2016年05月06日
第141回 谷中村(六)
文●ツルシカズヒコ
渡辺政太郎(まさたろう)が訪れた次の日も、その次の日も、野枝は目前に迫った仕事の暇には、黙ってひとりきりで谷中村の問題について考えていた。
Tの云つた事も、漸次に、何の不平もなしに真実に、受け容れる事が出来て来はしたけれど、最初からの私自身受けた感じの上には何の響きも来なかつた。
Tの理屈は正しい。
私はそれを理解する事は出来る。
併し、私には、その理屈より他に、その理屈で流して仕舞ふ事の出来ない、事実に対する感じが生きてゐる。
私はそれをTのやうに単に幼稚なセンテイメンタリズムとして無雑作に軽蔑する事も出来ないし、無視する事も出来ないのだ。
(「転機」/『文明批評』1918年1月号・第1巻第1号〜2月号・第1巻第2号/『乞食の名誉』・聚英閣・1920年5月/『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』_p398~399/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p228)
野枝がたまたま聞いたひとつの事実は、広い世の中の一隅における、ほんの一小部分の出来事に過ぎないのだ。
もっともっと酷い不公平を受けている人も、もっと悲惨なこともあるかもしれないということくらいは、野枝にも解からないことはない。
けれど、野枝はそれらの事実にかんがみて、直ちに「まず自分の生活をそのように惨めに蹂躙されないように、自分自身の生活から堅固にして行かねばならぬ」と考えてしまうことはできない。
もちろん、まず自身の生活に忠実であらねばならぬということは、生活の第一義だと野枝も考えるけれど、自身の今日までの生活を省みて、本当に意のままにしようと努力して、その努力に相当する結果がひとつでも得られたろうか?
たいていの場合、自分たちの努力に幾十倍、幾百倍ともしれない世間に漲った不当な力に圧迫され、防ぎ止められて、一歩も半歩も踏み出すことはおろか、どうかすれば反対に、底の底まで突き落されはね飛ばされなければならなかったではないか?
ただ「正しく、偽わらず、自己を生かさんがために」のみ、どれほどの無駄な努力や苦痛を忍ばねばならなかったかを思えば、いろいろな堪えがたい不当な屈辱をどうして忍ばねばならなかったかを思えば、「不公平を受ける奴は意気地がないからだ」と、ひと口に言い切ってしまうことがどうしてできよう?
自分たちはまだ、物事の批判をするのに都合のいい、いくらかの知識も持っている。
自分に対する根拠のある信条を持っているから、どんな不当な屈辱をでも忍んだり、どんな苦痛をも堪え得る。
しかし、意気地がないという、その多数の人たちにはそれがない。
単に「天道様が見ていらっしゃる」くらいの強いられた、薄弱な拠りどころでは、組織立った圧迫にはあまりに見すぼらし過ぎる。
それだから「乗ぜられ圧倒されるのが当たり前」なのだろうか?
野枝はそれだからなおさら、無知な人たちが可哀そうでならない。
気の毒でならない。
人間として持って生まれた生きる権利に何の差別があらう?
だのに、何故たゞ、無智だからと云つて、その正しい権利が割り引きされなければならないのか?
おそらく、それに対する答へは只だひとつでいゝ。
どんなに無智であろうとも、彼等はその一つの事を知りさへすればいゝのだ。
だが、彼等はそれを、何によつて知ればいゝのだらう?
『彼等自身で探しあてるまで』待つより仕方がないと云ふ人もあるだらう?
けれど、それ迄ぢつと見てゐられぬ者はどうすればいゝのだらう?
自分も生きる為めには戦わねばならない。
そして同時に、もつと自分よりも可愛想なそうな人々の為めにも戦ふことは出来ないであらうか。
(「転機」/『文明批評』1918年1月号・第1巻第1号〜2月号・第1巻第2号/『乞食の名誉』・聚英閣・1920年5月/『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』_p398~399/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p228~229)
今日まで自分にとって一番大切なこととしていた「自己完成」ということが、どんな場合にでも、どんな境地においても、自分の生活においての第一の必須条件であるということは、野枝にはだんだん考えられなくなってきた。
人間は本当にどんな場合にでも与えられるままの生活で、自分を保護することより他にできないのであろうか。
虐げられているのは少数の者ばかりじゃないのだ。
大部分の人間が、みんな虐げられながら惨めに生きているのだ。
今はもう、なんだって一番悪い状態になっているのだ。
深い溜息といっしょに、野枝はこんなことしか考えることはできなかった。
幾度考えてみても同じことだった。
ほんの些細なことからでも考え出せば、人間の生活のあらゆる方面に力強く、根深く喰い込み枝葉を茂げらしている誤謬が、自分たちのわずかな力で、どうあがいたところで、とても揺ぎもするものではないという絶望のドン底に突き落とされる。
ではどうすればいいだろう?
野枝はそのたびに、自分の力の及ぶかぎり自分の生活を正しい方に向け、正しい方に導こうと努力しているのだということにわずかに自分を慰めて、自分の小さな生活を保ってきた。
しかし、第一に野枝は手近かな、家庭というもののために、不愉快な「忍従」のし続けでだった。
……なんの価値もない些細な家の中の平和の為めに、そして自分がその家庭の侵入者であるが為めに、自分の正しい行為や云ひ分を遠慮しなければならない事が多かった。
その小さな一つ/\がやがて全生活をうづめて仕舞ふ油断のならない一つ/\である事を知りながらでも、その妥協と譲歩はしなければならなかつたのだ。
そして、それが嵩じて来ると、何もかも呪はしく、馬鹿らしく、焦立たしくなるのだつた。
(「転機」/『文明批評』1918年1月号・第1巻第1号〜2月号・第1巻第2号/『乞食の名誉』・聚英閣・1920年5月/『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』_p402/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p229)
★『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』(大杉栄全集刊行会・1925年12月8日)
★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
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