2016年04月24日
第117回 下田歌子
文●ツルシカズヒコ
結局、『青鞜』の「三周年記念号」は十月号(第四巻第九号)になった。
野枝は『青鞜』同号に「遺書の一部より」と「下田歌子女史へ」を書いている。
『定本 伊藤野枝全集 第二巻』の「解題」によれば、「下田歌子女史へ」は『新日本』九月号の「現代思想界の八先覚に与ふる公開状」に掲載されるはずだった。
「丁度新日本では戦争がはじまつて記事が輻輳(ふくそう)して困るから十月にまはすと云つて来た」(「下田歌子女史へ」本文はしがき/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』)ので、原稿を返してもらい『青鞜』に掲載したのである。
「戦争」とは第一次世界大戦のことで、日本は第三回日英同盟協約により八月二十三日、ドイツ帝国へ宣戦布告し連合国の一員として参戦した。
下田歌子は明治天皇の皇后、美子(はるこ/昭憲皇太后)の寵愛を受け、伊藤博文の庇護もあり(伊藤の愛人だったと言われている)、華族女学校学監(後に学習院教授兼女学部長)を経て、自ら創設した実践女学校校長を務める女子教育界の女帝だった。
英国の良妻賢母教育を視察するためロンドンに滞在中の一八九五(明治二十八)年五月、歌子はバッキンガム宮殿で十二単を着てヴィクトリア女王に謁見した。
野枝はこの原稿を「嫌でたまらないものを二度も三度も催促をうけて無理な努力で書いた」(本文はしがき)のである。
なぜなら、野枝は歌子にまったく興味がなかったからだ。
それもそのはずだ。
一八五四(安政元)年生まれの歌子は、野枝より四十歳以上も年長の天皇崇拝者である。
しかし、野枝は実際に歌子に面会して、原稿を書いてみようと思い、面会を申し入れる葉書を書いた。
その理由をこう書いている。
私は棚橋絢子(たなはし・あやこ)とか跡見花蹊(あとみ・かけい)とか云ふ人たちがあなたのお仲間であるかないか知りませんがおなじに並んでゐらつしやるあのお婆さん達なら実際てんからそんなはがき処か書くことをうけ合ひはしません。
けれどもあなたはあの人たちよりもいろんな意味から所謂(いわゆる)「えたいの知れない人」であることが私の注意を少し引きました。
(「下田歌子女史へ」/『青鞜』1914年10月号・第4巻第9号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p115)
歌子からの返信はなかった。
しかし、野枝にとって天皇を崇拝する国家主義者である歌子は、あまりに思考がかけ離れ過ぎて批判の対象にはなりえなかったが、野枝は野望に向かって自力で道を切り拓いてきた、「一筋縄ではいかない女」であり「肝っ玉の座り処のある」歌子の「才能」を認めている。
野枝は『廿世紀』十月号「女と男の戦」特集に「喧嘩両成敗」を書いた。
野枝はエマ・ゴールドマンの言葉を引用している。
私は男と女が半分づゝ持寄つて合はせたものが完全な一つの世界であることを信ずる。
私の敬愛するゴルドマンはその両性の関係について「両性関係の真意義は征服者被征服者と云ふが如き関係を許さない……」と云つた。
ノラが家出をしたことは妻であり母であることをいとふたのではなくて、「八年間見ず知らずの他人と同棲して子供を生んだと云ふことに気がついたからだ。二人のあかの他人が一生の親密の関係を造ると云ふより以上に陋劣な堕落したことがあり得やうか」とゴルドマンは云つた。
(「喧嘩両成敗」/『廿世紀』1914年10月号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p119~121)
ノラの下りの原文は以下である。
Nora leaves her husband, not − as the stupid critic would have it − because she is tired of her responsibilities or feels the need of woman’s rights, but because she has come to know that for eight years she had lived with a stranger and borne him children. Can there be any thing more humiliating, more degrading than a life long proximity between two strangers?
(「Marriage and Love」/Emma Goldman『Anarchism and Other Essays』)
『青鞜』十月号の編集を終えたらいてうは十月十二日、奥村と一緒に千葉県の御宿海岸に旅立った。
らいてうは『現代と婦人生活』という本を日月社から上梓し、その稿料の一部を印刷所への支払いの一部にあて、その残りを御宿滞在費にあてた。
らいてうは留守中のことは、すべて野枝に頼んだ。
岩野清子はこの年の二月に男児の母になっていたし、保持も哥津も既婚者になっていた。
らいてうが頼れるのは、野枝しかいなかった。
十一月号と十二月号の編集のことも、野枝さんに無理とは思いながら押しつけたのでした。
……わたくしにとっては、身近な野枝さんが、いまは一番たよりになる存在なのでした。
赤ちゃんをかかえて、人一倍忙しい野枝さんですけれど、若さのあふれた笑顔で、「お留守の間のことは引受けます。辻にも手伝ってもらいますから……」と、旅に出るわたくしを励ましてくれるのをほんとうにうれしく思いました。
(『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』_p546~547)
野枝はこう記している。
永い間不如意な経済の遣繰りや方々の書店との交渉やそれからまだ外の細々とした面倒な仕事と雑誌編輯で疲れ切つたらいてう氏は十月十二日に千葉県の御宿村へ行つた。
後に残された私はそれ等の仕事をすつかりしなければならなかつた。
二ケ月位はどんな苦しいことでも忍ぶ義務があるとらいてう氏は十一日に私が社に行つたときに笑ひ笑ひ云つた。
私も苦しむでも仕方がないと思つた。
(「編輯室より」/『青鞜』1914年11月号・第4巻第10号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p130)
★『定本 伊藤野枝全集 第二巻』(學藝書林・2000年5月31日)
★『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』(大月書店・1971年9月6日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
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