2016年08月14日
第322回 暁民会
文●ツルシカズヒコ
大杉豊『日録・大杉栄伝』によれば、一九二〇(大正九)年十二月四日、横浜市在住の吉田只次宅で開催された同志集会に、大杉と野枝が出席した。
欧州から帰国した石川三四郎が講演したが、大杉と石川は七年半ぶりの再会だった。
『日録・大杉栄伝』によれば、牛込区山吹町・八千代倶楽部で、暁民会主催の講演会が開催されたのは十二月五日だった。
聴衆約四百人、大杉も講演者として参加していたが警察の解散命令が出て講演会は混乱。
大杉の発声で「社会主義万歳」を連呼しながら、一同は第二会場の早大グラウンド前の広場へ向かった。
このとき十九歳、中央大学の学生だった岡本潤は初めて見た大杉の姿を、半世紀後にこう回想している。
ぼくが大杉という人物をはじめて見たのは……高津正道らの暁民会が戸塚が原で野外演説会をひらいたときのことである。
……出る弁士は片っぱしから臨検の中止を食い、何人目かに大杉が現われた。
筒っぽのきものの上にレインコートを着て、頭にはトルコ帽、フランス風のあごひげをはやした大杉は、特徴のある大きな目玉をギョロッと光らし、うまれつきのドモリで何かひとこと言ったかと思うと、臨監がたちまち「弁士中止!」と叫んだ。
「バ、バ、バカヤロー、おれは、おれはまだ、なにも言っとらんぞ!」と、大杉はどなりかえした。
その勢いに圧倒されながら、臨監が虚勢を張って肩をいからし、「検束!」と叫ぶ。
数人の警察官がサーベルをガチャつかせて、大杉の身辺へ駆けよった。
「警官横暴!」「弾圧やめろ!」という声が主催者や聴衆のなかからわき起って、あたりには険悪な空気がみなぎっていた。
「おい、車を呼べ、車を。キサマらがおれにこいと言わなくても、おれのほうから警視総監に言論弾圧の抗議をしに行ってやるんだ。さア、はやく車を呼ばんか。そうしないと、おれはここを動かんぞ!」
そう言ってどっかり坐りこむと、おちつきはらって煙草を吹かしはじめた。
不敵とイタズラ気と謀叛気のかたまりのような大杉の本領を発揮した行動だろうが、まるで千両役者の演技でも見るように、集まった聴衆のなかから拍手喝采がおこった。
始末にこまった臨監は巡査に命じて、人力車を一台つれてこさせた。
大杉はニヤッと笑って、
「やア、ご苦労。じゃ諸君、ぼくは警視総監に抗議に行ってくるからね。かまわずに演説会をつづけてくれたまえ。」
聴衆に向かって手を振りながら、警官につきそわれて悠然と車に乗って行った。
ぼくがはじめて見た、こういう人を食った大杉栄の姿は、いまもぼくの網膜にやきついている。
(『詩人の運命 岡本潤自伝』)
ちなみに、岡本は近藤憲二についてこう書いている。
大杉のふところ刀といわれたコンケン=近藤憲二は、早大出身の若手で、色白のキリッとひきしまった顔の口もとに傷痕があり、それがいっそうかれに精悍な感じをあたえていた。
無口で敏捷な近藤は尾行をまく名人でもあったので、スパイなどからはとくに警戒されていた。
のちにぼくのところへもくるようになった警視庁のアナ系刑事が「コンケンくらい、ぼくらを困らせるやつはいないよ」とコボシていたことがある。
後年、ぼくは近藤といっしょに平凡社で百科事典の仕事をすることになったが、そのときぼくは、それまで知らなかった近藤の半面に接する思いがした。
精悍な近藤は半面、じつに細かいところに気をくばる緻密な神経のもちぬしで、それは几帳面ともいえる手ぬかりのない仕事によくあらわれていた。
その点を社長の下中弥三郎に高く買われていたようである。
(『詩人の運命 岡本潤自伝』)
吉田一(はじめ)についての記述もある。
鍛冶工の吉田一(みんなはピンと呼んでいた)は、浅草観音の仁王のようなたくましい体格で、北風会のなかでも、あばれ者の随一とみられていた。
はえぬきの労働者で、理屈ぎらい、行動一点ばりの男だったが、かれが大杉栄について、こんなふうに言ったことがぼくの耳にのこっている。
「スギ(大杉)は、おれたちにむかって、ああしろとか、こうしろとか、そんなことは一ぺんも言ったことがねえ。だけどな、スギの話を聞いて、あの目玉を見ていると、どういうわけだか知らねえが、ああしなきゃならん、こうしなきゃならんというような気もちが、ひとりでに起ってくるんだ、そこがスギのえらいところじゃねえかなーー」
(『詩人の運命 岡本潤自伝』)
★大杉豊『日録・大杉栄伝』(社会評論社・2009年9月16日)
★『詩人の運命 岡本潤自伝』(立風書房・1974年)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
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