある。
ともかく野枝は「どうにかしなければならない」という思いが募るばかりだったが、それは絶望ではなく焦慮だった。
野枝の焦慮は実生活における家庭問題の解決に留まらず、自分にしっくりくる思考を追求していた。
そこに大杉との接触が生じた。
大杉との接触を通じて、それまで大杉との関係はフレンドシップ以外の何物でもないと思っていたが、そう言い切ることができない自分の感情があることに気づいた。
そして、野枝は辻に対する自分の愛に疑いを持ち始め、辻とは別れてもいいという決心をするまでになった。
しかし、その時点では大杉との関係もあくまでフレンドシップで通すつもりだったので、それを大杉に伝えに行くと、神近もいたので三者で話し合うことになった。
宮嶋の家での三者会談で、野枝は自分はこの問題についてはしばらく持ち越すつもりだと言った。
野枝はまず辻との別居を実行し、それから大杉に対する自分の態度を決めたいと考えていた。
しかし、世間はそう見ないだろう。
大杉との恋愛が生じたから、辻と別れたーーそう見られるのが必至であることが、野枝は口惜しかった。
辻との別居は一年も前から考えに考え抜いた末の決断なのだと、辻や彼の家族に理解してもらうためにも、あるいは世間の無責任な風評を封じるためにも、今は大杉の自分への愛を拒み、自分の大杉への愛を封じることしかないと野枝は考えた。
野枝はその決意を大杉に直接会って伝えることは伝えた。
しかし、ますます大杉に対する愛は否定できなくなった。
だが、大杉には堀保子もいる、神近市子もいる。
野枝は保子と神近がいる以上、大杉との恋愛において自分は前に進めないということも大杉に伝えた。
夫と子供を棄てた女、そして大杉の妻と恋人から大杉を奪った女ーーやはり、野枝も世間からの圧迫はできうるかぎり避けたかった。
で私は、打(ぶ)つかる処まで行つて見る気になりましたのです。
その時の私の気持は私がもう少し力強く進んで行けばその力で二人の人を退け得ると云ふ自惚が充分にありました。
さうしてさう自分で決心がつきますと非常に自由な気持ちになりました。
私の苦悶はそれで終りました。
さうして辻の同意を得てその翌日家を出て仕舞ひました。
(「申訳丈けに」/『女の世界』1916年6月号・第2巻第7号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p379 ※初収録された大杉栄全集刊行会版『伊藤野枝全集』では、前後の安成二郎宛ての手紙部分を除き「『別居』に就いて」と改題して収録されている)
ともかく野枝は世間からどう非難されようとかまわないと腹をくくり、つまり世間に対する虚栄心などきれいさっぱり捨て去り、自分が進むべきところに向かって行く決意をしたのである。
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
-
no image
-
no image
-
no image
-
no image
-
no image