2016年03月19日
第25回 抱擁
文●ツルシカズヒコ
上野高女の卒業が間近になったころのことについて、野枝と同級の花沢かつゑはこう書いている。
……三月の卒業も間近になった頃友達は皆卒業後の夢物語に胸をふくらませておりました。
或る人は外交官の夫人になりたいとか、七ツの海を航海する船乗りさんの奥さんになりたいとか、目前の卒業試験も気にならず、将来の明るい希望の事ばかり語り合っておりましたが、野枝さんは、やっぱり私達より大人でした。
私は卒業すれば九州へ帰らなければなりませんからしばらくあなた方とはお別れですが、必ず東京へは出て来るでしょう。
そして、私は人並みの生き方をしませんからいずれ新聞紙上でお目にかかる事になるでしょう。
そうでなくて、九州に居るようになれば玄界灘で海賊の女王になって板子一枚下は地獄の生活という生き方をするかも知れないわよなどど大言壮語して私達を煙に巻いていましたが。
(花沢かつゑ「鶯谷の頃から」/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』「月報2」)
上野高女五回生の卒業式が行なわれたのは、一九一二(明治四十五)年三月二十六日だった。 『定本 伊藤野枝全集 第一巻』の口絵には、卒業証書と卒業写真が載っている。 最後列右から四番目が野枝である。 そっぽを向いてふてくされた表情をしている。 前から二列目の左端が辻。 前から三列目、左から六番目が千代子である。 最前列中央が校長の小林弘貞、左が教頭の佐藤、その左が西原と思われる。 |
瀬戸内寂聴『美は乱調にあり 伊藤野枝と大杉栄』(p83)には、「卒業式には辻は姿を見せず、記念写真をとる時にもあらわれなかった」(辻が風邪気味で熱があったので)とあるが、これは瀬戸内の事実誤認か創作である。
「伊藤野枝年譜」(『定本 伊藤野枝全集 第四巻』)によれば、卒業式の翌日、三月二十七日に野枝は辻潤と上野公園、竹の台陳列館に故青木繁君遺作展覧会(『美術新報』主催第三回展覧会の一部として開催)を見に行き、初めて辻に抱擁され、その夜、代一家と帰郷したとある。
野枝の創作「動揺」によれば、卒業式前後の野枝の心境や行動は、こんなふうだった。
三月になり野枝は故郷に帰るまいと決心した。
しかし、従姉の千代子も一緒に帰ることになっているので、一度は東京を一緒に出なければならない。
途中で千代子から離れて、しばらく隠れていようと思った。
二十六日が卒業式だ。
野枝はいろいろ準備をしておこうと思ったが、突然、千代子の祖父(代準介の父)が死去、二十七日に帰郷しなければならなくなり、準備をする時間がなくなった。
二十六日の卒業式後は悲痛な思いで、遅くまで学校に残った。
ちょうどそのとき、青木繁の遺作展をやっていたので、二十七日にすべてのことを捨ててそれを観に行くことにした。
一緒に行こうと言ってくれたのは、辻だった。
二日ぐらい前から心が激動していたので、落ち着いて青木繁の遺作を観ることができなかった。
そしてそのかへりにはじめて何の前置もなしに激しい男の抱擁に会つて私は自身が何かをも忘れてしまひました。
惑乱に惑乱を重ねた私はおちつく事も出来ずにそのまゝ新橋に駆けつけました。
新橋には多勢のお友達や下級の人たちが来てゐました。
従姉はさきにいつてゐましたが私のおそかつた為めに汽車の時間には後れたのです。
私は再び小石川まで帰つてまゐりました。
再びその夜十一時にたつ事にして新橋に行きました。
私共に絶えず厚意をもつて下すつた三人の先生がおそいのもかまはず送つて下さいました。
(「動揺」/『青鞜』1913年8月号・3巻8号/『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』_p176/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p34)
井出文子『自由それは私自身 評伝・伊藤野枝』(p46)によれば、『謙愛タイムス』の編集を通じて野枝と辻の親交は深まり、「朝来るときも帰りもいつも二人は一緒だった」(友人の証言)という関係になり、辻の帰りが遅いときは野枝も音楽室に残り、オルガンを弾いて歌いながら辻を待っていた。
卒業式の後も、ふたりはいつものように音楽室で遅くまで弾いたり歌ったりした。
明日は東京を立ち郷里に去らねばならぬ野枝。
ふたりは出発の前に別れを惜しんで、前年、二十九歳で夭折した青木繁遺作展を観に行くことにした。
この展覧会には有名は「わだつみのいろこの宮」が出品されていた。
花沢かつゑも新橋駅に野枝と代千代子を見送りに行ったという。
……私達七、八人の友達と佐藤先生・西原先生も御一緒に、この二人を送るべく新橋駅で約束の時間を待っておりました。
代さんは御両親と一緒に駅で待っておられましたが、所定の時間になっても野枝さんの姿が見えません。
だんだん発車の時刻が迫って来ましたので、代さん達も気を揉み始め、皆イライラしておりましたが、野枝さんはとうとうその時間には来ませんでした。
結局代さんや野枝さんは夜の汽車で改めてたつ事になりましたので、私達はそこでお別れして帰って来ました。
後で聞きました事ですが、その夜の汽車で代さんと野枝さんの一行は無事に九州へ帰られたのでしたが、その夜も佐藤先生と、西原先生は駅まで改めておいでになりお見送り下さったとの事でした。
(花沢かつゑ「鶯谷の頃から」/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』「月報2」)
代家の記述に関しては最も信頼できるであろう、矢野寛治『伊藤野枝と代準介』によれば、上野高女卒業式前後の経緯はこう記されている。
……上野高女卒業式前々日に代準介の実父代(三苫)佐七が亡くなり、代は急遽長崎に戻った。
代の妻キチと娘の千代子、姪のノエは式後、東京駅から博多に帰省する。
(矢野寛治『伊藤野枝と代準介』_p67)
東京駅の開業は一九一四(大正三)年十二月なので、「東京駅」は「新橋駅」の間違いであろう。
★『定本 伊藤野枝全集 第二巻』(學藝書林・2000年5月31日)
★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)
★瀬戸内寂聴『美は乱調にあり 伊藤野枝と大杉栄』(岩波現代文庫・2017年1月17日)
★『定本 伊藤野枝全集 第四巻』(學藝書林・2000年12月15日)
★井出文子『自由それは私自身 評伝・伊藤野枝』(筑摩書房・1979年10月30日)
★『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』(大杉栄全集刊行会・1925年12月8日)
★矢野寛治『伊藤野枝と代準介』(弦書房・2012年10月30日)
●伊藤野枝 1895-1923 index
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