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2016年05月05日

第140回 谷中村(五)






文●ツルシカズヒコ



 野枝は黙った。

 しかし頭の中では、一時に言いたいことがいっぱいになった。

 辻の言ったことに対しての、いろいろな理屈が後から後からと湧き上がってきた。

 辻はなお続けて言った。

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『お前はまださつきのM(※渡辺政太郎)さんの興奮に引っぱり込まれたまゝでゐる。だから本当に冷静に考へる事が出来ないのだよ。明日になつてもう一ど考へて御覧。きつと、もつと別の考へ方が出来るに違ひない。お前が今考へてゐるように、皆んながいくら決心したからと云つて、決して死んでしまうやうな事はないよ。さういう事があるものか。よし皆んなが溺れやうとしたつて、屹度(きっと)救ひ出されるよ。そして結局は無事に何処かへをさまつて終(しま)ふだ。本当に死ぬ決心なら相談になんぞ来るものか。今云つている決心と云ふのは、かうなつてもかまつてくれないかと云ふ面当てなんだ、脅かしなんだ。何の本気に死ぬ気でなんかゐるもんか。もし、さうまで谷中と云ふ村を建て直したいのなら、何処か他のいゝ土地をさがして立派に新らしい谷中村を建てればいゝんだ。その意久地もなしに、本当に死ぬ決心が出来るものか。お前はあんまりセンテイメンタルに考へ過ぎてゐるのだよ。明日になつて考へて御覧、屹度今自分で考へていることが馬鹿々々しくなるから。』

(「転機」/『文明批評』1918年1月号・第1巻第1号〜2月号・第1巻第2号/『乞食の名誉』・聚英閣・1920年5月/『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』_p396~397/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p226~227)





 けれど、この言葉は野枝にはあまりに酷な言葉だった。

 彼女が今できるだけ正直で善良で可哀そうな人たちとして考えている人々の間に、そんな卑劣なことが考えられているのだというようなことを、どうして思えよう!

 だが野枝はまた「その善良な人たちがなんでそんなことを考えるものですか」とすぐに押し返して言うほどにも、そのことを否定してしまうことはできなかった。

 けれど、なお野枝は争った。

 ーーこの可哀そうな人たちの「死ぬ」という決心が、よし、辻の言うように面当てであろうと、脅かしであろうと、どうして私はそれを咎めよう。

 もしそれが本当に卑劣な心からであっても、そんなに卑劣にしたものはなんだったんだろう?

 自分の力で立つことができない者は、亡びてしまうより他に仕方がない。

 そうして自から自分を死地に堕すところに、思い切り悪く居残っている者が亡びるのは当然のことだ。

 それに誰が異議を言おう。

 だのに、私はなぜその当然のことに楯つこうとするのだろう?ーー

 野枝はそこに何かを見出さなければならないと思い焦りながら、果てしもない、種々な考えの中に何も捕捉しえずにいた。

 なんとなく長い考えのつながりのひまひまに襲われる、漠然とした悲しみに、床についても、とうとう三時を打つごろまで野枝の目はハッキリ灯を見つめていた。

 辻は谷中村のことで野枝と議論したこのときのことを、こう振り返っている。





 大杉君も『死灰の中より』(ママ/『死灰の中から』)にたしか書いてゐる筈(はず)だが、野枝君が大杉君のところへ走つた理由の一つとして、(※辻が)社会運動に対する熱情のないことを慊(あき)たらず、エゴイストで冷淡だなどとなにかに書いたこともあつたやうだ。

 渡良瀬川の鉱毒地に対する村民の執着――見す/\餓死を待つてその地に踏み止どまらうとする決心、――それを或る時、渡辺君が来て悲愴な調子で話したことがあつたが、それを聴いてゐた野枝さんが恐ろしくそれに感激したことがあつた。

 僕はその時の野枝さんの態度が少し可笑しかつたので、後で彼女を嗤(わら)つたのだが、それがいたく野枝さんの御機嫌を損じて、つまり彼女の自尊心を多大に傷(きずつ)けたことになつた。

 僕は渡辺君を尊敬してゐたから渡辺君がそれを話す時にはひそかな敬意を払つて聴ゐていたが、また実際、渡辺君の話しには実感と誠意が充分に籠つてゐたからとても嗤うどころの話ではないが、それに対して何の知識もなく、自分の子供の世話さへ満足に出来ない女が、同じやうな態度で興奮したことが僕を可笑しがらせたのであつた。

 しかし、渡辺君のこの時のシンシヤアな話し振りが彼女を心の底から動かしたのかも知れない。

 さうだとすれば、僕は人間の心の底に宿つてゐるヒュウマニティの精神を嗤つたことになるので、如何にも自分のエゴイストであり、浮薄でもあることを恥ぢ入る次第である。

 その時の僕は社会問題どころではなかつた。

 自分の始末さへ出来ず、自分の不心得から、母親や、子供や妹やその他の人々に心配をかけたり、迷惑をさせたりして暮らしてゐたのだが、かたはら僕の人生に対するハツキリしたポーズが出来かけてゐたのであつた。

 自分の問題として、人類の問題として社会を考へて、その改革や改善のために尽すことの出来る人はまつたく偉大で、エライ人だ。


「ふもれすく」/『婦人公論』1924年2月号/『ですぺら』・新作社・1924年7月/『辻潤全集 第一巻』_p396~397)



★『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』(大杉栄全集刊行会・1925年12月8日)

★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)

★『辻潤全集 第一巻』(五月書房・1982年4月15日)



●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 14:14| 本文
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1955年生まれ。早稲田大学法学部卒業。『週刊SPA!』などの編集をへてフリーランスに。著書は『「週刊SPA!」黄金伝説 1988〜1995 おたくの時代を作った男』(朝日新聞出版)『秩父事件再発見』(新日本出版社)など。
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