2016年03月19日
第24回 おきんちゃん
文●ツルシカズヒコ
年が改まり、一九一二(明治四十五)年、学校は三学期になった。
野枝はほとんど何もやる気が出なかった。
苦悶は日ごと重くなり、卒業試験の準備などまるですることができなかった。
「辻先生と野枝さん」と誰からとなく言われるようになったころ、野枝は辻とおきんちゃんが接近するのをじっと見ていた。
野枝は、見当違いのことを言われるのがおかしくて、鼻の先で笑ったり怒ったりして見せていた。
しかし、野枝もかなり接近していたのは事実だった。
それは主に趣味の上の一致だった。
野枝は同級生のように呑気な気持ちにはなれなかった。
先生との恋愛関係みたいなことで騒ぐ余裕は全然なかった。
みんなの噂は本当に絵空事だった。
しかし、辻とおきんちゃんとの関係はかなり怪しいと、野枝は感じていたが、それをみんなに話すほどの興味も感じなかった。
野枝は自分自身の気分にひたすら圧迫されていた。
野枝は代千代子と一緒に佐藤教頭の家に寄宿していたが、一月のある月曜日、教頭先生とそのふたりの子供、千代子と五人で日比谷に遊びに行った。
三時ごろ教頭先生の家に戻ると、おきんちゃんと野枝のクラスのEと前年の卒業生が訪ねてきたと女中が言った。
今しがた帰ったばかりだというので、野枝と千代子が停車場に行ってみると、三人はそこにいた。
野枝と千代子が教頭先生の家に引き返すことを勧めたが、四時までに帰らなければいけないのでそれはできないという。
そうしているうちに電車が来た。
野枝が千代子に「じゃあ、千代子さん、駒込まで送りましょうか」と言いながら、身軽にひらりと電車に飛び乗った。
「いいわ、お気の毒だから本当に、ね」
と三人は言ったが、千代子も電車に乗ってしまった。
三人の顔に当惑の色が浮かんだ。
「駒込からすぐにお帰りになるの野枝さん」
とEが聞いた。
「ええ、そうね。辻先生のところへ寄ってもいいわね、千代子さん」
「そうね、寄ってもいいわ、そして墓地抜けましょうか」
「それがいいわ」
三人は顔を見合わせた。
「私たちも寄りましょうか一緒にーー」
おきんちゃんが気軽に言うと、野枝はカッとなった。
「辻先生のところへ寄るくらいなら、なぜ私のところへ帰って下さらないんです! ちょっとだっていいじゃありませんか、少しひどいわ」
「よしましょうか。遅くなるわね」
と、Eさんが野枝の顔を窺いながら言った。
どっちつかずのことを言ってるうちに、電車が駒込に着いた。
「どうするの?」
野枝がムカムカしながら、そう言って電車から降りた。
三人はしばらくぐずぐずしていたが、やがて降りてきた。
野枝には三人の気持ちが見え透いていた。
最初からここへ来るつもりだったから、「四時までに帰らなければ……」なんて嘘をついたのだと思うと、女らしいいろんな小細工をして、下らない隠し立てをしているのが不愉快になった。
電車を降りた三人は何か相談をしていた。
野枝が皮肉な目でじっとEを見つめると、人のよい彼女はおどおどしたような困った顔をした。
野枝はなんだか快いものを感じた。
野枝と千代子が三人のところに行くと、おきんちゃんは黙って俥(くるま)に乗った。
足が痛いことを口実にしてーー。
野枝はフフンと笑いたくなった。
残されたふたりは道を知らないという。
野枝は不快だったので行かないと言ったが、道を教えてやってきわどいところで逃げてやろうと思い、一緒に行った。
ふたりはこのあたりの地理にまったく不案内だったので、野枝はできるだけ遠回りをして、ふたりを引っぱり回した。
途中で馬鹿なお供をしていることが嫌になり止そうと思ったが、こんなところで彼女たちをほっぽり出しても仕方がないので、意地の悪い目をして皮肉を言っては、Eの困ったおどおどした顔を見てある快感を覚え、腹いせをしながら歩いた。
ふたりを辻の家の門まで送りつけ、すぐに引き返した。
ふたりは後を追っかけてきたようだが、見向きもせずに急いだ。
しかし、不快な念はどうしても押さえることができなかった。
翌日、学校に行くと、Eはうつむいてばかりいた。
野枝は意地の悪い顔をしてジロジロ見た。
やがて、Eが小さな声で言った。
「ごめんなさいね。昨日は本当に悪かったわ」
「なに別に悪いこともしないじゃありませんか」
「でも悪かったわ、ごめんなさいな」
「私、あなたからお詫びされる覚えなんかありませんもの、なんですいったい」
野枝の声には薄気味の悪い落ち着きと意地の悪い冷たさがあった。
人のいいEは辛そうに首を垂れた。
「でも怒ってらっしゃるでしょう。今におきんちゃんもお詫びに来ますからーー」
「何を怒っているんです。おきんちゃんが何で私にお詫びするんです。そんなことちっともないわ」
そう言い放って、野枝は教室を出て行った。
「小さな、ケチな根性だね、おまえは」と自分に言いながら、野枝はやっぱりケチな根性に負けていた。
おきんちゃんが来た。
しかし、野枝はまるで相手にしないような態度を見せて追っ払った。
みんなが不思議な顔をして見ていた。
辻に対してもなんとなく一種の軽侮を感じ始めた。
野枝はまたイライラして、本当にまあどうしてこんなにイヤなケチケチした了見を持っているんだろうと思った。
自分が嫌になってきた。
しかし、他人にはなおのこと同感できなかった。
何を読んでもおもしろくなくなった。
すべてがつまらなくなった。
野枝は「惑ひ」の終わりの方で、自分の辻に対する感情をこう分析している。
併(しか)し今考へて見ると、その当時は色々な複雑な考察にわづらはされて苦悶を重ねてゐたときだから意識に上らなかつたのだけれども男に対する愛はその頃から芽ぐんでゐたのだなと町子は考へないわけにはゆかなくなつてしまつた。
(「惑ひ」/『青鞜』1914年4月号・第4巻第4号/『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』_p275/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p114)
つまり、野枝が辻を恋愛対象として意識し始めたのは、上野高女五年の三学期のころだったということになる。
「惑ひ」は『青鞜』一九一四(大正三)年四月号に掲載されたので、野枝は二年後に、冷静に自己分析をして文章化したのである。
★『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』(大杉栄全集刊行会・1925年12月8日)
★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)
●伊藤野枝 1895-1923 index
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