2016年05月05日
第139回 谷中村(四)
文●ツルシカズヒコ
渡辺政太郎(まさたろう)、若林八代(やよ)夫妻が辞し去ってから、机の前に坐った野枝は、しばらくしてようやく興奮からさめて、初めていくらか余裕のある心持ちで考えてみた。
けれど、その沈静は野枝の望むような批判的な考えの方には導かないで、なんとなく物悲しい寂しさをもって、絶望的なその村民たちの惨めな生活を想像させた。
野枝の心は果てしもなく拡がる想像の中に、すべてを忘れて没頭していた。
『おい、何をそんなに考え込んでゐるんだい?』
余程たつて、Tは不機嫌な顔をして、私を考への中から呼び返した。
『何つて先刻からの事ですよ』
『何んだ、まだあんな事を考へてゐるのかい。あんな事をいくら考へたつて何うなるもんか。それよりもつと自分の事で考へなきやならない事がうんとあらあ。』
「そんな事は、私だつて知つてゐますよ。だけど他人の事だからと云つて考へずにやゐられないから考へてゐるんです。』
私はムツとして云つた。
何うにもならない他人の事を考へるひまに、一歩でも自分の生活を進めることを考へるのが本当だと云ふ事位知つている。
Tの個人主義的な考への上からは、私が何時までも、そんな他所事を考へてゐるのは、馬鹿々々しいセンテイメンタリストのする事として軽蔑すべき事かもしれない。
現に今日私とM氏との間に交はされた話も、彼には普通の雑談として聞かれたにすぎない。
けれど、今私を捉へてゐる深い感激は、彼の所謂(いわゆる)幼稚なセンテイメンタリズムは、彼の軽蔑位には何としても動かなかつた。
そればかりではない。
今日ばかりはさうした悲惨な話に無関心なTのエゴイステイツクな態度が忌々しくて堪らないのであつた。
(「転機」/『文明批評』1918年1月号・第1巻第1号〜2月号・第1巻第2号/『乞食の名誉』・聚英閣・1920年5月/『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』_p393/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p224~225)
「他人のことだからといって、決して余計な考えごとじゃない、と私は思いますよ。みんな同じ生きる権利を持って生れた人間ですもの。私たちが自分の生活をできるだけよくしよう、下らない圧迫や不公平をなるべく受けないように、と想って努力している以上は、他の人だって同じようにつまらない目には遇うまいとしているにちがいないんですからね。自分自身だけのことを言っても、そんなに自分ばかりに没頭のできるはずはありませんよ。自分が受けて困る不公平なら、他人だってやはり困るんですもの」
「そりゃそうさ。だが、今の世の中では誰だって満足に生活している者はありゃしないんだ。皆それぞれに自分の生活について苦しんでいるんだ。それに他人のことまで気にしていた日には、きりはありゃしないじゃないか。そりゃずいぶん、可哀そうな目に遇ってる者もあるさ。しかし、そんな酷い目に遇っている奴らは、意気地がないからそういう目に遇うんだと思えば間違いはない。いつでも愚痴をいってる奴にかぎって弱いのと同じだ。自分がしっかりしていて、不当なものだと思えばどんどん拒みさえすればそれでいいんだ。世の中のいろんなことが正しいとか正しくないとか、そんなことがとてもいちいちと考えられるものじゃない。要するに、みんなが各々に自覚をしさえすればいいんだ。今日の話の谷中の人たちだって、もう家を毀されたときから、とても自分たちの力でかなわないことは知れきっているんじゃないか。少しばかりの人数でいくら頑張ったってどうなるものか。そんなわかりきったことに、いつまでも取りついているのは愚だよ。いわば自分自身であがきの取れない、深みに入ったようなもんじゃないか」
「そんなことがわかれば苦労はしませんよ。それがわかる人は買収に応じてとうに、もっと上手な世渡りを考えて村を出ています。何も知らないから苦しむんです。一番正直な人が一番最後まで苦しむことになっているのでしょう? それを考えると、私は何よりも可哀そうで仕方がないんです」
『可愛想は可愛想でも、そんなのは何にも解らない馬鹿なんだ。自分で生きてゆく事の出来ない人間なんだ。どんなに正直でも何でも、自分で自分を死地におとしていながら何処までも他人の同情にすがる事を考へてゐるやうなものは卑劣だよ。僕はそんなものに向って同情する気にはとてもなれない。』
(「転機」/『文明批評』1918年1月号・第1巻第1号〜2月号・第1巻第2号/『乞食の名誉』・聚英閣・1920年5月/『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』_p396/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p226)
★『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』(大杉栄全集刊行会・1925年12月8日)
★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
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